牛乳びんに水彩絵具を溶いたのが色別になっていて、そこに差し込まれた何本かの筆をみんなで使ったのを憶えています。水っぽい絵具がうまく塗れずに、ボコボコの画用紙の前でいつも泣きたい気持ちでした。インターネットでわたしの通っていた幼稚園のサイトを見つけて、いろいろと思い出してしまったのです。

幼稚園での生活全体がどんなものだったのか、はっきりとは覚えていません。童謡を歌い、お遊戯もしたのでしょうが、どうもイメージが浮かばないのです。記憶にあるのはお絵描きのことが多くて、すぐにクレヨンを折ってしまうとか絵具が乾く前に手をついてしまうとか‥‥。そう、お弁当の前にはたしか「天のお父様」に感謝して歌いました。わたしのなかに信仰心は根付かなかったのに、お絵描きの方はその後も続きました。

子供に自由に描かせよう、というのを自由画教育運動っていうんです。これが起きたのは今から八十年ほど前、大正時代のことでした。画家・版画家として立派な仕事を残した山本鼎(かなえ)氏の提唱したものです。「教育運動」なんてカタい表現に「自由画」という言葉が付けられたのは、その前提として自由に描けない絵というものがあったからなんです。絵が自由でないってヘンでしょ?

山本氏は批判を込めて「不自由画」と呼びましたが、当時の学校では「臨画」を中心とする図画の授業が行われていました。臨画は絵を見てその絵をマネして描くこと。図画の教科書がお手本集になっていて、子供たちはそれを写して描くように指導されていたのです。模写というのは絵画の勉強方法のひとつでして、古今東西に渡ってひろく行われてきたものです。ですから、これが悪いなんてことはありません。子供にそればかりさせることが問題にされたのです。議論は教育現場や美術界の一部を巻き込んで白熱したようでした。

子供たちに見たもの思うことを自由に表現させることが「美」というものの理解につながる。そうしてその個性をあるがままに伸ばしてやるのが図画教育の使命である。かなり大雑把ですけど、山本氏の主張はだいたいこんな感じです。そして、この考えは多くの人々に支持されたのです。「臨画」以外の絵、つまり写生、記憶、空想とかいった自由な発想で描いた児童の作品が集められて展覧会も開かれました。自由画教育は民主主義的な空気を求めたその時代の風潮にも沿ったもので、反省や検討を経て、この国の美術教育の指針のひとつとして定着したんですね。今では自由画の意味もほとんど忘れられてしまいました。でも、これがなかったら、「アート」なんてものが陽の当たる場所を歩ける時代はもっと遠かったはずなんです。

まあ、そんなわけでわたしなどもこうやって好き勝手に描いてこられたわけです。ところで、四十年も前のことですが、幼稚園での出来事で鮮明に覚えていることがありました。それをひとつ。

ある日の午後、ひとり残されて先生と一緒に園児の集会所になっていたホールの舞台に上がったのです。舞台は聖劇や祭壇に捧げ物をするときにしか上がったことのない場所でした。「何か描いて」という突然の言葉に続けて、「描かなくては帰れませんよ‥‥」と先生の眼が言っていたような気がします。それでしかたなく、床に広げられた大きな画用紙に向かったのでした。その絵が児童画コンクールの賞をもらって、新聞に名前が出たり、エライ人の部屋に飾られたりしたのです。賞品にたくさんの絵具も頂戴しました。

今だから白状しますが、かなりテキトーな絵なんです。青空、田んぼ、かかし、それにスズメ‥‥いかにもの田園風景でした。早く家に帰りたいし、床の上にじかに座り続けてオシッコはしたくなるわで、とりあえず大人の納得してくれそうなものを描いて解放されたかったのです。これって子供のもつ純粋さなんでしょうか? 大人に童心があるように、子供のなかにもきっとオトナは住んでいますよね。そういえば、「童心」っていう言葉にしても大人が勝手に造ったものでしょうし‥‥。

2001.09.20  (c) Mitsuru Iwasaki

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