旅・After Hiroshima / 2005 油彩、キャンバス 218×291cm (C) Keiji USAMI
 
※画像は宇佐美圭司氏の許可を得て掲載しています。転載等はご遠慮下さい。
10 【 宇佐美圭司展を観る 】 2006/10/31(火)


先々週のことでしたが、東京・南天子画廊で開催中の宇佐美圭司展《人型/かたちを暴動へ還しに》(9月25日〜10月21日)に行ってきました。この国の現代絵画を代表する画家のひとり、と申し上げて差し支えありませんね。その新作を一目観ておこうということでしょうか、ギャラリーを訪れる人の途切れることのない会期末の黄昏れ時でした。

わたしが一番熱心に画廊回りをしていたのが今から三十年も前の学生時代のことでしたから、画廊の様子も当時とはだいぶ様変わりをしています。瀟洒な室内には人の背丈をはるかに凌ぐサイズの大作が並んでいました。そこに描き出された壮大な絵画空間の前に立ってみると、かつて味わったことのないような“絵を観ることの静かな悦び”を感じます。

「歓喜」にも似たこの感覚はどこからやってくるのか? 単に綺麗で落ち着いた雰囲気の場所にいるからではないのでしょう。目の前の作品が発する何かに触発されているのは間違いなく、今までに経験したことのない未知のゾーンに連れていかれるような期待感があります。ただし、そこに描かれているのは単なるファンタジー(幻想)ではなく、この瞬間にこの場所で何かが起きる予感があるというのでもない。聡明な光に照らし出された世界の全体像とでもいうか、それを俯瞰するような悦びなのかもしれません。

 

画家・宇佐美圭司氏のことは大昔から(もちろん一方的に)存じ上げています。1970年、大阪万博の鉄鋼館で観たレーザー光線による光のインスタレーション《エンカウンター70》は先生の作品でした。高校生のわたしが生まれて初めて対面する「現代美術」だったのです。三十数年前の多感な(?)美術少年がその場で何を感じ、何を受け取ったのか‥‥‥さすがにそれまでを呼び起こすのは難しいのですが。

あの時代から遥かに時を経た今年5月、「詩人の眼―大岡信コレクション展」のレセプション会場で初めて先生にお目にかかりました。そして初期の代表作のひとつ《オールド・ファッション・アーケード》の前で写真撮影をお願いしました。さらには「コレクション展紹介記事」のための原稿を執筆していただくという幸運も。わたしのなかで過ぎ去った何十年という時間がひとめぐりして再びスタート地点に立っているのかと、そのときは目眩に近いものを感じました。

 

宇佐美作品には常にシルエットのように切り抜かれた人物の形態が登場します。あらかじめ選ばれた四種類の「人型」が画面上で反復され、あるいは重なり合うなどして構成され描かれるところから、包括的な意味合いで「図形絵画」あるいは「図式絵画」と呼ばれることもありました。

美術評論家・東野芳明の回想によれば、“人型”のルーツは、1966年、ニューヨーク滞在中の東野のところにやってきた宇佐美がたずさえていた一冊の『ライフ』誌のなかにあります。そこにはロスアンゼルスの黒人地区での暴動事件の記録写真が掲載されていました。しばらく写真に見入っていた画家は四人の人物を選んで切り抜き、アパートの窓枠に貼りつけて毎日眺めていたそうです。「投石する人」「かがみこむ人」「たじろぐ人」「走り去る人」――この四つの人型は、人間のもつ根源的な形態として、オリジナル写真のもつ政治性とは距離をおきながら30年以上も描かれ続けています。

ひとつの主題を追いかけてここまでの探究・持続が可能であるのかと驚くばかりですが、もちろん単純な再生産がくり返されてきたわけではありません。「人型」を描く作品が、作者の認識の深化とともに、また絵画手法の変化に従いながら“練りに練られ”ていく過程は、画家の友人でもある大岡信氏によって書かれた「宇佐美圭司への展望」(「宇佐美圭司回顧展」セゾン美術館 1992年)のなかで正確にたどることができます。

 

今回の展示では、とくに《 旅・After Hiroshima 》(冒頭に掲載の作品)につよく惹かれました。

厳密に言えば下地に相当する部分かと思いますが、画面全体を支配する赤の色調の力強さが印象に残ります。そして赤の地を覆うように置かれた「人型」の、ブルーグレーからホワイトに移行するグラデーションの際立つ様子。写真では分かりにくいのですが、この人型は下地を半分透かすようなやり方で絵具が塗られていて、それが画面上に魅力的なマチエールの拠点をつくりだしています。画家の言葉を借りれば「デプス(深さ)」を感じとることのできるものであり、微細な振動の感覚さえ与えるような半透過の表現です。常々思うのですが、優れた絵画にはその直接的な主題を離れたところにも観る者を魅了する部分が必ずある。官能に訴えるところがなければ絵の魅力は半減するのではないでしょうか。

「燃え盛る劫火を思わせる赤」とは、この作品について毎日新聞掲載の批評のなかで書かれた言葉でした。そうとも思えますし、またわたしにはそこで流されるおびただしい量の血液も連想させます。炎と血の世界を行進する無数の人型。しかし不思議と「絶望」を感じさせないのは、画家の視線が遥か先にあるものを見据えているからではないのか、などと思ってみたりもしました。

根源的な形に還元された「人型」は個々の表情をもたず、従って人間存在そのものの象徴と捉えることができるはず。人間を描くとは「世界を描くこと」と同義ではないのか‥‥‥。当然のこととして、世界を突き抜けた向こうには広大な「宇宙」が横たわっている。そうしたヴィジョンを一枚の画布に封じ込めつつ、さらには瞬時に伝える力までをもった絵画の凄さを教えられた思いです。

 

ギャラリーにお邪魔したのは会期終了直前の金曜日。幸いなことに宇佐美氏も来場されていて「コレクション展紹介記事」のお礼を申し上げることができました。

展示スペースのソファーに腰をおろした先生の背後には水彩作品《 流転・バロック 》が掛けられていたのを思い出します。その作品のモノクロ−ムの画面の奥から洪水のように迫りくる人型の列は、この眼の記憶として焼き付けました。これから先もくり返し呼び起こすイメ−ジとなることでしょう。‥‥‥おそらく三十数年後も。

 

 

 

 
流転・バロック / 2005 水彩、紙 110×110cm (C) Keiji USAMI
 
※画像は宇佐美圭司氏の許可を得て掲載しています。転載等はご遠慮下さい。
 

(C) 2006 Mitsuru Iwasaki
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