「弘法筆を選ばずなんていうけど、ウチの商売に限っては“道具は値段”だね。」浅草の刃物屋のご主人の言葉です。

たかが包丁一本でエラそうに、なんていってはいけません。扱うモノに誇りをもって「道具は値段」と言い切る自信。必要とあらば責任も取りましょう、くらいの覚悟が見えます。強気な言葉の裏側には、とっておきの秘密でも隠されているような気がするんです。

今風に言えばセールス・トークですけど、何が何でも売り付けようってわけではありません。あちらの世界も魅力的だぞ、ちょっと興味があるな‥‥と、そういう場合にはこんな使い古された言葉でも橋渡しをしてくれることがあるのです。包丁屋のご主人の言葉は、プロフェッショナルからの優しいメッセージなんですね。

「デッサンができていない」という言い方がありまして、これは主に絵かきさんとか美術関連の人びとが使う言葉です。デッサンとは「素描」くらいの意味ですが、この使い方には基礎や基本とかいった意味合いも含まれるようです。要するに土台がなっとらんという批判の言葉。キツイ言い方ですが、専門家同士で交わされるぶんには問題ありません。たとえ悪口でもその意味が正確に伝わるからです。ところが困ったことに、これを一般の方を相手に使う人がいるんですね。その昔、美術教師をしていたわたしはそんな場面に立ち会ったこともあるのです。

“センセイ”なんて呼ばれる絵かきさんでしたが、アマチュア画家や子供達を指導するのにこの言葉を不用意に使われました。虫の居所でも悪かったのでしょうけれど、初心者に向ってそれは反則。たとえば「柔道を教えてやる」といわれて近づいたら、いきなり足払いをくらうようなものでして、やられた方はただ途方に暮れるだけ。プロとは雲の上の人と思い込んでしまうでしょう。まるで目の前には見えない壁でもあるみたいです。でも、ほんとうに壁なんてあるのでしょうか。

どこかに素晴らしい芸術家がいたとします。ずいぶん遠くて高いところにいるように見えますよね。でも安心してください、あちらとこちらは地続きなのです。少しばかり角度のついた道を歩き続けた結果、たまたま彼はそこに立っているだけなのです。選ばれた人ではなくて、その道を選んだのが彼だということ。たぶん尊敬に値する人ではあるのでしょうが、それまでのことです。「才能」なんてラベルを貼り付けるのは周囲が勝手にすることですし、人間のいとなみのひとつとして眺めれば、そういう生き方しかできなかった彼であることもたしかなわけですから。

それで「壁」のことですけど、わたしはおそらくないだろうと思っているのです。壁どころか小さな垣根すらないのでは、とも思います。気が遠くなるようなその距離については、こう考えたらどうでしょうか。もしかして道は直線ではなくて、渦巻きのかたちをしていたり、らせん状だったりするのではないかと‥‥。

まっすぐな道を思い描き、その後をたどろうとするから遠いのです。もし渦巻き状なら予想もつかない近道やルートがあるかもしれません。そんなふうに仮定してみないと、基礎どころか何の予備知識がなくても、みんなが絵や音楽を心から楽しめるというごく当たり前の現実を説明できないのです。遠くに思えて、ある瞬間にはそこまでひとっ飛びで行けるこのシステムのことです。神や仏の世界の出来事ではありません。多少のデコボコはあっても、すべては同じ地平にあると思うのです。

どうやらわたしたちは何でも順序だてて遠回りするのが好きみたいです。何事も基礎が大事。きっとその通りです。でも、そればかり強調されると、自分の方から壁を作りたくなってしまいますよね。専門家にしたって、なによりもまず本人が楽しんでいるはずなのです。いまさらながらの決まり文句ではありますが、“芸術は自由”。これに尽きますネ。

2001.08.21  (c) Mitsuru Iwasaki

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