《 雨を見たかい?》  2005年  92×42センチ

「小さな美術展実行委員会」蔵
8 【 画論 】 2006/07/31(月)


「画論」っていいますね、絵のことについて書いたり話したりするときに。これには大きく分けて二つの立場があると思うんです。書き手(話し手)が絵を描くなどして実際に創作にかかわっている場合と、そうでない場合というふうに。

なぜこういう分け方をするかというと、一方の側には作品をつくる者の実感(経験)があり、他方はそれをもたずに絵を語ることになるからです。どちらか片方の優位を語るつもりなどはありませんけれど、ここにひとつの違いがあると思うんですね。

「どんなふうに違うのか具体的に説明してごらん」と言われると少し困るわけですが、例えば――このグレーの絵具は不透明のはずなのに塗ってみたら透けた感じがしてイヤだ。濃いめに塗り重ねてみたらどうにか納得のいく色合いになった!――みたいなことがあります。これは制作にかかわった当事者だけがもつ感覚で、作品は、ある意味でそうした感覚に支配された決断と行為の集積ということもできます。ですから、その画面上の「必然性」を100パーセント把握しているのは描いた本人だけといえるかもしれません。

実作の経験を積み重ねていくと、他人の作品の表面に残る痕跡からでもこの「必然性」がある程度まで理解できるような気がしてくるんですね。「理解」が適切でなければ「推測」でもいいですけれど、とにかくこの実感にもとづいて自他の作品を観るような場合が多くなる。その感覚に全面的に依存できるかどうかは別として、画論を構築するためのひとつの基準になるのかなあ、と思います。

岡本太郎の芸術論がエキサイティングなのも、池田満寿夫のエッセイが面白いのも、じつはその鋭い洞察を支える根っこの部分にはこうした「実感」の確かさがあるからなのではないかという気がしてきます。岸田劉生が書いた画論の鳥肌の立つような感じとくれば、もはや精緻を極めたその実作と深くかかわっているとしか考えられなくなるのです。

ところがこの「実感=必然性」説には、欠陥というか落とし穴みたいなものがあります。絵(作品)というのは必ずしも作者の意図を全面的に反映した「見え方」をするとは限らないからです。実際に、作者の意図が完全に実現されていない場合などはごく普通にあることですし、当然ですが、観る側の立場・経験等によって受ける印象も異なる。さらには、「実感」をもつがゆえに、それが邪魔をして冷静な見方ができない場合もありますね。どうやら実感にもグレードのようなものがあって、それが“スーパー級”の場合には個人の経験の範囲を越えるような力をもつことがあるようです。

ここに他者による批評の存在意義というものがありそうで、第三者によるクールな画論の有効性をみることができると思います。いわゆる評論家や研究者の書いたものに有無を言わせぬ説得力を感じる場合が多々ありますしね。観ることに専念する人たちもたくさんの視覚的経験や資料等を参照しながらギリギリのところで書いているはずです。まあ、どちらが優れているとかいうようなことではなく、それぞれの立場から語ることのできる内容があるのではないかということです。

ところで、この「描く人による画論」にもひとつだけ面倒なケースがありまして、それは自作について語る場合です。他人の作品について何かを言うのはそれほど難しくないと思うんですね。なぜかというと、「実感」を手がかりにして語りながら、必要に応じて自分のことは棚に上げて言えばいいわけですから。でもこれが自作についてだと、かなり遠回しにでも語らない限り単なる“自画自賛”と受け取られる可能性があります。――それは誰もが避けたいところでしょうし。ならば、自分のことを棚に上げて自分の作品を語ればいいではないかというと‥‥‥そもそも「自分を棚に上げた本人が自作を語る!」なんて、日本語の文章としても意味不明なんですね。(笑)

作者が自分の作品について語る場合にはこういう問題を乗り越えなくてはならないようです。それができたかどうかわかりませんが、前回のこの欄ではあえて自作を語ってみました。『私論・画論‥‥‥』という大仰なタイトルもつけているわけで、開き直って“オレ様画論”をやってみたというわけでした。

先月の更新後数日して二人の読者の方からメールが届きました。どちらも前回の「爆笑絵画???」についてのご感想といったものです。大阪のK.Mさんは絵を描いている方で、ときどきメールを頂戴しています。もう一人の悠悠不適人さんは「往復書簡」でお馴染みですね。ここは書簡のコーナーではありませんけど、わたしの返信とあわせてアップさせていただきました。

実は、こうしたメールのやりとりからもいくつかの「画論」が浮び上がってくるのではないかと思っているのですが‥‥‥さて、皆さんはどうお考えでしょうか。

 

 




[K.Mさんからのメール


お元気ですか?
 

このごろ思うのは、やはり絵の世界のむずかしさですね。

人の見方も好みも違うなか、実際には、本当はひとは

なにに魂を打たれるのだろうかということを考えたとき

描く側のたちばにいる私もふくめて、価値観が、もっとも

大事に考えなくてはいけないのではないかとおもいます。

今でも気にかかるのは、ラ・トゥールは、なぜつめの黒さ

を描いたのだろうかということです。

机や壁の傷やしみは美であるからひとはへんだと感じないし

なにかしらこころに響くけれど、ほこりをかかれたらやはり

違和感を感じずにはいられません。

私の蓬莱峡も、巨大な奇岩を写実にいこうと思ったのがまちがいだったとおもいますよ。

でも、イワサキさんのまとめる力は天下一品ですね。

そして、描く貪欲さは、たまらず好きですね。

無理しないで頑張ってください。 (
K.M)

 

[K.Mさんへの返信]


お返事遅れて申し訳ありませんでした。

今回の作品については自分なりに思い切ったことをやろうと思っていました。
でも制作期間が足りず、考えたことの半分もできないような状態での出品 。
事前の準備は大切ですね。

「机や壁の傷やしみは美であるからひとはへんだと感じない」
――というのは全く同感です。

ラ・トゥールの描く聖人の爪が黒いのは、モデルにした農夫たちが
実際にそのような指をしていたということでしょうが
爪にしみ込んだ汚れもまた人間としての「年輪」であると捉えたのでしょうか。
そのあたりに絵画としての真実味を感じるような画家の視点や
生活環境があったのかもしれません。

もっとも、聖なる人を描いた絵に「生活臭さ」が漂っていていいのかどうかは
別の問題なのでしょうね。
リアルな描写は、描き込んでいくことで確かに獲得できるものがあると思います。
その反面、失うものも大きい‥‥‥ときには鼻持ちならない「毒性」まで帯びたりしますし。
どこまで「毒抜き」をしながらリアルさを保つのか――それがこういう主題を扱う画家に
求められる技量なのでしょうね。

ラ・トゥールの作風は年齢とともに微妙に変化して次第にその毒は薄まっていきますが、
決してゼロにはならなかった。人間の姿、画家の姿勢がみえるようで面白いなと思います。

梅雨もまもなく明けるのでしょうか。熱い夏がまたやって来るのですね。
御自愛ください。 (イワサキ)




[悠悠不適人さんからのメール]


「爆笑絵画」をめぐって、HPを読ませていただき1週間が過ぎました。

わたしも、4月30日だったと思いますが、拝見させていただきました。そのとき、みなさんが書かれているように強いインパクトを受けたのですが、そこから先の言葉がわたしの中からどうしても出てこず、感想をとは思っていたのですが、そのままになってしまいました。

作品を拝見したとき、力(文章でいうと筆力)を感じました。もちろんそこで、「パワーのある作品に圧倒されました」といった旨の感想をお送りすることはできたのですが、それでは自分のうけたインパクトを適切に言ったことにはならず、したがって不誠実になるような気がし、かといって、それをどう表現してよいのかが言葉の形にならず、サスぺンド状態のまま今に至ってしまったわけです。

わたしの気持ちをひと言で言えば、違和を感じたということかもしれません。しかしその違和は作品のどこに由来するものなのか、はっきりとはつかめなかったのです。ところが、今回のHPに接し、その違和についての輪郭がつかめそうな感覚をもちましたので、幾分ものごとを考える時間的な余裕がとれるようになったいま、その感触を言葉にすべく、できるだけ率直に書かせてもらえればと思いたった次第です。

わたしが感じた違和は、端的にいえば「笑えない」ということです。「華」ともいうべき箔の地に屏風絵のように描かれた対の人物の存在感には圧倒されながらも、なぜ「笑い」なのかが観手のわたしに奔騰してこないのです。

作家論としていえば、わたしはイワサキ・ミツル氏を、「存在するもののなつかしさ(ポエジー)」を表現できる画家であり、そうした表現の深化を志向する画家であると認識しています。こうした認識は、ホームページに展示されているペン画の海辺に座る青年や回転する遊具、さらにはアクリルの細密画を拝見して得た感触であり、過日お宅に伺ったおりに見せていただいたボールを蹴る少年の大作に接して、わたしには確信になっていました。

今回の作品は、わたしが感得していたのとは異なる傾向を指向しています。作者の地点から言うならば、それこそが作品の「ねらい」であり、新しい表現の地平を開くための試みであるということになるのかとも思いました。表現技法からみると伝統的で重厚で完璧な手法によって、それにもかかわらず観る側の作品に対するある型にはまった期待感をゆさぶり、当惑させ、佇立させること。

そういった意味でのパロディとしての迫力は感じますが、にもかかわらずわたしには違和がのこってしまうのです。その違和の出所はどこにあるのか。これについては全くの主観的な印象をのべることになりまが、作品の対になった左右のバランスにあるのかなと感じています。すなわち、わたしには構図的、技法的にはバランスのぶれは感じませんが、左右の人物の表情にバランス上の齟齬があるように感じられてしまうのです。

向かって右の顔の表情には、わたしは「なつかしい深み」といったある種の内面を感じます。それに対して左の顔の表情はパロディとして拮抗していないのではないかと感じられてしまうのです。あくまでも感じられるとしか言いようがないのですが。そのために、わたしには「笑い」にならないのではないのか。

わたしは、いままでのイワサキさんの作品にとらわれ過ぎているのかもしれません。また、ひとりの観手としての主観的な印象をもっともらしく書きたてているのかもしれません。自分でもよくわからないのです。ただ、作品との出会いでちょっと引っかかったことをことばにさせていただいた次第です。いい気な文章を書き送ったこと、おゆるしください。

悠々不適人

 

[悠悠不適人さんへの返信]

ご丁寧にメールをありがとうございました。おそらくわたしの作品についての初の本格的な批評を頂戴したということになりそうで、ここまで踏み込んで書いていただいて恐縮しています。

今回の作品が従来のものと一線を画するというのはおっしゃるとおりです。三年ほどをかけた箔の技術の修得もひと段楽して、さていよいよこれから本気の制作だというタイミングでの大作でした。箔の使用からして、もともと画面上の不要なディティールを省略して作品を大型化する目的がありましたから、このサイズの画面がつくれたということで一応はすべての障害をクリアできたことになります。その意味で、本人としては本当に喜ばしい出来事でした。

《オールドマミー・ア・ゴーゴー!》は多分に実験的な要素を含んだ作品でした。正面に据えた「笑い」というテーマ。これは個別に追求する主題としても深くておおきなものだと思いますが、今回の作品ではその最初の一歩の足跡をつけただけにとどまったようです。

ご指摘のように画面左側の人物の表情には描き足りないところがあります。これは“時間切れ”つまり制作時間の不足が主な理由でしたが、一方で、左右一対の仁王像のようなコンビネーションを求めていたというよりは、漫才の凸凹コンビのような不調和を抱え込んだままの画面を意識していたようなところがあります。そうした状態でも左右で一組の作品となるような画面の“物理的な構造”をつくること――前回の「爆笑絵画???」の文章には書きませんでしたが、それがもう一つのテーマだったのです。左右の人物をそれぞれ別のパネルに描き、それを最終的に一枚のパネル上に併置するようなスタイルをとったのはそのためでした。

「屏風絵のように」と書かれましたがまさしくその通りです。そして同時に西洋の祭壇画なども意識しています。屏風の折り目や観音開きになった祭壇画の各パートを仕切る縁は、それ自体がひとつの空間の完結を意味しています。老母を描いた二枚のパネルに特別な仕切りや縁はついていませんが、画面を二つに分けることで複数の空間を同時に出現させてみようという試みでした。

一年ほど前に《雨を見たかい?》という作品をつくっているのです。じつはその作品のなかですでにこうした実験をしてきていました。小さな木製パネルに描いた三点の静物はそれぞれが独立した絵として完結するもの。しかし同一平面上に並べられて額縁で囲まれているわけですから全体で一つの作品であるとの印象も与えると思います。三点同時に眺めることもできるし、それぞれのパートを眺めることもできる。画面に区画をつくることでそういう作品を実現させたいと考えているのです。

おそらくこうした試作は絵画空間への関心から出発していると思います。ルネサンスからさほどの時間も経ずに起きた出来事に依拠しているのが現在の美術アカデミズムだとすれば、そこで実現された空間表現の例はごくわずかしかありません。原始、古代、中世、そして現代へと美術の歴史を俯瞰してみれば非遠近法、非単一視点による絵画作品は世界中にあふれかえっています。そうした認識はかなり以前からもっていたのでしたが、そこから発想しつつ自分として無理のないかたちで作品をつくるということができずにいました。脱アカデミズムのために待機していた期間は呆れるほど長く、30年近くになるでしょうか。

「新しい表現の地平を開くための試み」と書いてくださいましたが、そうあってくれればと願っています。ただし今までしてきたことを完遂せずに放棄する気持ちにもなれず、とりあえずは二つの路線を歩むような気がしています。単線から複線へ。やがてそれが再び一本化されるのかどうかもわかりません。いずれにしてもすでに加速度はついている感じがありますので急展開の予感はあります。

ちょうど一年ほど前でしたか、四半世紀ぶりに悠悠さんとの再会が実現しました。またお目にかかれる日を楽しみにしております。そのときはもっと過激な画論を語れるような気がしています。


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