このホ−ムペ−ジでもお世話になっている高橋明也氏に招待していただきまして、久しぶりに美術展のレセプションに出かけてきました。久しぶりといっても二十年前の『モーリス・ドニ展』以来のことですから、その場の雰囲気とかも忘れてしまいました。こちらも“いい歳”なんだからネクタイ締めていかなきゃマズいかな、とか些細なことで悩んだりしましたけど……。

場所は国立西洋美術館。『ウィンスロップ・コレクション――フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画展』の一般公開は九月十四日からですが、前日に開催されたレセブションでは開会のセレモニーなども行われました。

ウィンスロップ・コレクションとは法律家グレンヴィル・L.ウィンスロップ氏の蒐集した美術品のことで、ハ−ヴァ−ド大学のフォッグ美術館に寄贈されたものです。門外不出とされてきたそのなかから、今回は十九世紀イギリス、フランス絵画の秀作が選ばれての本邦初公開。ブレイク、ロセッティ、バ−ン=ジョ−ンズ、ビアズリー等のイギリス勢とアングル、ドラクロワ、モローなどフランス組の共演といった恰好の展覧会です。

日本ではイギリス絵画をじっくり観る機会があまり多くないかもしれません。美術展を見に行くのなら、そこにはビッグネームの作品が並んでいて欲しい。これは人情。フランス、イタリアといった芸術大国の巨匠の知名度を利用した方が主催者の負うリスクも少ないだろうとは想像できます。そうした部分がこういう文化事業の方向を左右する場合があったかもしれませんが、だからといって、美術展のすべてが一点豪華主義の「イベント体質」では困ります。歴史のなかの一ページ、そういう部分にも光を当てて欲しい。ウィリアム・ブレイクからラファエル前派ヘと向うイギリス美術の流れに関心をもつ人びと――これはどちらかといえば少数派かもしれません――にとっても、初公開の作品が並ぶ今回の展示は嬉しい機会となったのではないでしょうか。

会場は四つのセクションで構成されています。描かれたイメ−ジに通底する部分によって作品をまとめ、「過去と東方」「神秘と顕現」「誘惑と堕落」「象徴と偶像」というテーマごとに振り分けるという展示の仕方。だから、たとえばモローならその作品がテーマに従って複数のセクションに分かれて展示されています。こういう展示方法ですと、どのコーナーにも“美味しいところ”が出現して、順路をたどるのが単調にならなくて済むような気がします。

旧来の価値観が大きく揺れ動いた近代・十九世紀の表舞台で冒険をくり返していたのは、たとえば「写実主義」や「印象派」でした。そうした潮流を横目にして、虎視眈々と獲物を狙いながら我が道を歩き続けた画家たちの美意識を楽しませていただきます。

                  

第一室「過去と東方」のセクションは「新古典主義」の巨星、ドミニク・アングルの作品から始まります。「○○主義」「○○派」といった言葉を使うと、すべての芸術は俄然敷居が高くなってしまうわけですが、この際ですから、そういった言葉の壁はできるだけ意識の外に追い出したいところ。「ギリシャ・ローマの遠い昔を偲んで品格・風格の漂う絵を描こう!」くらいということでご勘弁をいただいて、アングルなら陶磁器のようにきめの細かいその油彩の画肌に酔い痴れてみたいのです。

オダリスク(イスラム君主の奥御殿にいた女奴隷)を絵にしたこの画家は庶民の夢と憧れを絵にしてみせました。東方や古代を主題にするについては、もちろん、公然と裸体を描くための口実というのもあります。絵筆の乱れやためらうところのない画面には安定感が満ちていまして、画家がある種の職人だとすれば、そのなかの最高位にまで上り詰めたアングルの華麗な“技”を愉しむほかにはありません。ちょっとエロチックだけれど、けっしていやらしくはない『奴隷のいるオダリスク』は一段高くせり出した赤い壁面に飾られています。

実は作品の題名も制作年もろくに見ずに順路をたどっていてうっかりしました。アングルについては、その作品が制作された時期とは逆に近い順序で並べられていたのです。わたしの流儀の悪いところで、画家がどんなテンションの高さで作品に挑んだのか、それを見極めてやろうなどと意気込むばかりで、入口近くの最初の作品、裸体の群像を描いた『黄金時代』が晩年の作とは思ってもみませんでした。

人の能力や集中力は成長とともに高まるといった図式を鵜呑みにしていたのかもしれません。それと、こちらの眼力を過信していたところがあったかも。どこか散漫な印象を受ける『黄金時代』を“若描き”と思い込んでしまったのでした。第三のコーナー「神秘と顕現」の『ラファエッロとラ・フォルナリーナ』までたどりついたところで、ようやく「ここにアングル極まれり」と納得したのですが、今回の展示のなかではそれが最も若い時期の作品でした。

ルネサンスの若き天才、ラファエッロがアトリエで恋人ラ・フォルナリ−ナ(「パン屋の娘」の意)を抱き寄せています。ラファエッロの視線は画面中央から右ヘ向い、脇に置かれた描きかけの恋人の肖像画にそそがれ、一方のラ・フォルナリ−ナはこちら観客側をじっと見ています。二つの視線は交わることなくカンバスの外へ向うのですが、けっして冷たい関係を思わせるようなものではなく、そこには穏やかな時間だけが流れているように見えます。

九十度というキツい角度に開いた二つの視線を収めて、なおも整然として破綻を招くことのない画面の緊張感。そして、できるものなら見破ってみろとでもいいたげに消し去られた筆触。これはただの好みとしかいいようがありませんが、若い気負いが成熟へと移行していくそのあたりに“わたしのアングル”はあったようです。巨匠にも全盛期というのがあるようで、「成熟」と「老い」の境界は漠然としたものであるかもしれません。そして、その「老い」はまたどこか「幼さ」に似ているようにも思えました。

詩人で画家のウィリアム・ブレイクはイギリスの人ですが、その作品がウインスロップ・コレクション柱のひとつになっているようです。今回は水彩を中心にして八点が出品されています。

聖書や神話、古典に多くを取材したこの画家の絵にはマッス(量感)を強調した人物が登場します。これがブレイクの絵の明快さにつながっていると思います。もともとモノクロームを主体にした版画家ですから、明暗による空間、立体感の描写はお手のもの。そのうえ微細な線描にもずば抜けている。技術的にはそういうことでしょうが、そうやって描かれた人物がボリュームのあるわりには不思議と重量感というのを感じさせない。描かれた物語はどれも無重力の世界で起きている出来事のように見えるのです。その作品がこの世から遠く離れた世界を描いたものだからでしょうか。ブレイクの絵のもつ宇宙的なひろがりは、ただじっと見ているだけでもこちらに浸透してくるような気がします。

それでもブレイクのファンの絶対数は多いとはいえないと思います。それはこの画家の評価されるのが遅かったことによるかもしれません。それと、版画や水彩といった分野を主にしていたことも関係しているようです。ただし、そのファンには熱心な方が多いのではないでしょうか。というのも、この人のつくりだす世界には「言葉」という別の入口もあるからです。本の挿絵版画の仕事をしたり、詩集を出したりと、生涯言葉の世界から離れることのなかったのが大きな魅力です。また、熱心な信仰に支えられて全人格的に生きたことに共感を覚える方も少なくないでしょう。一人の表現者のなかで言葉とイメージが出会い、相殺しあうことなく、そこにもうひとつの表現の領域が誕生しているのですから、これからも新たなファンは増え続けていくことでしょう。

わたしのなかのブレイクの記憶は三十何年か前にさかのぼります。図書館で広げた美術雑誌のなかの小さな絵の写真でした。それが記憶のどこかにうまいこと収まってくれたものですから、(近頃あまり自信がなくなってきましたが)そのイメ−ジは今でも比較的容易に取り出すことができます。その取り出したものを目の前にある別のブレイクの絵に重ねてみたりして、また楽しむ。出合いはそれぞれですが、絵を観る作業のうちで思いのほか重要な部分とは、見終えたあと、胸の中のどのへんに、どんなふうにして沈めておくかということなのかもしれません。ブレイクの作品から受ける印象には、どちらかといえば「静かな衝撃」とでもいいたくなるようなものがあります。今回の『復活』や『神の怒りから逃れるカイン』などにもそれがあったような気がしますが、さてどのあたりに沈めておくことにしましょうか。

ところで、この会場の入口前では音声ガイドの装置を貸し出していました。イヤホンのついたあれです。実際に使ったことがなくて、その便利さを知りません。ですが、ご本人の鑑賞のさまたげになる場合はないのだろうかと気にかかります。説明がひとつ終わったところで次の絵の前に移動して正対する、終えたらまた移動して、という状態。強制された動作ではないにしろ、何かにせかされながらというふうにも映ります。もっとも、なかには絵の前で腕組みをして、じっと動かずにいる方もいらっしゃるようでした‥‥しかもその目は閉じたままで。

                  

展示を見ながらですが、高橋氏を探しました。今回の展覧会は直接の担当ではなく、多少はゆとりがありそうなどと聞いていましたので、少しばかりお話をとお願いしてあったのです。でも、招待客の応対に追われ続けているようで、ちょっと近づける雰囲気ではありません。

この展覧会のポスターとカタログの表紙にはギュスターブ・モローの『出現』という作品が使われています。つまりこれが“目玉作品”の代表格であるということ。裸身に近い格好の女性がおののき見上げる先には宙に浮いた生首が‥‥。このイメ−ジは一度見たら忘れることのできないものです。『出現』についてはカタログのなかに興味深い論考が掲載されていました。そのことなども含めまして、この続きはまた次回ということで。

2002.09.20  (c) Mitsuru Iwasaki

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