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このわたし、浅草に住んでおりまして、家から歩いて数分のところに通称「六区」という場所があります。かつて興行街として栄えた一角に軒を並べるいくつもの映画館。散歩がてら、その外壁の看板を見上げたりするのがまた楽しいのです。 主演男優の鼻の穴にわたしのげんこつが入るくらいなので、この看板は驚くほど大きく印刷されています。屋外の現象としてインパクトも充分。映画の看板はどこから見ても立派な鑑賞物なのでした。 さて、ではこれが絵画だったらどうなのだろうと考えてしまいます。とりわけ細密画ともなると、小さな“蟻さん”にでもならない限りその醍醐味が実感できないのかもしれません。それよりなにより、わたしにはこの奇妙な言葉、「細密画」の意味だってよくわからないんです。 たとえば、わたしはペン画なども描きます。この場合、わたしのやり方は画面にポツ、ポツと小さな点を打っていく描き方なのです。小さな点が無数に集まってできている絵ということです。ですが、その本人にしてもペン先だけを見つめて作業に集中していると、なんだかワケがわからないことになってしまうのです。 その絵は、全体としては何かの形をあらわしているわけですし、本人もそのつもりで描いています。ですが、たまたま描きかけの一部分に目をこらしてみると、今眺めているのはただの点の集まりにすぎないのではないか、と思えてきます。こんなとき、わたしは果して絵を描いているのだろうか、いや、ただの「点」を描いているだけじゃないのか、といった不安な気持ちにかられます。あわてて視野をひろげてみて、この点の集合が結果として絵になるのだとわかってホッとしたりするのです。それで気を取り直して再び点を打ち始めてみると、またもや、「オレはただの点を描いているだけじゃないのか?」とかいう……。 なんだか、まわりくどいですよね。「細密画」という呼び方には、それを眺める距離の問題が含まれているのではないか、ということをいいたいのです。 たとえば、ジュースのパッケージに印刷された本物そっくりのリンゴの絵。これを見て「よくできた細密画だ」なんて思います。でも、その原画をご覧になったら、きっとビックリされるでしょう。だって、原画は印刷されたものよりも遥かに大きく描かれていたりするのですから。 大きく描いて、小さく印刷する。印刷された状態での“見た目の精度”を上げるために、リンゴをマスクメロンくらいに描くのも珍しくはありません。で、こういう絵のことを一般に「リアル・イラストレーション」などと呼びます。もちろん、リアル・イラストのなかには同時に「細密画」であるものもありますが、案外さらっと描いたものやエアー・ブラシという道具でぬめっと仕上げたものもあります。すべてを含めて「細密画」と受け取られてしまうところにも混乱があると思うのです。 それと、もっと困るのが「複製」という問題。原画の存在を意識したことのない人にとって、この「小さく印刷されたリンゴ」そのものはまぎれもなく「細密画」なのです。これも事実なので、よけいにアタマが痛くなるんです。オリジナルと複製の関係については、だいぶ以前から指摘されてきました。 「それじゃアナタはどうなの?」ときますよね。とりあえず具体的に決めていることがありまして、理想を交えて、ちょっとだけお話します。 まず、できるだけ実物を超えない大きさで描くこと。絵の作業としては苦労しますが、これでアタマはスッキリ。それと、なるべく写真に頼らないこと。ですから、空中に浮いた「風船」を描くときなんかもう大変でした。まず、透明なアクリル板で作った台に風船を載せ、風はマズいので窓を閉め切り、デッサンから始めて二ヶ月間……。 つまりは、“ごく普通の”写実的な絵画なのでした。でも、この「普通」って言葉、これがまたよくわからないんですね……。 |
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2001.04.17 (c) Mitsuru Iwasaki |