DIALOGUE ……対話ということですけど、誰と何を語り合うかといえば、これはもう「つくる人」と、「クリエイトすること」についてしかありません。分野も方法論も異なる二人があれこれと言い合って、もし本人でさえ気づくことのなかった内実が見えてくるなら、それは対話がもたらすところの収穫でしょう。

シリーズの初回は、画家で詩人の大岡亜紀さんの登場。彼女は絵画と詩というふたつの創作の道を歩み続けています。イメージや言葉はどんなふうにしてその人にしみ込んでいったのか。そして、お父上の大岡信氏(詩人・評論家)やお兄さんの大岡玲氏(作家)からひそかに手渡された何かはあったのか……。

「対話」はお相手の紹介を兼ねる部分を含みますので“インタヴュ−”の雰囲気もあります。でも、本質はあくまでも「クリエイトするって、どういうことなのよ〜?」という問いかけなのです。

(イワサキ・ミツル) 

 

大岡亜紀
 
1985  武蔵野美術大学日本画学科卒業
1990〜 単行本、詩集、雑誌、新聞等の装画、装幀、寄稿
2000  ギャラリー上田(東京)個展
2001  詩集「新バベルの塔」/ギャラリー上田(東京)個展
2003  詩集「ある時 はじめて」/ヒルサイドギャラリー(東京)個展
2005  アートフロントギャラリー(東京)個展
     津沼信用金庫ストリートギャラリー(静岡)個展
2006  アートフロントギャラリー(東京)個展




 

(イワサキ) 絵画を制作するという分野は、一部の商業美術を除いて産業として成立しているわけではありませんね。プロ・アマを問わず、その人なりの思いを込めて取り組んでいるのが現実だと思います。でも、その思いのつよさは特別なもので、「命」までは賭けないけれど「人生」だったらどうぞ!……という人は一定数いる。その人たちはどこで目覚め、何に突き動かれているのか、ということなんですけど。

私なんかの事情としては、とにかく生まれ育った家のなかに芸術作品なんてものはありませんでした。絵ならカレンダーに印刷されたものくらいで……。亜紀さんの場合はどうなのかと想像してみると、まず第一にその家庭環境があるだろうな〜と。

具体的には、今年5月のお父上とお兄さんの対談(大岡信コレクション展記念対談:大岡信×大岡玲)でも紹介されたように、例えば、宇佐美(圭司)先生の大きな絵の実物とかが家の中にあったわけですよね?

大岡 ありますね。ご本人もいらっしゃってましたしね。あと、サム・フランシスも作品があるし、ご本人がいらしたことあるし……だからそういうのが普通の環境でした。逆に、一般の会社員の方の生活とかが分らないので説明するのが難しいんですけど、例えば家の壁に絵が掛かっていない状態なんてないわけですよ。だから、絵と本はもう当たり前に、豊富にありましたね。

―― それで本も読んできたと。「読め」と言われたわけでもない?

大岡 全然ないです。勝手に読んでましたよね。読み書きは小さい頃教わりましたけど、それでもまだ母が童話を読み聞かせしますよね。で、そのうち自分で読むようになって。そうすると、ある程度読みたい本というのが家に揃っていたので……。

例えば私、図書館って、小学校のときに、ほとんどその存在がよくわかってなかったんですよ。家になんでもあるから。で、友だちに「図書館に行こう」って言われて、「何なんだろ〜〜???」みたいな(笑)。よそから本を借りるっていうのが、全然意味がわからなかったですね。

―― そういう環境だから、普通の家というのではないですよね。だから自然と読むようになったと。でも、読むことと書くことは、また別でしょう?

大岡 そうですね。書くことに関しては、兄も何かの本で書いてますけど、母親の「陰謀」だって言うんですよ。夏休みの宿題で自由研究っていうのがありますよね。母は子供たちに何か書かせるんですよ。普通の子は工作とか、昆虫採集するとか。でも私たち兄妹はちょっと長い文章をつくるっていうのを夏休みにやりましたよ。

―― そう仕向けられていたのかなあ〜みたいな。

大岡 そのときはそんなこと思ってないんだけど、兄は後年「あれは母親の陰謀だった!」って、ものを書くことに慣れさせるための陰謀だって笑いながら言ってますけども。それはもう、二人とも毎夏やってましたね。物語をつくるっていうのは。

―― 普通、子供だったらプールに行ったりとかすると思うけど……。

大岡 もちろん兄はそっちの活動も豊富にやってましたけど、私はあまりそっちのほうは……ただ、工作は父がわりと手先が器用なので手伝ってもらってやったりしました。

大岡信氏とともに (2006年5月)
「詩人の眼―大岡信コレクション展」会場にて

―― お父上も、ちょうどその頃は画家の加納(光於)氏と共同制作をしたり、版画を習ったりしていた時期ですね。それで娘と一緒に何かつくってみようか、みたいなことだったのかなあ。それとも、これもさり気なく仕向けられた陰謀だったか!?

大岡 あ〜そうかもしれないですね。でも父の場合は自分が面白くて子供と一緒にやっていたんだと思いますけどね。

―― まあ、そういう各方面の環境がすでに整ってしまっていたわけですね。でも、そのころはまだ、ものを書くとか絵画をやるとか決めていたわけではないでしょう? たしかピアニストを目指していたのでは? 音楽家を目指していた時期があったということなんでしょうか。

大岡 中学生くらいまでは漠然とそう思ってましたけど、べつにそれでプロになろうとか真面目に考えていたわけじゃないので。

例えば絵も。父の原稿が出版社からゲラ(校正紙)で戻ってきますよね。紙の裏が全部白くて、それが束になってそのへんにポコポコとあるわけですよ。私は暇があると日がな一日それにイタズラ書きをしていたんですよね。だから幼稚園に上がる前からそれをやっていてそういう写真もあるので、ピアノは3歳からなんですけど、たぶんイタズラ書きはもっと早くからですね。

―― それ、私もやってました。こっちはゲラじゃなくてチラシの裏側でしたけど。そのへんは全く同じですね。

大岡 たぶん絵を描く人って同じだと思うんだけど、皆イタズラ書きから始まっていますよね。で、そのための紙とか(子供だから)時間とかはいくらでもあるので……

―― 喋っているよりは黙って絵を描いていた方が面白いやと。……でも、音楽家については“それまでの成りゆきで、それにならなくてはいけない”みたいな感じがあったわけですか?

大岡 絵は、家でイタズラ書きっていう感じだけど、ピアノの場合は先生のところに習いに行きますよね。だから、一応はなにかをやっているっていう自覚があるわけです。それは結果として何かに結びつくのかな、という漠然とした印象があるんですよ、自分のなかで。

だけれども絵はそれが仕事になるとは思ってないわけですよ、好きだけど。で、中学生くらいになったときに、だんだん将来のことを考え始めて、漠然とピアノのほうにいくのかなあ……と。べつに真面目に考えて出していた結論ではないんです。

―― その気持ちも揺らぐわけですね、どこかで。

大岡 もちろん、才能もそんなにあったとは思わないんですけど、指の病気をしたりしてプロはちょっと無理、っていうことで。ではどうしようかということで、もうひとつ好きなのは絵だなぁ……って。ただし美術部にも入ったことがなかったし、高校生になって、学校の先生に進路の希望を言うときに「美大受けます」って言ったら反対されました。

―― でもやりたいと。

大岡 とくに美術の先生には本当に反対されましたね。え〜と、何て言われたんだっけ。とにかく「どうせ落ちるし、いくらやっても受からないから趣味でやるのが一番いいよ」って、ずいぶん説得されましたね。でも、私の人生ですからねえ。そしたら現役で受かっちゃたんですけど。(笑)

―― お父さんは、そのときに何か言われました?

大岡 何も言いませんでした。というか、父にそういう話をした覚えがないですね。それは母としか話してないです。実際、父は仕事でよく家を空けていましたから、普段から会話は少なかったですし。父も何か思っていたかもしれませんけど、直接私に言うことはなかったですね。だから、母と“どうしようか”っていう話をしていました。

―― もちろん大岡先生といえば、美術批評の専門家でもあるし、現実にたくさんの芸術家たちとの交流もあって、画家の人生がどういうものであるとか、いろいろとお考えもあったでしょうね。それでも何も言われない……?

大岡 あのう‥‥‥父は、ほとんどそういうタイプなんですよ。たぶん思っていることはあるんだけど、自分が思っていることは察して欲しいタイプなんです。察しないと機嫌が悪かったりするんですけど。でも、だからといって機嫌が悪くても子供にそれを押し付けるっていうことはないですけどね。

―― それは、亜紀さんが今現在描いている絵についても同じ? 何も言わない?

大岡 そういえば何も言われたことがない……。

―― この作品はこういう感じがするね、とかアドバイスみたいなものも?

大岡 あ〜言わないですね、今わかりました。母は感想を言いますけど、父はほとんど言いませんね。

―― じつは先日、亜紀さんの個展のオープニングのときに少し先生とお話をさせて頂いたんですよ。そのときに亜紀さんの三年前の(2003年)個展の話をしたんです。

あのときのパンフレットに巻末の文章がありましたね。あの文章は、筆者が筆名というか変名で書いていて、私は、それがてっきりお父上の書かれたものだと思っていたんです。それで「あの文章は先生が書かれたものですよね!?」って申し上げたんです。そしたら、“えっ、ええーっ!”というような顔をされて「僕じゃないですよ。僕が書くならちゃんと署名をしますから」とおっしゃいました。

大岡 そうですよね。

サム・フランシス展カタログ(1988年)

―― あとからその筆者がどなたかは知りましたけど。そこに書かれた内容なんですけどね、1988年にサム・フランシスの大規模な回顧展が日本でありましたけど、そのカタログに先生が書かれた文章と共通するものがあるんですよ。

大雑把に言うと、抽象画の絵画空間についての捉え方、鑑賞者側からの描写の仕方に共通するものを感じていたんですけど……それで、なるほど大岡信という評論家は愛娘の作品についてもこんなにクールに眺めて文章にするのかと感心していたんです。

だから、私生活でも亜紀さんの絵についていろいろとお話があるのではないかと思っていて。そういうことはないんですか?

大岡 そういえば、今、一所懸命に思い出しているんですけども……一度もないなあ。

―― それでは、例えば先生の親友、サム・フランシスの絵について何かを語ったりとかされます?

大岡 ないです。……父は絵に限らず、子供に絵画論とか文学論とか一切しないんですね。知り合いの画家さんなどの「人となり」や近況を家族で話すことはあっても、作品についてマジメに語ることはなかったです。うちって、普通の他愛もない馬鹿話しかしなくて、“仕事の話”って全然しないんですよ。

だから例えば私が父の絵画論なり批評なりの、父の考えを知るのは父の文章からだけなんです。父の本は基本的に全部読んでますので、そういうものから父の考えを知るだけであって、実際に家で顔を見合わせてそういう話を聞いたことは一度もないですね。

―― それは、なんだか良いことでもあるような、しかしとても惜しいような……。

大岡 そうですね。私は、まわりの画家や作家の方々の、日常生活の部分を知りすぎているところもあって、それは「純粋に作品だけを観るのが難しいかもしれないから、ある意味ではとても不幸だね」と人に言われたこともあります。

でも絵画論とかは、父にしたら文章で全部言っちゃっているから、あえて言う必要もないし。むしろ、父の姿を通してその社会的な生活を垣間見ていたことが、子供にとって重要だったんじゃないかな。それは有形無形の、限りないものだと思います。だから父にしたら家族に何かを教える気持やその必要はない、っていうか、家族は家族で別のものがあるし……。

―― 専門の分野については、子供の頃から本を読む習慣がついているから放っておいても読むだろうと。もしかして、それも巧妙に仕組まれた……(笑)

大岡 兄はそう言ってますけどね(大笑)。父はそこまでやってませんよ。うちの教育係りは母ですから。

―― では、その頃に美術を選んだっていうのは……音楽は諦めたっていうことなんでしょうか。

大岡 嫌になったということではなくて。プロでやれるほど甘くはないと思ったし。たぶん、そこまで好きじゃなかったんですね、一言でいえば。




―― それで実際に日本画という伝統的な絵画を専攻することになったと。そして大学を出ますね。その後、絵画の制作に没頭して精力的に作品の発表を始めるまでに、ちょっと時間があくわけですよね。15年くらいかな? 全然「ちょっと」じゃないか。

大岡 個展を始めるまではそうですよね。

第一詩集「新バベルの塔」
(花神社)

―― それ以前にも出版関連の仕事はされていたようですが、本格的な絵画作品を発表し始めるようになって、同時に詩集も刊行しますよね。何か突然“エンジン全開”の感じですよ。

その光と影というのか、コントラストがすごくて。とくにその直前の長い沈黙はどういうことなんでしょう。その時期はいったい何を考えていたのか、何をしていたんですか。

大岡 まず、85年に大学を卒業した時は、私はほんとに大学でも、中・高の時と変わらず劣等生だったので……。

―― 学校にはちゃんと行っていたんでしょ?

大岡 いや、行ってなかったです(笑)。だからもう、課題の制作だけは提出するんですけど、家で描いて持っていっちゃうみたいな。学校に行くのが嫌だったんですよ。教授とも全然話が合わないし、一人だけ好きな教授の方がいらしたんですけど、あとの教授とはもう……向こうからもたぶん嫌われていたし。

―― なんで〜? 生意気だとか?

大岡  やる気がないように見えたんでしょうね。私も入ったときに、自分が思っていたようなカリキュラムじゃないんだっていうのが初めてわかったんです。

だから大学に入ったその年に、真剣に専門学校を受け直そうかとか、あるいはどこかに弟子入りしたいと思ったくらい嫌だったんですよ。で、そのままずっと劣等生で4年間いっちゃって、学校の側もなんとか放り出したいので卒業させてくれたんですけど、こっちもしばらく絵はやりたくないな、という感じがあって。それと就職もしたので。

―― えっ、どこに?

大岡 中近東関係の博物館のような施設で、そこの図書室で仕事してました。5年くらい勤めていたので、その間はほんとに 絵を描くのが嫌だと思って。

―― とりあえず仕事というか職業はあったんだ。

大岡 ありましたよ。小学校の頃から、早く働きたいと思っていた人間なので、絶対に勤めたかったんですよ。それはね、父がああいう職業だし、それに親戚もけっこう「ものをつくる人間」が多いですしね、織物作家とか。だからサラリーマンは親戚にあまりいなくて、で、自分なりに“私はこれはバランスが凄く悪いな”って思って、一回お勤めというものをしなきゃいけないと。だから大学を出たら絶対に勤めようと決めていたんですよ。

絵はいずれ絶対やろうと思っていたんですけど、とにかくある期間は絶対やらないと思って、就職したときに絵の道具はぜんぶ屋根裏部屋にしまっちゃったんです。5年間くらいは描きませんでしたね。普通のお勤めをしている人の生活をしていました。

それから90年代の初めの頃だったか、ぼちぼちとイラストやエッセイの仕事をいただくようになって、雑誌の仕事なんかを主にやっていたんですね。もう一度日本画を描きたいな、っていうのはそのへんから思いだしたんですけど、なかなか自分のなかで復活させる機会がなかったんです。

で、90年代前半に何回かはトライしているんですよ。でも学生の時に描いていた人物画とか動物画とか、要するに具象ですよね、それを描いてもピンとこなかったんです。何でピンとこないのかなあ、と思いながら……そしたらあるとき、ふっと“そういえば私は文様がすごく好きだな”と思い出したんです。

例えば、それこそ中近東系のアラビア文様とかアール・デコの文様とか。それで最初は日本画で文様を描いてみようと思って、ある程度構図として描いてみたら“文様だけじゃあ、ちょっとな〜”っていうんで、少しずつフリーハンドの部分がでてきたんです。もともとうちにはサム・フランシスとかの抽象絵画がいっぱいあって、それに囲まれて育ったから、あとは自然と今のようなかたちができてきたんですよね。

 

 
 
 
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