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浅草寺境内に並べられた遺物を眺めていると、はて、何故ここにあるのだろう? と思わされるものがいくつかある。そこに置かれた理由の見当がつかないのである。そんなことに興味をもつようになったのは、ひっそりとした裏通りで古物の小商いをする店を覗いてみたときからだった。
骨董屋というほど洒落たものでなく、リサイクルショップのような実用性もない、おそらくは主人の嗜好だけで集められた品を置く店。(実に失礼ながら)端から眺めればほとんどが不要物としか思えない物たちは、店主の“思い”ひとつだけでこの世につなぎとめられている。そのことの善し悪しではなく、物とは多かれ少なかれそうした側面をもつのではないだろうか。
この欄の初回で、浅草寺の境内に据えられた石碑のひとつを紹介させていただいたことがあった。大きな亀の彫刻を台座にして、桜花を詠んだ和歌三十六首を刻んだ碑である。その奇異な形状にばかり気をとられて、なぜそれが浅草寺にあるのかまでは考えてみたことがなかった。
後日、別の調べ物をしながら、この寺がかつては江戸屈指の桜の名所であったことを知り、歌碑の存在理由については納得できた。ついでにと、台座の「亀」を調べてみる。その意味を直接示す資料は見つけられなかったものの、いくつかの事実を総合して、おそらくこうした事情ではなかったかという説は構築することができた。しかし愚かである。メモをとっておかなかったために、せっかくの仮説も失念するという醜態。事物が存在理由を失う以前に、こちらの存在そのものが危うい。
各種の碑や石仏、記念物等を総称して「金石碑」と呼ぶようで、この寺には多く残されている。たとえその前で立ち止まる者がなくても、過去からのメッセージを託された物はそこに居続けるのだろう。奉納者たちの思いだけに注目すれば、この境内には無数に近い“思いの糸”が張り巡らされていることになる。金石碑の主要なものについては境内西の一区画「新奥山」と境内裏を中心にして配置されているのだが、碑はそれだけではない。本堂斜め前の「鳩ポッポ」の歌碑は、付近に群れる鳩たちと一対になってはじめて意味をもつものだった。
“場の記憶”は薄れてゆく。「鳩ポッポ歌碑」のすぐそばには、つい最近まで鳩豆を売る小屋があった。それがいつのまにか撤去され、かわりに「鳩に餌を与えてはならない」と書いた真新しい看板が立つ。野鳥を介した健康障害を懸念してのことらしく、結果、境内の鳩は激減した。鳩豆屋は大正時代に撮影された境内の写真にも当時のものが写っているほどで、すでに浅草寺の景色に溶け込んでいる。鳩がいなくなれば、存在の根拠を失った歌碑もいつの日にか宙に浮いた存在となるのだろう。碑文には「鳩は平和の象徴であるから……」という一行。その横に立て看板。
現在の浅草寺には、いわゆる古寺・古刹に見合うような重々しい塀や囲いといったものがない。もちろん実質的な中枢部である寺務所、本坊の伝法院等は厳重にガードされているが、広い境内の大半は東西南北どの方角からも、いくつもの道が境内へと続き、誰でも、その気になればいつでも敷地に立ち入ることができるようになっている。(縁起によれば)1300年以上の歴史をもつ寺なのに、これは珍しい現象ではないだろうか。理由はおそらく、明治の頃に周辺の地域を含めて“公園化”されかかったこと(現在は公園ではない)と、震災・戦災で周囲が焼け、その後に建てられた商家や家屋が密集していることによるものだろう。今さら格式張った塀はつくれないようである。
江戸期の錦絵や絵巻をみると、かつての浅草寺は慎重に警備されていたことがわかる。塀は雷門の脇から巡らされ、さらに奥の仁王門脇からも伸びるという二重構造。雷門から仁王門まで続く参道の両側(現在の仲見世のあたり)は「南谷」と呼ばれ、子院の建ち並ぶ場所だった。地形としての谷がそこにあるわけではない。一帯を宗派の総本山延暦寺のある比叡山になぞらえてのことである。「東谷」や「北谷」もあった。創建以来幾たびか炎上した境内に、こうした超俗的な世界(それは「小宇宙」とでもいうべきか?)を偲ぶ手がかりは少ない。
正直なところ、塀を失い、周囲との境界線のかき消された浅草寺のどこに仏性を見い出すことができるのか、などと不遜な考えを抱いていた時期があった。しかし、朝に夕べに歩きつづけていると、この場所の“空気の違い”に思いを致さずにはいられなくなる。
自転車に乗ったお母さんが境内を横切ることがある。そしてなぜか、木陰から鬼太郎やウルトラマンがこちらを見上げていたりもする。呆れるほどの鷹揚さと包容力。そうした“場”のもつ磁力に導かれながら、この浅草寺を歩いてみようかと思う。
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(C) 2004 Mitsuru Iwasaki
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