非と魂で ゆくきさんじや 夏の原

 「人魂になって気晴しに行ってみるのさ、夏の野原にネ」

こんなノンキな辞世の句が浅草の誓教寺にある墓石の側面に刻まれています。墓の主は葛飾北斎。こだわりなくこの世を去ったように思えても、最期の病床では「あと五年生きられたら、本当の画工になれたのに‥‥」と語ったそうです。この句はもうひとつの世界への旅立ちにあたっての決意表明だったのでしょうか。悠然というか、超然というのか、そうした心象風景が見えてくるようです。

北斎の墓は、幕末まで父親と一緒に埋葬されていたのを改葬したものだそうで、現在は両開きの扉をつけた木製の覆いのなかにあります。ということは、墓そのものはそれほど大きくないということです。試しに(失礼のないように)墓にメジャーを近付けてみましたら、てっぺんから最下段までがおよそ百二十センチ。江戸末期には一般町民の墓の高さは四尺を越えてはならないというキマリもあったと聞きますし、破格の絵師もお墓だけは規格サイズだったかもしれません。

現在の日本のお墓の原形は中世頃から普及し始め、江戸中期以降には庶民のあいだでも定着していたようです。わたしたちにお馴染みの四角い石を三段に積上げた角碑のスタイルもその頃からのもので、これを今では単に「和型」などと呼びます。三角、丸、四角の石を積んだ「五輪塔」もよく知られていますが、その他にもいくつかの種類があります。だだし、残念ながら墓石を買うためのお金がない、そういう場合には川原の石を拾って墓標にするなんてこともあったそうですから、現実には切ない場面がいくらでもあったでしょう。

こういうお墓のルーツのひとつは、インドで釈迦の遺骨を祀ったストゥーパ(仏舎利塔)にあります。それが一般化されながら中国・朝鮮半島経由で伝わり、以前からの土着信仰やその後も輸入され続けた大陸文化と融合してできたのが「塔」の形をしたお墓ということらしいです。そのほかには――「位牌」というのはたしか「儒教グッズ」のひとつだったと思いますが――現在ではその位牌の形から発展したものがお墓の主流になったりしています。お墓に見る「日本らしさ」にはさまざまな外来文化の受容、そして習俗による変容の過程といったものが反映しているようですね。

えー‥‥と、なんでこんなことをくどくどとお話しているかといいますと、つい最近お墓を建てたからなのです。

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お寺の門を正面からくぐるのは久しぶりですが、石屋さんと一緒でした。ふるさとに父の遺骨を納める墓を建てなくてはならないのです。仏教では死後四十九日間がひとつの節目になるようで、この時期は死者の魂が現世と来世のあいだをさまよう時期なのだとか。そして、この期間の終了(満中陰)とともに死者は次の生を受ける。だから四十九日目が遺骨を墓に納めるタイミングのひとつだそうで、とりあえず納骨用の施設を確保するのが望ましいということのようです。

幸いにして先祖代々からの菩提寺に区画整理された墓地が買ってありました。正確にいうと、その部分についての使用権をもっていたということでしょうか。用意のいい父は自分が入るために外柵(囲い)と納骨室まで作っておいてくれました。すでに地下部分と地ならしができているわけですから、あとは墓石を積み上げるだけ。

石屋さんによると大体のパターンは決まっているそうで、和型であれば墓石と香炉などの付属物、塔婆立て、そして戒名などを記す墓誌が基本の組み合わせのようです。石灯籠などは必要に応じてオプションで追加します。もしかしてとは思っていましたが、やはり現代ではお墓もカタログで選ぶんですね。形は最も一般的な四角い石を積んだ和型。石のサイズは土地の面積からバランスを考えて決定。素材の御影石は小さいプレート状の見本で選び、彫り込む文字や紋など装飾関係についてはできるだけシンプルにと。しかし、ひとつだけ問題が残ってしまいました。

これからお墓を建てようとする現場で困った事態が起きているのです。墓石全体の高さはどれくらいにしたらいいのか、ということなんですけど。

墓不足の現実ということでしょうが、細かく分割された墓地にはただひとつの区域を除いて、すでに隙間なく墓石が建ち並んでいます。最後に残ったその場所にも端から順にお墓が建ち並び、更地はあと五箇所だけ。問題なのは墓石の並びが終わる最後の二つです。どちらも和型ですが、墓石の丈が異常(?)に高いのです。およそ二メートルほどでしょうか。具体的には大人のわたしがその前に立ち、腕を伸してやっと柄杓の水を掛けられるくらい。ヘタをすればこちらが水浴びです。墓地全体を見渡してもそこまでの高さのものはそれほど多くはありません。その上、並んだ二つの高さが見事に同じときている。わたしの目で見て、その差はせいぜい一センチ。どちらが後から建てたのか不明ですが、土台の部分などを微妙に調節しながら、さりげなくも強烈に張り合っているのです。

墓をどんな高さ、大きさにするかは個人(家族・遺族)の選択。追善供養として、できるだけ大きく豪華にというのもあるかもしれません。それについてこちらがとやかく言うのは控えるべきなのでしょう。でも、今度はウチが、偶然なのですが、そのすぐ隣に建てる番なのです。場所は今さら変えることができない。そこで、この局面を迎えてどんな態度をとるのか決めなくてはなりません。まずこの“競争”に参加するべきかどうかで悩みますし、どんな結末になっても隣の大きさを意識しないでいられるのかという、こちらの度量まで試されている気がしました。

で、結論なのですが、競争はしないことに決めたのです。とにかく丈の高すぎる墓は掃除がしにくいということ、そしてもうひとつは「あの世に行ってからも人様と競争することはないだろう」という家族全員の気持ちからです。

鎌倉期から続くこの寺の本堂正面には立派な賽銭箱が置かれていまして、実はそれは父が寄進したものでした。信心深いといえばその通りですし、ある意味では派手好きな人であったかもしれません。ですから、もし生きていたら「となりに負けたくはないけれど、それ以上の高さではカドが立つ」といった遠慮までしていたかどうか。いずれにしても、大きな(もしかして巨大な)墓が建っていた可能性があります。それもアリかなとは思いつつも、結局、お墓はこの墓地全体のごく平均的な高さにするということで落ち着きました。そこには、「親父、ゆっくり休めよ」というささやかなメッセージを込めたつもりなのです。(僭越ながらもうひとつありまして、それは「こういう競争は止めにしませんか」というものなんですけど‥‥。)

そんなこんなで明け暮れて、四十九日の法要まであと三日という昼下がり。石の設置の立ち会いで墓地に出向くと、そこには思いがけない光景が待ち構えていました。なんとウチの墓の隣にもうひとつの真新しいお墓が建っているのです。

墓誌を見て、父よりも十日早く亡くなった方のいらしたことが分りました。そちらはすでに四十九日の法要も終えて花と供物が捧げられています。墓のスタイルはというと「五輪塔」。なるほどこのパターンがありました。それと肝心の高さですが、目測で二メートル。うーん、やはり例の二つと同じなのです。結果的には左右三基の墓に挟まれて一段低いウチの墓でした。もちろん、そこはわたしがプロデュースしたわけでして、わりといい感じです。そういう種類の自信はあるのですが‥‥。

どうやら皆さん考えることは同じみたいですね。最後の最後に立ち止った別れ道、そこからどちらに行くかという違いだけのようです。いま振り返れば、その別れ道にしてもわたしたちを含めた“この世の者”が何かに振り回されて描き上げた幻想だったのではないかとさえ思えてきます。こういうのを「煩悩」とでもいうのでしょうか。

それにしても、墓地とは素敵なところです。子供の頃はただの遊び場でしたが、何度か訪れるうちにその素晴らしさを知りました。古い寺ですから古い墓石も拝見できる。石に刻まれた元号を読むと「元禄」なんてのもたくさんあります。それと、点在する角の取れた小さな墓標――まだ個人墓が主流の時代の石かと思いますが、いつ頃のものなのでしょう?――摩滅して文字も読めないそのひとつひとつが、蝉時雨のなかでひっそりと威厳を保ち続けています。地上のことはさておき、この地下にはおそらく整然とした世界が広がっているのでしょうね。

2002.07.25  (c) Mitsuru Iwasaki

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