画家は一枚の絵で何を表現しようとするのか。と切り出すと、これはかなり難しい問題になってしまいます。絵画、たぶんそれは窓でしょう。窓の向うの景色を演出したのは画家本人ですが、人はそれを眺めて考え込みます。そして、それぞれに答えを出して納得してみたりもするようです。

ポップ・ソングのスタンダード、サイモン&ガーファンクルの『ボクサー』の歌詞のなかには「人は自分が聞きたいところだけ聞いて、残りは無視する」とあります。ジョン・レノンは『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』という曲のなかで「目を閉じて、見たものを好きなように誤解しておけば、生きることなんて楽なもんだよ」と皮肉っています。「表現の自由」があるわけですから、もちろん「鑑賞の自由」だってあるはずです。

画家が自身の仕事について何かを語ったとしても、そのすべてを信用することはできません。これは絵かきが嘘つきだということではなくて(もちろん人間ですから嘘もつくでしょうけれど)、本人にすらわからないことがたくさんあるだろうと思うのです。そのわからないものやちょっとした嘘も交えながら語ったのが画家の言葉ということになりそうです。もし、何もかもを言葉に置き換えることができるのなら、最初から絵など描く必要はないでしょう。だから、おそらく絵というもののなかには作者にさえ説明しきれない「ゆらめき」のようなものがある。そうしたものを、例えば画家の岸田劉生なら「そこにあることの不思議さ」と白状したはずです。画家の言葉に真実味が漂うのはこのあたりかなと思うのです。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ。『ラファエル前派』と呼ばれる十九世紀イギリスの絵画グループの中心にいた画家のひとりです。会場に並ぶこの人の大きい絵はとても目立ちますし、きれいです。どうやらそれぞれの絵には物語らしきものがあるらしく、物思いにふけり、あるいは壁際にたたずむ女性を取り囲むようにして、画面のあちこちには薔薇だとか百合の花みたいなものが描き込んであります(なんとチカチカした星までも!)。「あれは少女マンガだよ」みたいなことをいう人もいますし、実際、わたしもそんなふうに感じるのです。

すべての作品がそうだとはいえませんが、ロセッティの絵を見ていると、なぜかゆらめきを感じることが少ない気がします。つまり、その絵の多くはかなりの部分までが言葉で説明できてしまう感じなのです。一見、画面のどこを押しても情感がじわっと滲み出てきそうな作品。まるで、たっぷりのだし汁で煮た高野豆腐のようにも思えるのですが、悲しいかな、始めからその味のおよそが予想できてしまう。描き出された物語はすでに完結してしまっているのではないか、そして画面はオマケの説明図に過ぎないのではないか――だから、その絵には観客それぞれの自由な解釈を許さないようなところがあるのではないかと、そんなふうに思えてきまして、わたしはどこか面白くありません。

こんなふうにいちゃもんをつけてはみたものの、別の考え方もできそうです。観客の期待する通りの結末を用意しておいて、最終的には安心感を与えるためだけにつくられる美術。そういうものがあってもいいのではないかと。どこまでも追い求めていく絵画と、少し先のところでこちらを待っていてくれる絵、どちらもアリかなとは思うのです。テレビドラマ『水戸黄門』の筋書きがどうであれ、最後にはあの「印籠」が出てこなけりゃ視聴者の多くは納得しません(わたしもそのひとりです)。そういう事情はわかるつもりなのですが‥‥。

                  

ギュスターブ・モローの『出現』は楽しみにしていました。なんてったってそのイメージがすごいのです。薄暗い広間みたいなところで妖艶な女性が踊っています。そして、彼女が見上げる空中には血をしたたらせた生首が浮かんでいます。女性はサロメ、首は洗礼者ヨハネのもの。

ヨハネを処刑したいと考えたヘロデ王は娘のサロメに舞いを披露させて、その褒美にとヨハネの首を求めさせます。――聖書に取材した作品ですが、ヨハネの首が空中に浮いたという記述はなく、かならずしもその通りに描いているというわけではないようです。そうした奇態だけではなく、なぜか見ているこちらが画面のなかに取り込まれて揺さぶられているような、めまいに似た感じを覚える絵なのです。モローはこれと同じ図柄のものを他にも描いていまして、以前から気になっていました。

喜多崎親氏(一橋大学大学院助教授)はこの展覧会のカタログに『侵出するヴィジョン』と題して、絵画に表現された時間と空間についての論文を載せています。モローの『出現』についてもふれていて、この作品に描かれた情景のなかの時制と次元の不一致を指摘しています。

まず、画面左で踊るサロメと右の宙に浮かぶヨハネの首との関係について。サロメは踊った褒美としてヨハネの首を求めるのであるから、この時点でヨハネはまだ死んでいない。なのに切り落とされた首が宙にあるのは、この情景がサロメの見た幻影を描いたものではないかということ。そのことは背景に描かれた王の家臣達が何も気付かず落ち着いた様子であることからも分かる。だが、そのなかの処刑人の持つ剣には血が付いていて、その部分を見れば、すでに処刑が行われた後であるようにも解釈できる。そして宙に浮いたヨハネの首の周りには聖なるものを示す円光があって、これは一種のイコンであり、次元の異なるヴィジョンであることを示している。しかもこの聖なる首は、サロメの立つ“現実の床”の上に血をしたたらせ、結果として「この空間の意味を揺さぶり、時間の流れを混乱させる」と。

モローは、ほぼ同じ図柄の作品を他にも二点描いていまして、聖書解釈の見当違いというのではないようです。喜多崎氏は異時同図法や、額縁という枠のなかで複数の空間が同居する宗教画の例などをあげて西洋絵画の時空表現の変遷をたどりながら、モローの仕事と従来の宗教的画題の絵画との差異を読み解きます。そして、モローの『出現』は従来の絵画の枠構造を脱構築したとしています。なるほど、わたしがこの絵から受けていた“めまい”の正体はこうしたことだったのかと感心し、気が晴れた思いです。

絵を観る眼には、じつにさまざまな種類があるものだと感心します。そして、それを言葉にして言い表わすことのできる人たちのいるのが素晴らしいことでもあります。さらに、もしわたしとして何か付け加えさせていただけるのなら、じつは、たとえ言葉にならなくとも、多くの人びとがそれと似たようなことをモローの絵を見て直接感じていたのではないかということです。そういう力のある作品があります。こちらはただ受容のための入り口を開けて待つ、それでいいのではないでしょうか。そういう場にこそ芸術は「出現」すると思うのです。

                  

「十九世紀」にしても「ヨーロッパ美術」にしても、言葉にするとたったひとことですが、それは巨大な広がりと深さをもつのでしょう。ウィンスロップ・コレクション展は十九世紀ヨーロッパ美術の側面を“いいとこ取り”して見せてくれました。わたしの家から西洋美術館までは歩いても行けますが、その近すぎることがかえって西洋美術を遠くしてしまったような部分がありました。奇妙なことです。「レセプションがあるけど来る?」と高橋氏に声をかけていただいたおかげで、また近づくことができた気がします。

ところでその高橋氏ですが、相変わらず忙しそうで展示会場のなかを行ったり来たり。やはり主催者側の人ですから仕方ないのかもしれません。そこで、レセプション会場で喉を潤してから帰ることにしたのです。絵を見たついでに何か飲んで帰るのが決まりというわけではありません、展示会場からそのままお帰りになる方もいらっしゃいます。

夕暮れも近い時刻、レセプション会場は人影もまばら。ワインには何が合うのかなとオードブルの並ぶ前で思案しておりますと、脇にひとりのご婦人が立たれました。「(洋風の料理やお菓子ばかりが並んでいるのに)割り箸しか置いてないんですねえ」とこちらを見上げたのは岡本太郎記念館館長の岡本敏子氏でした。

晩年の太郎氏のテレビ・マスコミでの“一風変わったタレント”扱いを眺めながら、せつない想いを抱いていたのはわたしひとりだけだったのでしょうか。今では当然のごとく教科書にまで載っている「縄文式土器」に、かつてこの国に住んだ人々の根源的な生命力の横溢するさまを見いだし、正当な評価を与えるきっかけをつくったのが太郎氏であったことはあまり知られていません。その果敢な創作活動や芸術論の展開はもちろんのこと、豊富な民族学の知識をベースにして取り組んだ土俗的風物の再評価等々に、多くを学んだ若者たちがいくらでもいるのです。

そんな太郎氏と縁のある方ですから何か申し上げたかったのですが、とっさのことで言葉を失いました。ヘタな賛辞よりはギャグのひとつでもと必死に考えてみても、どうしても口がひらかないのです。情けないことに、敏子氏の方から笑顔で深々と頭を下げられてしまう始末でして‥‥。

展示終了の館内放送に従って出口へ向かう途中、高橋氏にぽんと肩をたたかれました。「悪〜い。また今度の機会にネ」と。後日電話で話してみますと、海外出張を控えた忙しい時期だったようで、かえって気遣いをさせてしまったのかなと反省しております。いろいろ見られて、少し考えさせられて、楽しめた一日でした。

2002.10.30  (c) Mitsuru Iwasaki

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