新春の風でも受けてみようかと隅田川まで歩いてみました。浅草寺は家のすぐ近くでして、その裏をぬけるとまもなく言問橋に着きます。川越しの対岸、墨田区向島はその昔、田園地帯でした。そのスペースが大正時代には関東大震災で焼け出された人たちを収容したのです。大地はこんなふうにして人びとの暮らしにかかわることもあったわけですね。

橋は渡らずに隅田川の堤防に沿って上流へ向うと、左手には常緑樹で覆われた小山が見えてきます。待乳山聖天(まつちやましょうでん)の杜です。聖天さまは浅草寺の子院でして、縁起では推古天皇九年(601年)に十一面観音が大聖歓喜天に化身して現れ、日照りに苦しむ人びとを救ったことになっています。伝承の記述ということですから証拠はないわけですが、推古天皇三十六年(628年)草創と伝えられる浅草寺などは奈良・平安時代の遺構も発見されていますし、このあたりのお寺には古い歴史がありそうです。

聖天さまの御本尊・大聖歓喜天は仏法を守護し仏道に励む人を守る天部の神。頭が象で体が人間というお姿のルーツをたどればヒンドゥー教のガネーシャ神にたどりつきます。仏教化されたイメージがインドから中国、そして朝鮮半島を経てこちら浅草まで伝わっているんですね。異国の神がここにあるということは、もちろんそれを信仰する人びとがいたわけです。

浅草のあたりはその昔、縄文時代くらいまでは海だったそうです。やがて海面が下がり、川が運んだ土砂の上にいくつかの集落ができ始め、豪族や有力者もあらわれました。仏教が渡来の宗教であり、その公伝よりも後に浅草寺が出来ていることからして、この地の開発には当時の最先端技術をもった渡来人が関わった可能性があるのだそうです。浅草はたぶん広大なアジアとつながっていたのでしょう。わたしたちがこの土地に感じる“曰く言い難い懐かしさ”といった雰囲気も、案外このあたりからきているのかもしれません。

待乳山は石段にして四十段ほどの高さですから、山というには小振りです。でも、江戸時代には東都随一の名勝といわれました。関東大震災で山の地盤が沈下したとも聞きますし、古地図などを見ると隅田川はもっと川幅が広かったようです。かつては彼方に筑波山を望み、足下に「竹屋の渡し」をひかえたこの名所をたくさんの絵師たちが描きました。葛飾北斎もそのひとりです。

北斎の仕事でお馴染みなのは「冨嶽三十六景」あたりでしょうか。富士山を描いたこのシリーズで浮世絵風景画のスタイルを確立したのは御存知の通りですけど、そのほかの分野、たとえば花鳥画、歴史画、肉筆美人画といった方面でも高みを極めた巨匠です。十九歳で浮世絵師・勝川春章に入門した彼はその後、さまざな画法を吸収しながら独自の画風を打ち立てました。ひとつの世界を構築するなり、ときにはあっさりとその雅号まで替えながら、さらなる画境を求めて挑み続けた姿は破格のものです。膨大な数の作品のなかにはこの待乳山を描いたものもありまして、よほど気に入ったのでしようか、最晩年をこの山のすぐ近くで過ごしています。

待乳山の横には山谷堀が流れています。江戸で「堀」といえばこの山谷堀をさすほどで、猪牙船(ちょきぶね)という快速船で隅田川からここを上って吉原にくり出すのが当時のお大尽遊びでした。「暗渠」といいますから現在は蓋をされた水路ですが、その上を長い緑道公園が覆っています。そこを四、五分ほど歩いて脇に入ったところの遍照院が北斎終焉の地といわれています。

遍照院は浅草寺の支院でした。寺院関係の古い資料を調べると、明治以前に浅草寺の支院は三十四カ所ほどあったそうで、そのすべてが賃料を徴収して境内を住宅用に貸し出していたようです。寺院を取り巻く信仰中心の小さな市街がいくつもあって、その境内に貸家が並んだのを「隠し町」と呼んだとか。

嘉永2年(1849年)北斎はこの遍照院の仮宅で亡くなりました。 享年九十歳。遍照院は当時と同じ場所にあるものの、かつては少なくとも九百坪はあったはずの境内もだいぶ狭くなりました。見渡しても古めかしいものはありません。お寺の方の話では、代々の住職が外から来られたとのことで記録も残っていないそうです。そういうことで、ここには絵師を偲ぶものが何もないのです。生涯に九十回以上も転居したという北斎にとっては、ここもやっぱり仮の宿だったわけですね。

わたしはこのところ北斎の精神力のことを想っていたのです。あれほどの絵師ですから、何ごともひとつの場所にいながら流していけば、この世はさぞかし楽なものだったでしよう。「勝川春朗」から始まり、最後の「老人卍」まで三十回余りも号を変えるというように、決して安住の地を求めることのなかったその人の、心のよりどころはいったい何だったのかと考えてしまうのです。

絵師は隅田川をはさんだ浅草の東側、本所割下水というところに生まれました。信州・小布施にも幾度か滞在しましたが、生誕の地と末期の場所は直線距離にしてニキロほどしか離れていません。墓も同じ浅草の誓教寺というところにあります。隅田川から待乳山、そして遍照院までのわずかな道のりを歩いてみると、なぜかその溢れるような生命力と、このあたりを流れる水のイメージとが二重写しになります。

ニ〇〇ニ年、一月五日、浅草は曇り。午後三時の雲の切れ間から差し込む光が遍照院の墓石を一斉に照らし出しています。「よう、お若いの‥‥」なんて聞こえるわけはありませんが、その人がひょっこりと姿でも現しそうな瞬間でした。

2002.01.14  (c) Mitsuru Iwasaki

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