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浅草寺境内から西へ、かつての興行街である「旧浅草公園六区」へと続く道は四本。雷門側から順に伝法院通り、五重塔通り、西参道、花屋敷通りと並び、それぞれは微妙に屈折し、あるいは緩やかにカーブを描きながら陽の傾く方角に伸びる。
境内の西の端、いくつもの碑が建つ「新奥山」の脇から五重塔通りを歩く。講談、大衆芸能の殿堂・木馬館の手前を右に折れ、さらに西参道を横切ると、その裏が「初音小路」。この間わずか数分。
「新奥山」があるのだから、その昔には「奥山」があった。掛茶屋、弓場、見せ物小屋などのひしめく本堂西側から裏手にかけての一帯は、江戸以来続いた“しょば”であった。しかしその興行小屋、出店のすべては撤去され、新たに田圃を埋め立て造成された「六区」に移転される。それが明治17年(1884)のこと。聖と俗の汽水域「奥山」は、明治7年、浅草寺境内が「浅草公園」に指定され、同17年に一区から六区に分割されるという一連の“近代化”の流れのなかに消えた。
関東大震災、次いで東京大空襲に焼けた街もそのたびに復興を果した。だから浅草にも路地が残っている。
明治17年の「浅草寺火除地埋立竣工図」を見ると、現在、花屋敷と場外馬券売り場とで鋭角的に挟まれた初音小路のあたりには「瓢箪池」があったというのがわかる。瓢箪池は観音堂再建のために、隣の大池と共に終戦後に埋め立てられ払い下げられた。小路の脇がいまでも浅草寺資材置き場であるなどして土地の権利関係は不明だが、二十軒程の飲み屋が軒を並べるこの辻は、昭和から平成にかけてのバブル期を席巻した“再開発の嵐”を逃れることができた。連日の観光客で賑わう境内と遊戯場・娯楽施設の林立する旧六区との中間に位置しながら、なかば時でも停止したかのように生き残れたのは、ひろくホトケの加護であったのかもしれない。
――映画館でもなんでも今に比べるとひどく汚なかったし、町幅も狭く、いたるところに路次があって、迷宮のようで、そこに汲めどもつきぬ魅力があった。いくど浅草へいっても、どこかにまだ知らない秘密の場所があるという感じがしていた。路次をぐるぐる廻っていると、あっというような珍しいものに出くわすのではないかという期待があった。……江戸川乱歩「昔の浅草党」(昭和35年発行『浅草今昔帳』――浅草の会百回記念号)
「初音小路」の入り口はふたつ。西側は場外馬券売り場に、北側は遊園地の「花屋敷」に面していて、週末ともなれば、昼日中から路上のテーブルで煮込みとおでんの湯気が踊る。だが、このたたずまいと平日の、火点し頃までにはややあるかという時間帯のもつ風情とはまた違う。
ひとつふたつと交差する路を南から北へ、そして東から西へと縫うようにして進む。まだ一葉もつけぬ藤棚の影をアスファルトの上に落して、そこにはむせ返るような週末の匂いはなく、突き当たりの境内で鳩と戯れる嬌声も届かない。いまこの小路にひとりきりで立つことの悦びとせつなさは、その「消失点」さえ失ってしまった透視画が誘いだす心地とでもいうべきだろうか。
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(C) 2003 Mitsuru Iwasaki
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