ちょうど今頃でしたかね。高知県、土佐のあちこちでは夏祭りの宵に芝居絵を眺めて楽しむ習慣があるんです。神社の境内や参道に並んだ屏風絵は歌舞伎や浄瑠璃を描いたもので、血しぶきの飛び交う場面もロウソクの薄明かりで浮かび上がって、なんだかものすごい感じ‥‥。ちよっと残酷だけど、もっと見ていたい。人間の情念が形を与えられたような、そんな画面。作者は絵師金蔵。「絵金」って呼ぶんです。

絵金の半生は劇的でした。幕末の土佐、髪結いの家に生まれ、若くして画才を認められた金蔵は江戸の駿河台狩野派に入門、そして三年間の修行を経て帰国、藩のお抱え絵師に起用されました。ところが、ここからがいけません。スピ−ド出世をねたんだ連中の陰謀ともいわれますが、狩野探幽の贋作を描いた罪であえなく失脚。名字帯刀を許された身分を失い、狩野派も破門され、城下を追放されてしまったのです。

普通ならここでヘコみますよね。でも、十年を越える空白期間の後、金蔵は復活したのです。伯母の嫁ぎ先の赤岡の町に現われた彼は町絵師として大活躍。たくさんの芝居絵を描きました。なぜ芝居を描いたのか、どうしてそれが祭礼と結びついたのか。そのあたりについては当時の地芝居のブームやそれに熱中した土佐人気質なども語られているようです。幕末の歌舞伎弾圧も郊外には及ばなかったようでした。とにかく、金蔵が描く芝居絵は赤岡の旦那衆や農漁民に熱狂的に支持されて、土佐の各地へと広まっていったのです。カリスマ絵師・絵金の誕生でした。

土蔵の中で義太夫を語らせては酒をあおり、手には数本の筆を持って一日一枚の猛スピードで屏風絵を描く‥‥。伝え聞く絵金の姿はバケモノじみていたり、神がかったりしています。それもその芝居絵のもつ迫力、絵の中に封じ込められて瞬間的に凍りついたような喜怒哀楽の表情、そんなものが人物像と重なった結果だと思うのです。魅力的なエピソードはさておき、その仕事ぶりも拝見しましょうか。

人の背丈ほどもある大画面。絵金は二つ折り屏風仕立ての芝居絵を「泥絵具」で描きました。じつはこの絵具、発色が強くて鮮やか。薄明かりのなかで絵を眺めるのにも都合がいいのです。その泥絵具でもって、黒の輪郭線を強調した人物に強い肌色と原色を厚塗りします。一方では、遠近法を利用して奥行きをつくった背景に抑えぎみの諧調をつけて前景と背景の色彩効果もさりげなく計算。だから、極めつきの場面を演じる人物たちは屏風の枠を踏み越えて迫って来ます。スピ−ド感あふれる筆さばきにしても、流麗な下描きが透けて見えるところもあったりして、勢いだけじゃないんですね。

画家としては冷静な人だったのではないでしようか。花のお江戸にも芝居を描いた浮世絵がありました。でも、その多くは庶民が憧れた役者と芝居のカタログです。芝居を描いて役者の似顔を描かず、様式美を捨て、人の心の奥深い闇の部分までも色と形にしてみせた――それが絵金の仕事なのだと思っています。彼は町絵師ですから何でも描きました。それこそ芝居絵から春画まがいのものまで。キワモノ扱いされたり、「異端の画家」なんて呼ばれたりしますが、その彼が芝居絵のなかでしていたのは伝統の踏襲から離れた自分だけの表現の追求です。おそらく、そこから“近代絵画”まではあと一歩。狩野派を破門され、その筆法を禁じられたのが幸か不幸か、一介の町絵師が切り拓いた画境には下世話に語られる絵金のイメージとはうらはらの高みさえ感じるのです。

絵金については画集も、映画も、小説だってあります。でも、歴史上にその名を連ねる画家たちと比べれば評価はいまひとつ。行状もあまり芳しいものではなかったようですし、本人についての正確な記録・資料が少ないこと、そして作品の多くが土地の生活と強く結びついているために外部での公開の機会が少ないこと――そのあたりが理由かなと思うのです。わたしと絵金との付き合いも期間だけは長くて四半世紀を越えました。土佐にも三度出かけてそれなりに関心もあるのですが、力強い絵金研究には郷土史や民俗学の視点からのものが目立つようです。

器用にスタイルを使い分けた絵金は狩野派風の水墨画も残しています。やっぱりウマいのです。正統派絵師としての舞台を選べなかった金蔵さんの、せめてもの安らぎだったのでしょうか。その墨色はやわらかく、そして、どこか切ないのです。

2001.07.22  (c) Mitsuru Iwasaki

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