THE DIALOGUE
の第2回は映画監督の田中信行さん。初心にかえる……すっかり忘れていた言葉でした。出版社勤務のサラリーマンからテレビディレクター、そして映画監督へという転身は内面からの呼び掛けに応えた結果なのでしょう。

インディーズ・ムービー論、そして短編映画について大いに語っていただきました。

 

 田中信行
     
    1967年東京都生まれ。専修大学卒業
     
  1982
  
生まれて初めて自腹にて映画館で大林宣彦監督「転校生」を見る
TVで「ウルトラセブン」の再放送を見て衝撃を受ける
  1992   就職先の出版社を10ヶ月で退社。東京映像芸術学院入学。フィルム技術を学ぶ
  1994   「熱中時代」演出家矢野義幸社長の製作会社入社。助監督修行
  1998
  

総合演出の「源さんの天気予報」で日本民間放送連盟優秀賞、日本映画テレビ技術
協会大賞を受賞。
初心を取り戻してしまい製作会社を退社

  2002
 
 
監督作品「恋はタイムカプセルに乗って」で
インディーズムービー・フェスティバルTANPEN部門グランプリ受賞





―― 2005年の夏でしたか、ちょっとしたご縁でターザン山本!さんが主催する美術観賞会の席にお邪魔しました。美術展を見て、その後で語り合うような会でしたね。

後日、田中さんは退会されたけれど、当時は会の幹事でした。あのときが初対面でしたね。でも、田中さんが映画をつくっている人であることは知っていましたよ。

田中  7月でしたね。渋谷の文化村でやっていた「レオノール・フィニ展」のときでした。

―― 集団で絵を観るのは、ある意味で楽しくていいんだけど、あの時の、絵を観たあとの食事会の雰囲気がいまひとつという印象でした。美術観賞会にしては、そこから絵画についての話題が弾むということもないような感じで……。

サロンならそれでもいいけど、そのわりには会のネーミングが派手だし。なので、ホントに僭越ながら申し上げたんですよ。「目指すものと、やっていることとが少し違っているんじゃないですか?」って。

するとスイッチの入った山本さんが「来月からこの会を変える!」と。それならば、焚き付けた者の責任として私も見届けさせていただきますということで、その後も2回出席させていただきました。

田中 あのときは、そばで話を聞いていたわけではないので詳しくは知りませんでしたけど、その場の雰囲気は何となくわかりました。

―― あの出来事がなければ、こうして田中さんとお話することもなかったのではないかと思うので、まあ結果的によかったわけですね。

それで翌月の観賞会が同じく文化村での「ギュスターヴ・モロー展」でした。このとき初めて田中さんとお話をしましたね。田中さんの最初の言葉をよく憶えているんだけど「ラ・トゥールの絵も、その世界に入っていくのが難しいけれど、モローはそれ以上ですね」でした。

田中 そうでしたね。
 
―― 実際その言葉の通りだと思うんですね。例えばモローと近い時代の日本には葛飾北斎という画家がいたけど、北斎に比べたら象徴主義のモローなんて、我々一般的な日本人には“宇宙人”とかと同じくらいわかりにくい。この隔たりというのはかなりのものですよ。だからこういう絵を見る時の心構えとして、まず歴史や文化に根本的な違いがあることをきちんと理解して、その上で、なんとかしてその世界に潜り込んでいこうというのが真っ当な鑑賞法だろうと思うんです。

田中さんは絵を観ながら、その「壁」の存在まで意識しているんだなって感心したんですよ。単に綺麗とか神秘的だとかの表面的なことだけではなくて、その前提にあるものへ関心が向いているなと。絵はいつごろから観るようになったのかな?

田中 これはもうあの会に参加するようになってからです。大学生の時代には、ほんのたまに美術展に足を運ぶような感じでしたね。主宰の山本さんは美術の専門家ではないし、話されることもそれほど難しくはありませんでしたし。一緒に観に行く人たちも全員自分と同じようなレベルでしたから、みんなでいるその空間が楽しかったというか、けっこう熱くなっていましたね。

―― 映画は画面が動くでしょう。一方の絵は動かないけど。映像を作る立場としては、それは気にならない?

田中 全く気にならないですね。もちろん映画についても、ひとコマずつ撮影された「絵」として意識する部分はありますけど。ただ、自分の作品が絵としてどうかといわれるとそれは……。(笑)

映画は、例えば16ミリフィルムなら1秒間に16コマを連続して見せられていると――それが映画ですから。つまり16枚の静止画を連続して見せられていることになる。基本的にそういう意識をもってつくっているのが映画監督なんです。

一枚一枚の絵を見せていくんだ、というのが映画監督の基本的な意識ですけれど、でも実際、日本の、東京という都会のなかで自分の納得するような「絵画的映像」を見せていくっていうのは難しいです。それを過去に映画の中でやってきたのは、例えばソ連のタルコフスキーだとか‥‥‥。広大な自然が自分の国の中にあるわけですから、どこを撮っても一枚一枚が絵画になるんですね。

自分もそれができればいいなと思って、その意識でやってますけれども。例えばあそこの電柱が邪魔だから消したいと思っても――今ならデジタルという方法もありますけど――私は黒澤明監督ではないので、その電柱を取り外すことはできないわけですね。

その点、絵画だったら電柱を描きたくなければ描かなければいいと。これは本当に描きたいものが描ける世界なんだな、っていう思いで絵を観てきましたね。

―― なるほどね。こっちは、映画をやっている人には絵画がどんなふうに見えているのか、そこに興味があるのね。

田中  それと、なぜ絵画を観るようになったかについてはもうひとつの要因があって、僕自身がある時期までいわゆる“映画青年”だったんですね。年間何百本という感じで映画を観ていました。だけど、ちょうど最初の監督作品「恋はタイムカプセルに乗って」を撮る直前の時期に、ある人から言われたんですね。「君は映画を撮りたいんだろう? だったら映画を観ている場合ではない」と。

―― いい言葉だなあ。

田中 何か美しいものとか刺激を受けるものを見ることは必要なので、芝居であったり、絵画であったり、音楽であったりとか、そういう方面に関心を向けるようにしなさい、と言われました。映画ばかり観ていたら映画評論家になってしまいますからね。

―― だから“映画通”と実際に映画を作る人とは別だということだよね。作り手になりたいのなら、もっと幅広い世界から吸い上げてきた何かをもっていなくてはならないということだろうし。内側に蓄積したり、発酵させたりしたものがなければ表現や創作はできないということだよね。

田中 もちろん“通”の人が極まって映画監督になってしまう場合も一部にはあるんですけどね、タランティーノとか。映画オタクが映画監督になった例はありますけど、それはごく一部で。鈴木清順なんて、ほとんど映画を観てませんし。

―― だからああいう映画になるんだ(笑)。そう考えると、案外、映画の本質から一番遠いところにいるのが映画通やオタクだったりするのかもしれないんだね。

 




―― 鑑賞も含めて、映画にのめり込むようになったのはいつ頃から?

田中 大学一年生になってくらいからですね。それ以前は、中学、高校生の頃は家庭用ビデオも普及してませんし、経済的な面もありますしね。あの頃でも映画青年たちは名画座にいって見るしかありませんでしたから――それは高校生ではちょっと無理なので、テレビで放映されるのを見るしかありませんでした。

―― そうやって大学生の頃から映画熱が高じてきて……しかし年表によると、出版社に一度就職するんだよね。

田中  税金関係の出版社でした。

―― 映画関係の就職っていうのは考えなかった? 見るのはいいけど、作りたいとは思わなかったということ?

田中 もちろん思ってはいましたけど、それを職業にするというところまでは……。90年代の最初の頃でしたけど、東宝や松竹とか、……大映はもうなかったですが、にっかつのポルノ映画も衰退していましたからね。映画を撮りたいといっても映画産業自体が規模の小さいものになっていたから、自分の入り込む隙間も全然ないだろうなと。

同人誌 VAC

―― でもその頃すでに、こういう同人誌を作るくらいの情熱はあったわけだよね。やっぱり就職優先ということかな。

田中 現在と違ってデジタル機器も普及していなかったから、きちんとした映画をつくろうと思ったら映画会社に就職するしかなかったんですね。それは難しいだろうなって。

―― 出版社の仕事はどうでした? せっかく就職したのにすぐに辞めてしまったみたいだけど。

田中 自分の大学の専攻が商学部だったので、そういうものを活かして普通に、エスカレート式に出版社に入ってしまったわけですけど……当時は、それを活かした方がいいのかな、みたいな。

―― どんなふうに生きていくのかについて、これだという感じもなかったと。どこで変わったの?

田中 それがある時ですね、会社でソロバンを弾いていたんですね。入社10か月めですから、今でも忘れない冬のある日でした。

あれ?俺はいったい何をやっているんだろうと……。俺はこうやってソロバンを弾くことが自分の好きな事だったのかなあ、と。ウン? と考えて……待てよと。自分はいったい何がやりたかったんだ。何が好きだったんだ、と。

ソロバンを弾きながらだんだん無心になってきて、ホントにこれはイカンと。やっぱりこれは一度純粋に初心にかえってね、自分のやりたいことをもう一度やらなきゃイカンのじゃないかと思いました。

なぜかそう感じた時には、ソロバンの玉が涙で潤むくらいの感じで。「うっ、そうなのか」みたいなね。これはもう辞めようと。これはもう、自分は映画じゃないかと…。

―― そのとき最初に浮んだのが「映画」だったのね。

田中 あれ? そういえば俺は同人誌をつくったし、毎日毎日映画を観たじゃないかと。自分が今まで何に感動してきたのかと考えた時に、チャップリンの映画に感動し、大林宣彦の映画に深く感銘を受けた自分を思い出しましたね。その世界を何らかのかたちでアタックしていかないと、これは人生に矛盾しているんじゃないかと思いましてね、もう辞めようと。

―― 誰でも生活のこととかがあるから、普通は「初心」に戻れないよね。そこでもう一度やってみようと思えたのは幸せなことですよ。まあ見方によっては「魔が差した」っていう解釈もできるんだけど。(笑)

とにかく映画の世界に近付いていこうと会社を辞め、映像関係の学校に入ったわけだ。ちゃんと卒業した?

田中 いえ、あの……卒業はしなかったんですけどね。2年の課程で1年半通いました

―― 惜しいね。普通はそこまでいったら卒業すると思うけど。

田中 いやあ、その〜〜。とにかく映像製作の現場に入ってしまいさえすれば、学校を卒業しているしてないは関係ないんですね。実際に、学校で教えてもらっていた先生も「早く現場に入った方がいいよ」って。

―― 先生が「学校をやめろ」とかそそのかしたりして……。

田中 いえ、僕の方もちょっと学費を滞納していたりしまして。ちょっと待ってくれ、もうちょっと待ってくれ、って言い続けているうちに就職が決まりました。

テレビディレクター時代の台本

―― そういう事情もあったの。それで就職したのがテレビ番組の制作会社なのね。

田中 テレビドラマ「熱中時代」の演出家の矢野義幸さんが社長をされていた制作会社です。

―― そこで演出のこととかが勉強できた?

田中 表向き、何かを教えてくれるという事ではないですけどね。最初は下働き、小間使いのようなことをしなくてはなりません。でも会社が非常に忙しいところだったので色々なことを勉強できましたね。

一応2年間お世話になって、テレビの情報番組やバラエティーなんかを重点的にやらせてもらいました。それで社長から、そろそろディレクターとしてやってみてもいいんじゃないか、ということでお墨付きをもらって、別の会社に移ったんです。

次の会社ではVP(ビデオパッケージ)やゲームソフトの制作をしていました。当時はまだCGが全盛期を迎える前のことで実写が主でしたけど、映像について色々なことをやらせてもらった時期でしたね。そこにも2年ほどいました。

―― それでいよいよスーパーJチャンネル(テレビ朝日)の「源さんの天気予報」を担当することになるわけか。あのコーナーはいつも見ていたので、田中さんがつくっていたと聞いて驚きましたけど。

「源さんの天気予報」シール
(視聴者プレゼント用の非売品)

田中 「源さんの天気予報」には前任者のディレクターがいて、その人が突然辞める事になりました。誰かやらないかということで、急きょ担当することになりました。コーナーが始まって三か月くらい経った時期でしたね。

―― 「総合演出」っていうことだけど、そもそも「総合演出」って何なの?

田中 基本的には僕以外にはほとんどスタッフがいないので(笑)、一人で全部やるということで「総合演出」なんです。

―― 状況設定をして台本を書いてコーナーを展開させる、みたいなことかな。でも天気予報はその日の出来事じゃないの。どうやってあのCGのキャラに生放送で演技をさせるの?

田中 天気予報の原稿については法律上、僕が書くことはできないので気象予報士さんに書いていただきます。それ以外のバラエティーの部分を一手に引き受けると。

―― 源さんが「今日は雨だね〜〜」とか言ったりするのも?

田中 あのキャラクターは当時ですね、テレビ朝日が社運を賭けたリアル・モーション・キャプチャーという方法なんですね。つまり、実際の人間の関節部分にセンサーをつけまして、その人間が手足を動かすとCGの絵も動くという。

源さんの声と動きを担当する方がいて、こちらの書いた台本に沿ってその場でやってもらっていました。 97年の春から98年の秋くらいまでだったでしょうかね。

―― この天気予報のコーナーが日本民間放送連盟優秀賞、日本映画テレビ技術協会大賞のふたつを受賞するわけですよね。たしか、このCGシステムは鳴り物入りで導入されたシステムでしたよ。

その演出を任されながら……しかし、そこでもまた「初心」を取り戻してしまうわけですよね。せっかくテレビの世界でお金を稼げるようになったのに。そのとき取り戻してしまった「初心」ってどんなもの?

田中 それこそ毎日がテレビ局勤務でしたからギャラもよかったんですよ。何よりも「源さん」は記念の作品だし……そういう状況だったんですけどね。

でも、ふと、待てよと。自分がやりたい映像は何だったんだろう、って思っちゃったんですね。自分は「天気予報」がやりたかったのかなあ、って。それと、自分自身についてはかなりアナログな人間だと思ってるようなところがあって、源さんはCGでだったので「CG〜〜〜???」みたいな。

もともと入ったのが、映画フィルムを中心とした専門学校でしたし、その頃はまだインターネットもあまり普及していない時代でしたからね。あれ、ちょっと待てよ、これは何とかしないと。やるんだったら自分のやりたい映像をやらなくてはならないと……。

で、その頃自分の好きだったのがプロレスだったんですね。

―― プロレス……そうでしたか。今も好き?

田中 いや、今はキライになりました(笑)。でも当時は好きだったので、これはもうプロレスしかないと。

その頃ちょうど出てきたのがデジタル放送で、今のBSデジタルとは少し違う意味合いですが、いわゆる「スカパー」ですね。そこで24時間プロレスの放送をするサムライ・チャンネルが開局したんですよ。

これはぜひ一回やってみたいと思ったものですから、そっちへ行こうと思ったんです。「源さん」のほうは、そこでだらだらやっているとこのままなので辞めまして……

―― 辞められたテレビ局も迷惑したろうね。世間で注目の天気予報の担当者に、突然「初心」にかえられちゃったりして。(笑)

田中 そのとき運良くサムライ・チャンネルの制作スタッフ募集が求人誌に載っていたんです。それで応募してみたら「サムライ・ニュース」というプロレス情報番組のチーフ・ディレクターとして採用になりました。

―― じゃあ実際にプロレス番組をつくっていたの? それはプロフィールに書いてないけど。

田中 プロレス番組をやっていたというのはあまり……。今はあえて経歴から抹消しています。でも当時はホントに好きだったので約1年ほど頑張ってやっていました。ひとりのプロレスファンとしては、いろいろと夢のような場所に行かせてもらって取材しましたね。

―― そこで約1年間……ということは、もしかして、またもや「初心」を?

田中 そこでまたちょっと、ふと考えたんですね。いや、そこで一番考えたのか。プロレスも好きなんだけど、待てよと。

サムライ・ニュースというのは報道やいわゆる情報系バラエティーの要素もあって、しかも生放送でした。いろんな意味合いで、それまで自分がやってきた演出家としてのノウハウを駆使できる素晴らしい場でしたよね。確かに非常に楽しい1年間でしたし、ある意味で自分がテレビの業界に入って初めて好きなことをやれた1年間ではありましたけどれも……ちょっと違うな、と思いました。俺は映画をつくりたかったんじゃないのかと。

 

 
 
 
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