「大岡亜紀個展─光のせせらぎ」会場にて(2006年9月)

―― 具象絵画と抽象絵画という分け方をすると、絵なら抽象の方が好きだっていうのが潜在的にあったわけですか。

亜紀さんの絵は、いわゆるガチンコの抽象画というのとは微妙に異なる部分があるような気がするんですよ。

それは、絵のなかに時たま登場する形態に、どこかで見たことがあるような、具体的な何かを連想させるものがあったりするということなんですけど。

例えばモンドリアンではなくてクレーの作品のように、「抽象」の一歩手前の「非具象」みたいな形態が現れたりする。今回の出品作のなかには紙風船を思わせる形なんかもありますね。

それと絵画空間のつくり方からいえば、サム・フランシスの作品を思い起こさせるようなところもあります。

大岡 サムとカンディンスキーはよく言われるんですよ。

―― カンディンスキーにもフリーハンドで描いていくような作品があったり、もっとキッチリとシャープに描いたものもある。時代とともにスタイルが変わっていったとしても、フォルムの扱いについては柔軟なところがありそうですね。

サムの絵画空間については、彼は1957年に来日してからスタイルをがらりと変えたわけで、国立西洋美術館にある《ホワイト・ペインティング》なんかは、それ以前の“曖昧な奥行き”をともなったスタイルの作品だと思います。だけど彼は日本での作品発表を境にして、まあ、言ってみれば“白地の背景で仕立てた空間に形象を配置する”みたいな空間表現に変化していった。

サムのスタイルの変化については東洋画の影響があるようなことも言われてきましたけど、一方で、亜紀さんの絵についても三年前の個展のパンフレットに匿名の筆者が描写したように“浅い奥行きをともなった空間の手前に抽象形態が浮遊している”ような作品だと思うんですね。その共通性というか、空間の扱いについては少なからず共有しているものがあるような気がします。あの空間はどこから来ているんだろうと……。

大岡 なんでしょうね……。少し話がズレますけどね、文様から入ったと、さっき私は言ったんだけれども、もうひとつ思ったのはこれも家のなかに絵画が普通にあったせいで言うんだろうと周りには言われるんですけれども、“芸術、芸術!”ってあまり思わないんです。

だから、芸術家ぶっている人とか苦手だし、お友達にいないし(笑)。絵を丁寧に扱うのは当たり前のことだけど、でもそれがもうちょっと普通のものとして扱うものじゃないかと思っているから……例えば好きな花瓶とかと同じようにインテリアの一種として掛かっていてもいいじゃないかと思うわけです。“これは芸術品ですよ”じゃなくて、私はほんとにこの作品が好きだから掛けてるのよでいいと思うんです。

―― それは亜紀さんが絵に額縁をつけないことにもあらわれているのかな。

大岡 うーん、どうなんだろう。逆に額縁をつけるのはなぜなのかっていうふうに聞いてみたいし……。

―― 額縁の存在理由は、窓枠みたいなもので境界をつくって、ここに別の世界があるんだよ〜〜みたいな感覚でしょうかね。

大岡 額はあってもいいんですけどね。なぜ額をつけないのかって、たまに聞かれますけど……私ほんとに他の人のこと気にしてないから思うんだけど、他の人の作品ってそんなに額があるんですかっていう……。ありますか?

―― モダンアートの分野では、額をつけないのは特別なことではないですね。というか20世紀の現代美術の流れのなかでは、とてもポピュラーな現象ですよね。だから今どきの絵に額がついてなくてもあまり気にはならないんだけど、亜紀さんの場合は岩絵具を使って伝統的な日本画の手法で制作しているでしょう。だからちょっと気になるのかも。

岩絵具を使う理由っていうのは、水と油という分け方をすると「水絵具」の親しみやすさというのがあるわけですか。

大岡 岩絵具の材質感が一番好きですね。私は油絵の質感は全然好きじゃないんで、観るのは別として、自分がやろうと思ったことは一度もなくて、やはり岩絵具のちょっとざらざらとした質感が好きですね。……だからあんまりいろいろ深く考えてやっているわけではないんですよね。額縁をつけないのも特別に何か考えているのではなくてそれが自分のなかでは自然な流れでいっているだけで。

――  観る側としては、麻紙を貼ったパネルの側面が白いままの状態で残っているから、斜めの角度から見て、それが一種のフレームというか壁面との緩衝地帯の役割をしているような感じになっていますね。現代では額をつけない絵画もとくに過激なスタイルではないし、違和感はないんですけど。

 ●「大岡亜紀個展─空気の園」会場にて(2005年)

大岡 ……過激なことをやろうとも思ってないし。私の絵はさっきも 言ったように、インテリアのひとつと思ってもらって全然かまわないんですよ。だから、自分の作品に芸術性なんてものは全然入れてないわけですよ。入れてるつもりはないんです。

とくに抽象絵画の人なんかには「これはこういうことを表しています」とか「自分の内面を入れてます」というタイプの作品があって、それはそれでひとつの在り方ですけど、私は絶対にやらないです。

そこにある色なり形なりが、楽しいとか、なんか気持ちいいとか、部屋にあったら落ち着くな――でいいじゃないかと思っているんですよね。私の考えなんてそんなところに入れたってしょうがないじゃないか、って思うんですよ。

―― たしかに家のなかに重苦しい絵があってもイヤだものね。好きな人はそれでいいんだろうけど。美術館のなかにある絵と家のなかに置く絵は違うということか。

大岡 私は私の部屋のなかに飾りたい絵を描いているんですよね。

―― なるほど。その意味では自分で自分を追い込んでいくという感じのタイプではないんですね。このあいだのオープニング・パーティーの二次会の時に、亜紀さんの絵のなかの一点について「あの形態はどうなんだろう?」というような言い回しで“描かれた形には、それが存在するための必然性が必要である”みたいな内容を語った方がいらしたんですね。わかる部分でもあるんですけど。

大岡 「何かを表しているはずだ!」という感じね。

―― そのときに私はこういう話をしたんですよ。たぶん存在の必然性を問うような作品ではなくて、ひとつの流れのなかの出来事として、例えば“夢”のような連続、不連続の事象のなかから切り取って呈示している作品ではないか、っていう。実際の作品は緻密に構成されて作られたものだけど、現象としてはそういうものではないかと。

このギャラリーでの個展は三回目ですよね。三回とも拝見しましたが、亜紀さんの場合、作品は進化したり、追求されたりするものではなくて、絵のなかの何かが変わっていくのなら、それは亜紀さん自身が変化していく過程の断面が見えているんじゃないかという気がするんですね。

大岡 そうですね。だから私自身は絵に何かを込めようと思っていなくても、毎回絶対に変わっていっているし。だから、わざとそこに込めようとしなくたって、作家の何かって出ちゃうので、じゃあべつにあえて込めなくていいじゃない、って思うんです。

何かを追求するっていう言い方をすれば「アグレッシヴに、追求しないことを追求」しているんですよ。だから見る人にとっての鏡みたいな作用がその絵にあればそれが一番嬉しいですよね。

この会場に複数回観に来て下さる方もいて、「このあいだ来た時と感じが違う」って言われるんですけど、たぶんそれは、その方のそのときの心情が違うから絵の見え方が違うんですね。だけど、もしそれが具象だったり絵に何か意味付けがあるようなタイトルがついていたりすると、そういうふうにしか見られないでしょう。私はそういうふうに絵を観て欲しくないんです。だから、その人のその時の心情で観られるような絵を描きたいんですよね。

―― それはまさに、お父上がお兄さんとの対談で語った内容そのものですね。つまり、抽象画っていうのは入り口がいくつもあるもので、限定的な見方をしないで自由に見れば楽しいものだ、っていう。亜紀さんはそれを地で行く感じですよ。知らず知らずに影響を受けているのかな。

大岡 あっ、そうかもしれないですね。そうですね〜考えてみたら。いやだなあ、それも陰謀?(笑)

 




 

―― 詩とか文章作品のことについて少しお聞きしたいんですけど。これまでと同様に今回の展覧会でも絵を2〜3点並べてそのあいだに詩を置いていくという展示をしていますね。

先日少し伺った話だと、ご自身のなかで絵と詩は別物であると。こういうふうに同じ会場に絵画と文章作品を併置するのは何か意図があるんですか。拝見していると、展示された詩はかなりきっちりとつくり込まれたものであって、決して絵画の添え物という感じではないし。

大岡 何でなんだろうな。まず言えるのは、展示するしないにかかわらず両方やるっていうことは、自分でバランスをとっているわけですね。

絵は絵でそのまま観て「ふ〜ん」って思って終わりっていう見方でかまわないんだけど、やっぱり、違う表現で何か言いたいことがある場合は、きちんと自分の言葉で、納得できるかたちで伝えたいっていう欲求があるわけですよね。それはどうしても詩っていうかたちでつくらざるを得ない……絵では無理です。

―― 言葉で伝えるということなら、それは「論理」ということだろうし、むしろ絵画とは正反対のもの、ということですね。

大岡 だから自分のなかに人に伝えたいものが二種類あるんですね。伝えたい中身というか、伝えたい方法が。絵は、こちらが呈示したものに対して、人がその人のやり方で反応して欲しい。だけど、詩の場合は自分の言ったことで、それをそのまま受けて欲しい。なるべくそれ以外の意味にとれないように、私の言いたいこと以外の意味に誤解されないようにきちんと言葉を選んでかたちにして伝えたいと思っていて……。

第二詩集「ある時 はじめて」
(花神社)

―― それは第二詩集の「あとがき」にも書いてありましたね。

大岡 やっぱり絵では伝えられないものがありますね。かといって文章だけでは、それも窮屈だというので、その両方がないと自分でバランスがとれないんだと思います。

―― その両方を同じギャラリーの展示空間に置いてみたいという。

大岡 だから一種、自己顕示欲があるでしょうね、絵を描く人は皆そうだと思うけど。たとえば個展会場にだけしか足を運んでくださらなかった方には絵でしかわからないわけですよ、私のことが。だけど、“そうじゃないよ”っていうことを、たぶん伝えたいんですよね。

―― 文章にもいろいろなスタイルがあると思いますけど、亜紀さんのそういう“硬派”な部分が文章にあらわれるときがありますね。このあいだ誰かが言っていたけれど、“男の口調”みたいだって。しかし一方には柔軟な思考と繊細な言葉で織り上げていくような作品もある。

大岡 私には理屈っぽいところがありますね。「名前が女の名前だから女が書いていると思うけど、名前がなかったら絶対に男の文章だ」って前にも言われたことがあります。ただ、去年くらいから自分の詩がだいぶ変わってきているのが自分でもわかっているんですけど。

……だから、詩ってなんだろうっていう話になっちゃいますね。現代詩って、とてつもなくズルズルしているのもあるし、カチッとしているものもあるし。逆に言えばエッセイじゃないものが詩じゃないか、っていう話ですよね。それを書いた人がこれは詩ですよと言えば、そうなっちゃうし。

だから例えば私の本を読んで「これも詩なの?」って驚いた人たちは、たぶん現代詩をあまりお読みではないと思うんですよ。読んでも、せいぜい明治・大正時代の詩を愛唱歌みたいな感じで読まれていると……。だから、ああ、やっぱり詩って読まれてないんだな、って思いましたね。

―― 現代の絵画も同じですよね。これこそが絵だなんてものはない。そして、これが詩だというものもないと。

大岡 それこそ変な話、言った者勝ちで、これは絵ですよ、アートですよ、詩ですよ、音楽ですよ、って言ったらみんなそうなっちゃう。

―― だから福島泰樹さんの短歌絶叫みたいなものも、今では朗読でも音楽でもない、ひとつの表現の世界として受け入れられるようになった。

大岡 それに対して誰かが面白いとか、いいなって反応すれば、それで成立してしまうわけですからねえ。

――こうやってお話をしてみてわかったのは、亜紀さんのなかで絵画と詩というのは全く性質の異なる表現手段だったということですね。分野が問題なのではなくて、作品を外界に送りだす自分のなかで、それが言葉と絡んだ論理的な思考に支えられた部分であれば詩になるし、もう一方はイメージが支配する絵画になるわけで。

しかし、その先鋭化されたふたつの方法が個人のなかでどんなふうにかかわり合っているのかについては謎が残りますね。どちらも創作活動であることは確かだし。亜紀さんのなかで絵画と詩はどこが同じで、どこが違うんでしょう。

大岡 根っこはたぶん同じなんでしょうけど、自分でもそれがよくわからないんですよ。根っこのほんとの一点だけが一緒で出方が全然違うんですね、絵と言葉っていうのは。だからどこが同じっていえば「種」が同じ、としか言い様がないですけど(笑)。

―― なにかつよい、発芽しようとする意志みたいなものに突き動かされた結果、ひと粒の種から二種類の花をつけてしまった人が現実に存在するということでしょうか。今回はその貴重な例を実感させていただきました(笑)。

 

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