もうひとつの浅草案内  
 (11) 駒形堂の戒殺碑
駒形堂

十年ほど前のことだったが、小生の住む集合住宅に隣接する駐車場が取り壊されて、そこにビルが建てられることになった。日照権など関係のない“商業地域”ゆえに隣のビルは建蔽率ギリギリに建てられる。騒音につられて否応なしに現場を見学する日が続いた。工事の様子は上から丸見えなのである。

基礎工事は、まず地面が四角く掘られるところから始まった。完成した穴は、翌日には滲み出した地下水で泥水のプールと化す。「このあたりは、どこを掘ってもこれだなァ」と工事関係者の声。そこにコンクリート製の巨大な円柱が幾本も運び込まれる。先の尖った鉛筆のような形をしていて、電柱よりも遥かに太く、長い。これを杭として地中に何本も打ち込んだその上にビルが建つらしい。海抜にすると精々4メートル以内というほどの「東京低地」ならではの工法かもしれなかった。

こうしたやり方は最新の技術かと思っていたところ、じつは江戸時代にも全く同じことが行われていたのを知った。台東区教育委員会が企画した映像資料(ビデオ)『土の中からのメッセージ(2003年)』には台東区の地質と地層についての成り立ちが説明されていて、そこでは各種遺跡の発掘調査の一部が紹介されている。

上野・不忍池西側の池之端七軒町遺跡では寛永四年(1627)創建の慶安寺の跡地が発掘された。かつて不忍池の近辺は上野台地と本郷台地とに挟まれた谷底だった――江戸湾の海岸線の推移をみると海の底だった時期もある(池はその名残りである)。一帯は江戸初期からさかんに埋め立てられて開発されたらしく、慶安寺の発掘では江戸後期〜末期の低地帯での建築工法が確認された。

慶安寺の跡地の地中には、当時の建物配置に沿って、至る所に杭が打ち込まれている。3メートル余という長いものまで。杭だけでは不十分だったようで、その上にさらに枕木を敷き詰めて基礎が固められた。緩い地盤に杭を打ち込み、そこに土台を据えるというやり方はこの頃からのものであるらしい。

寺の基礎部分と同時に墓地も発掘・調査されている。江戸期の爆発的な人口増加を物語るかのように現場には棺桶が密集していた。隙間なく埋められた棺の列をみていると、人間とはあの世に往ってまでも斯様に窮屈な思いを強いられる生き物であるのかと寂しくなる。しかし同時に、どこか健気なふうがあり、感動的にも映る。

発掘された670基の墓のうち約半数が円形木棺を使用している。これは俗に「早桶」と呼ばるもので、ちょうど漬け物用の大きな樽に似た安価な棺である。土葬が中心の時代にもかかわらず保存の状態は良好。なかには二つの桶が半分ほど重なった状態のものまで。地中のバクテリアが木材と遺体とを分解して土に還す間もなく次の棺が埋められたということだろう。陶製の瓶を使用した上等な棺には白布に包まれた遺体がそのままの姿で眠っていた。一説によると、空気中よりも水中、水中よりも地中の方が保存は良いらしい。土と墓石とで押さえ付けられていた魂が今解き放たれる――そう考えれば、こうした発掘作業も一種の供養といえなくもない。

浅草にも土中から掘り出されて再生を果たした遺物がいくつかある。駒形堂の戒殺碑はそのひとつ。これは発見されてからは本来あるべき場所に据えられている。

浅草寺の雷門から南へのびる並木通りを南へ。数分歩いたところで道は江戸通りにでる。この合流地点にあるのが駒形堂。堂の裏には隅田川。

『浅草寺縁起』によると駒形堂は天慶五年(942)に建立された。「駒形」の由来には、隅田川から眺めた堂が白駒の駈ける姿のように見えたからだといい、また、浅草観音に奉納するための絵馬を掛けたこの堂が「駒掛け堂」と呼ばれて転訛したもの、あるいは、駒形神を相州箱根山から勧請したことにちなむ、といった説がある。堂はしばしば焼失していて、現在の堂は昭和8年に再建されている。

駒形堂は建物そのものよりも、それが建てられた場所に意味・意義がある。推古天皇三十六年(628)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)の漁師兄弟が隅田川の河口で一体の観音像を投網にかけた。仏像はやがて浅草寺の本尊となるのだが、兄弟がこれを持ち帰り上陸したのが堂のあたりであって、そこでこの土地が御本尊示現の場所として特別な意味をもつことになった。とはいうものの、多くは「縁起」や「伝承」に描写された世界であって史実とは断定できない。しかし史実でなくても真実を含むという場合はあるだろう。

浅草寺の草創に関わったとされる人物たちのなかに特権的な階級の人物はひとりも存在しない。小さな観音像は草庵に安置され、それがやがて別の人物の“私寺”とおぼしき場所に納まる。ここまでの過程に登場するのはすべて庶民である。――「縁起」とは常に後世になって書かれるものであり、そこに著名な人物を登場させることで権威づけをねらうのが一般的とされてきた。そうしたなかで『浅草寺縁起』の記述は例外的なものであり、ゆえに、そこには強烈な“本当らしさ(リアリティ)”が漂っている。物語の余白の部分からは、この地に観音信仰を定着させた無名の人びとの意欲と行動力を読み取ることができる。“海中から出現した観音”については、東国への仏教(観音)信仰の伝播の形態が海路を経たものであったことを暗に示すという考えもある。

『浅草観音戒殺碑』の趣旨は、“ここは浅草観音が出現した聖なる場所であるから、駒形堂を中心にして十町余の川筋で魚介の殺生を禁じる”というものである。本来は元禄六年(1693)に浅草寺第四世宣存が願主となって建立されたものだが、その後の火災で倒壊して宝歴九年(1759)に造り直されている。昭和二年(1927)に土中から発見され、同八年に修補再建されたこの戒殺碑がどちらのものであるかは判明していない。

江戸末期の地図を参照すると、駒形堂の位置は現在よりもわずかに南(下流側)にあったことがわかる。堂の向きも変わっている。“場の記憶”は次第に薄れてゆき、過去と現在とをつなぐ物証はこの戒殺碑だけである。石質の関係なのか、その表面にはすでに新たな剥落が起きつつあるようにみえた。都指定の有形文化財(古文書)だというのに。

土のなかから掘り出されたものには、現役の庶物が保持することのできない種類の威厳がある――遺体にしても石碑にしても。忘れてならないのは、それを掘り起こした側の責任ということかもしれない。

 

 

 

 
(C) 2004 Mitsuru Iwasaki

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戒殺碑