[K.Mさんからのメール ]
お元気ですか?
このごろ思うのは、やはり絵の世界のむずかしさですね。
人の見方も好みも違うなか、実際には、本当はひとは
なにに魂を打たれるのだろうかということを考えたとき
描く側のたちばにいる私もふくめて、価値観が、もっとも
大事に考えなくてはいけないのではないかとおもいます。
今でも気にかかるのは、ラ・トゥールは、なぜつめの黒さ
を描いたのだろうかということです。
机や壁の傷やしみは美であるからひとはへんだと感じないし
なにかしらこころに響くけれど、ほこりをかかれたらやはり
違和感を感じずにはいられません。
私の蓬莱峡も、巨大な奇岩を写実にいこうと思ったのがまちがいだったとおもいますよ。
でも、イワサキさんのまとめる力は天下一品ですね。
そして、描く貪欲さは、たまらず好きですね。
無理しないで頑張ってください。 (K.M)
[K.Mさんへの返信]
お返事遅れて申し訳ありませんでした。
今回の作品については自分なりに思い切ったことをやろうと思っていました。
でも制作期間が足りず、考えたことの半分もできないような状態での出品 。
事前の準備は大切ですね。
「机や壁の傷やしみは美であるからひとはへんだと感じない」
――というのは全く同感です。
ラ・トゥールの描く聖人の爪が黒いのは、モデルにした農夫たちが
実際にそのような指をしていたということでしょうが
爪にしみ込んだ汚れもまた人間としての「年輪」であると捉えたのでしょうか。
そのあたりに絵画としての真実味を感じるような画家の視点や
生活環境があったのかもしれません。
もっとも、聖なる人を描いた絵に「生活臭さ」が漂っていていいのかどうかは
別の問題なのでしょうね。
リアルな描写は、描き込んでいくことで確かに獲得できるものがあると思います。
その反面、失うものも大きい‥‥‥ときには鼻持ちならない「毒性」まで帯びたりしますし。
どこまで「毒抜き」をしながらリアルさを保つのか――それがこういう主題を扱う画家に
求められる技量なのでしょうね。
ラ・トゥールの作風は年齢とともに微妙に変化して次第にその毒は薄まっていきますが、
決してゼロにはならなかった。人間の姿、画家の姿勢がみえるようで面白いなと思います。
梅雨もまもなく明けるのでしょうか。熱い夏がまたやって来るのですね。
御自愛ください。 (イワサキ)
[悠悠不適人さんからのメール]
「爆笑絵画」をめぐって、HPを読ませていただき1週間が過ぎました。
わたしも、4月30日だったと思いますが、拝見させていただきました。そのとき、みなさんが書かれているように強いインパクトを受けたのですが、そこから先の言葉がわたしの中からどうしても出てこず、感想をとは思っていたのですが、そのままになってしまいました。
作品を拝見したとき、力(文章でいうと筆力)を感じました。もちろんそこで、「パワーのある作品に圧倒されました」といった旨の感想をお送りすることはできたのですが、それでは自分のうけたインパクトを適切に言ったことにはならず、したがって不誠実になるような気がし、かといって、それをどう表現してよいのかが言葉の形にならず、サスぺンド状態のまま今に至ってしまったわけです。
わたしの気持ちをひと言で言えば、違和を感じたということかもしれません。しかしその違和は作品のどこに由来するものなのか、はっきりとはつかめなかったのです。ところが、今回のHPに接し、その違和についての輪郭がつかめそうな感覚をもちましたので、幾分ものごとを考える時間的な余裕がとれるようになったいま、その感触を言葉にすべく、できるだけ率直に書かせてもらえればと思いたった次第です。
わたしが感じた違和は、端的にいえば「笑えない」ということです。「華」ともいうべき箔の地に屏風絵のように描かれた対の人物の存在感には圧倒されながらも、なぜ「笑い」なのかが観手のわたしに奔騰してこないのです。
作家論としていえば、わたしはイワサキ・ミツル氏を、「存在するもののなつかしさ(ポエジー)」を表現できる画家であり、そうした表現の深化を志向する画家であると認識しています。こうした認識は、ホームページに展示されているペン画の海辺に座る青年や回転する遊具、さらにはアクリルの細密画を拝見して得た感触であり、過日お宅に伺ったおりに見せていただいたボールを蹴る少年の大作に接して、わたしには確信になっていました。
今回の作品は、わたしが感得していたのとは異なる傾向を指向しています。作者の地点から言うならば、それこそが作品の「ねらい」であり、新しい表現の地平を開くための試みであるということになるのかとも思いました。表現技法からみると伝統的で重厚で完璧な手法によって、それにもかかわらず観る側の作品に対するある型にはまった期待感をゆさぶり、当惑させ、佇立させること。
そういった意味でのパロディとしての迫力は感じますが、にもかかわらずわたしには違和がのこってしまうのです。その違和の出所はどこにあるのか。これについては全くの主観的な印象をのべることになりまが、作品の対になった左右のバランスにあるのかなと感じています。すなわち、わたしには構図的、技法的にはバランスのぶれは感じませんが、左右の人物の表情にバランス上の齟齬があるように感じられてしまうのです。
向かって右の顔の表情には、わたしは「なつかしい深み」といったある種の内面を感じます。それに対して左の顔の表情はパロディとして拮抗していないのではないかと感じられてしまうのです。あくまでも感じられるとしか言いようがないのですが。そのために、わたしには「笑い」にならないのではないのか。
わたしは、いままでのイワサキさんの作品にとらわれ過ぎているのかもしれません。また、ひとりの観手としての主観的な印象をもっともらしく書きたてているのかもしれません。自分でもよくわからないのです。ただ、作品との出会いでちょっと引っかかったことをことばにさせていただいた次第です。いい気な文章を書き送ったこと、おゆるしください。
悠々不適人
[悠悠不適人さんへの返信]
ご丁寧にメールをありがとうございました。おそらくわたしの作品についての初の本格的な批評を頂戴したということになりそうで、ここまで踏み込んで書いていただいて恐縮しています。
今回の作品が従来のものと一線を画するというのはおっしゃるとおりです。三年ほどをかけた箔の技術の修得もひと段楽して、さていよいよこれから本気の制作だというタイミングでの大作でした。箔の使用からして、もともと画面上の不要なディティールを省略して作品を大型化する目的がありましたから、このサイズの画面がつくれたということで一応はすべての障害をクリアできたことになります。その意味で、本人としては本当に喜ばしい出来事でした。
《オールドマミー・ア・ゴーゴー!》は多分に実験的な要素を含んだ作品でした。正面に据えた「笑い」というテーマ。これは個別に追求する主題としても深くておおきなものだと思いますが、今回の作品ではその最初の一歩の足跡をつけただけにとどまったようです。
ご指摘のように画面左側の人物の表情には描き足りないところがあります。これは“時間切れ”つまり制作時間の不足が主な理由でしたが、一方で、左右一対の仁王像のようなコンビネーションを求めていたというよりは、漫才の凸凹コンビのような不調和を抱え込んだままの画面を意識していたようなところがあります。そうした状態でも左右で一組の作品となるような画面の“物理的な構造”をつくること――前回の「爆笑絵画???」の文章には書きませんでしたが、それがもう一つのテーマだったのです。左右の人物をそれぞれ別のパネルに描き、それを最終的に一枚のパネル上に併置するようなスタイルをとったのはそのためでした。
「屏風絵のように」と書かれましたがまさしくその通りです。そして同時に西洋の祭壇画なども意識しています。屏風の折り目や観音開きになった祭壇画の各パートを仕切る縁は、それ自体がひとつの空間の完結を意味しています。老母を描いた二枚のパネルに特別な仕切りや縁はついていませんが、画面を二つに分けることで複数の空間を同時に出現させてみようという試みでした。
一年ほど前に《雨を見たかい?》という作品をつくっているのです。じつはその作品のなかですでにこうした実験をしてきていました。小さな木製パネルに描いた三点の静物はそれぞれが独立した絵として完結するもの。しかし同一平面上に並べられて額縁で囲まれているわけですから全体で一つの作品であるとの印象も与えると思います。三点同時に眺めることもできるし、それぞれのパートを眺めることもできる。画面に区画をつくることでそういう作品を実現させたいと考えているのです。
おそらくこうした試作は絵画空間への関心から出発していると思います。ルネサンスからさほどの時間も経ずに起きた出来事に依拠しているのが現在の美術アカデミズムだとすれば、そこで実現された空間表現の例はごくわずかしかありません。原始、古代、中世、そして現代へと美術の歴史を俯瞰してみれば非遠近法、非単一視点による絵画作品は世界中にあふれかえっています。そうした認識はかなり以前からもっていたのでしたが、そこから発想しつつ自分として無理のないかたちで作品をつくるということができずにいました。脱アカデミズムのために待機していた期間は呆れるほど長く、30年近くになるでしょうか。
「新しい表現の地平を開くための試み」と書いてくださいましたが、そうあってくれればと願っています。ただし今までしてきたことを完遂せずに放棄する気持ちにもなれず、とりあえずは二つの路線を歩むような気がしています。単線から複線へ。やがてそれが再び一本化されるのかどうかもわかりません。いずれにしてもすでに加速度はついている感じがありますので急展開の予感はあります。
ちょうど一年ほど前でしたか、四半世紀ぶりに悠悠さんとの再会が実現しました。またお目にかかれる日を楽しみにしております。そのときはもっと過激な画論を語れるような気がしています。
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