もうひとつの浅草案内  
 (10) 水辺を歩く [3]
このあたりも湊でした

隅田川は桜橋を越えたあたりから北に大きな弧を描いて彎曲する。堤防から川岸に降りて、視線の突き当たりに見える白鬚橋を終着点にして歩くのだが、石浜までの1キロは長い。遊歩道には微妙な高低があり、また川の曲がり具合もあって、陸と水との接線、川と空の境界線それぞれはどこまでいっても交わることがなく、消失点を見い出すことのできないこの景色のなかにいることが時間の流れを遅らせているのかもしれなかった。“停滞感”や“倦怠感”に近いものを感じるが、それも江戸の人びとにとっては一種の娯楽だったのだろうか。

「江戸御府内」をあらわす図をみると、このあたりは「石浜」ではなく「橋場」と記されている。石浜が存在したのはさらに古い時代のことであり、厳密な位置や当時の地理など詳しくは知られていない。隅田川の氾濫で幾たびも洗い流された結果なのだろう、かつて存在したはずの「石浜城」の場所さえ今も特定できないほどである。

「橋場」の由来は、鎌倉時代に諸国を行脚した一遍上人を描いた図に、このあたりの橋が描かれているからとも、また鎌倉に向かった源頼朝がここで船を浮橋に組んで川を渡ったからともいわれている。この名称は現在も町名として使われている。

御府内の図では、橋場は「町方」と近郊の農村との境界を示す黒い線の内側にあった。つまり、ここで江戸の町並みが終わるということである。線の外側を囲む田園地帯も江戸には違いないのだが、そこに引かれた太い墨の線は単なる行政上の区切り以上のものを見せつけている。対岸の向島は景勝の地として誉れ高く、それを東に望んで橋場の岸沿いには料理屋や別荘が並び、水辺には川遊びの小舟が浮かんでいた。川岸の風雅を損ねぬようにとの配慮からだろうか、問屋や商店など一般の家並は通り一本を隔てた西側に形成され、水辺は行楽の地として栄えた。橋場は余力をもった町衆や文人墨客のための“遊山”の場所だったのである。庶民が利用した渡船場のすぐ近くには、将軍が鷹狩りの際に使う「御上り場」と呼ばれる専用の船着き場までがつくられていた。

江戸屈指のリゾート地であるところの橋場は、明治以降は皇族や政財界の重要人物たちの別荘地として利用され、やがては近隣に進出した大企業で働く勤労者の町となり、大震災以後は区画整理されて高層団地の目立つ市街へと変貌してゆく。町並みと、そこに暮らす者たちの多くが均質化した現在では、かつてこの場所が、遊廓の吉原や芝居小屋の並んだ猿若町など身分制度の下層に位置する人びとの多く居住した浅草北部にあって特別な扱いを受けていたことなど想像もつかない。

橋場二丁目の街頭には「お化け地蔵」が立っている。わずかに奥まった場所にあるのだが、商店や住宅の建ち並ぶ通りで三メートル余の巨大な地蔵を拝顔するのは唐突な印象がある。その大きさから「お化け」といい、またかつてはその頭にかぶっていた笠が勝手に向きをかえたからこの名がついたともいう。この通りは江戸曹洞宗三か寺のひとつ、総泉寺の参道だった。関東大震災の後、総泉寺は板橋区に移転し、地蔵だけが残った。残った理由は定かでない。定かではなくても残ってもらわなければ困る事情はある。「お化け地蔵」は江戸の、橋場の景色のなかに焼き込まれているのだから。

江戸末期の浮世絵師、歌川国芳は『東都橋場之図』でこの地蔵を描いた。勇壮な武者絵で知られた国芳であったが、近年では、浮世絵と西洋画の表現を融合させ、そこに奇想を盛り込んだ特異な作品群のほうに注目があつまっている。洋風の風景画ならすでに亜欧堂田善が描いていた。かの大北斎も遠近法を取り入れていたし、土佐の絵師・金蔵が屏風に描いた芝居絵の室内空間には消失点が設定されている。先鋭的な画家の多くが西洋画法に興味を示し、手探りながらもそれを実現させた時代だった。

『東都橋場之図』には、松並木を背にした「お化け地蔵」を中央に据えて、数人の人物が描かれている。地蔵と行楽の数人を描いただけのこの絵が果たして「名所絵」に相応しいものであったのかは疑問だが、水平線を低くとって白雲をたなびかせた青空や眼前にひろがる緑地帯を見れば、なるほどこれは平和で生新な気配に満ちた“新しい風景画”なのだと思う。ここに描かれた人びとは六人。地蔵を見上げる夫婦と子供、懐手に散歩を楽しむ町人、それに農具を担いだお百姓二人、という構成である。

遠景に配置された農民の姿は写実的に描写されていて西洋の銅版画でも見るような趣がある。対する町人たちは色白でのっぺりとした浮世絵風の人物に仕立てられている。ひとつの画面にふた通りの描き方というのは、絵として眺めれば奇異なもの。しかし、これは国芳の江戸の名所を描いたシリーズでは盛んに繰り返された絵画上の実験であって、せいぜい絵の出来不出来を語る程度の材料でしかない。

ひとつだけ注目したいのは二人の農夫の姿である。日焼けをした色なのか、それともただ薄汚れているのか、この男たちの肌は薄茶色をしている。野良仕事に向かう途中なのだろう。その一人が振り返って行楽の人びとを眺める。ごく小さく描かれた農夫の表情までを見定めることはできないのだが、この絵のなかに人間をめぐる対比が描かれているのは明らかである。そのことは、この橋場の先にひとつの「境界線」があったという事実と符号する。はたして“境界”そのものを描くことが国芳の意図であったかどうかは分からない。ことの詳細は、一心に絵筆を走らせるこの絵師を、高いところから見下ろしていた地蔵にでも聞くほかはあるまい。

 

隅田川沿いには独特の寂しさが漂っている。歩くたびにそう思わされる。寂しくなるのではなくて、「寂しさ」というものがそこにある。そのわけのことを想うのだが、例えば隅田公園なら、かつて東京大空襲で亡くなった人びとの数多くの遺体がそこに仮埋葬されていたから、というのではないはずである。寂寥感は桜の季節も、真夏の炎天下であっても変わりがない。春の日ざしを受けて輝く川面の波頭は、一瞬の後に凹面に吸収されて光を失う。やがてその上を光彩まばゆい初夏の風が吹き抜けるのだろう。

 

 
(C) 2004 Mitsuru Iwasaki

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お化け地蔵