もうひとつの浅草案内  
 (3) 北斎忌
遍照院

嘉永二年(1849)四月十八日の明け方近く、葛飾北斎は浅草・遍照院境内の長屋で九十年の生涯を閉じた。葬儀は翌十九日に行われ、葬列は百人ほどの参列者を従えていたという。遺体は同じく浅草の誓教寺に葬られた。

葛飾北斎についての評伝の多くは、明治二十四年(1893)飯島虚心によって書かれた『葛飾北斎伝』を参照している。生前の北斎を知る古老に取材したものだが、不明な点も多く、そこにさまざまな解釈と想像の余地が残されている。

本所割下水」生まれ、御用鏡磨師である中島伊勢の養子に迎えられ、長じて浮世絵師・勝川春章の門弟となる。しかし、その許を離れた後は特定の流派に与することなく独自の様式を展開した。画号を三十回余りも替えた北斎が、九十三度の転居の果てに浅草・遍照院内の仮宅に暮したのは、その人生の最後の一年間だった。

特筆すべきは画号と転居の多さ。戯作者とその挿し絵画家という関係にあり、北斎と親交のあった曲亭馬琴は「居を転すると名ヲかゆるとはこのをとこほどしばしばなるハなし」と書き残している。名前が変れば、画題も様式も変化した。もし北斎と聞いて『冨岳三十六景』の連作だけを思い浮べるなら、この桁外れに多作な絵師について“氷山の一角”しか見ていないことになる。

北斎の“心変わり”の謎を解くための、本人による弁明は残されていない。映画『北斎漫画』(1981年 監督 ・脚本 新藤兼人 原作 矢代静一)では、この変心を本人にでさえ制御不能な情動――その多くは外界(他者)から受ける啓示に導かれたもののようである――と捉えて「夕立」になぞらえている。主演の緒方拳は「畜生!夕立がきやがった」などとつぶやいては変節をくり返す。

この絵師の最晩年の姿を思い描いてみたい。遍照院を訪ねてみた。

遍照院は現在の浅草六丁目、北斎のいた当時と同じ場所にあり、江戸時代には浅草寺を囲むようにして三十数カ所あった子院のひとつ。現在も子院である。

かつてこの寺は他の子院と同様に境内に長屋を建て、これを貸し出していた(当時これを「隠し町」と呼んだ)。ただし、今ではその敷地もわずかとなり、門の向きも南から東へと変っている。今回はご住職のお話を直接うかがうことができた。

「小布施の方から見学にこられたり、あちこちから出版物を贈られたりもするのですが、ここには北斎についての一切の記録も、記念碑さえもありません。」そう切り出された和尚も、敷地のすぐ裏が山谷堀(現在は暗渠)であることからすれば、この場所は当時の本堂裏に当たる位置であり、墓地もあり、おそらく北斎のいた長屋もこの近くであったろうとおっしゃる。

かつて遍照院の門は赤く塗られていたという記録があり、そのことについてもお尋ねしてみた。「その門は震災までは確かにあった。古い方なら御存じのはず。ただし江戸時代にそれが赤い色だったかどうかまでは不明」とか。「雷門は赤くても、ここ(遍照院)は観音様の子院。墓地があり、滅罪、回向の場であるから、その門を赤く塗るのは比較的珍しいこと」だそうである。話題は、一般的な本山と塔頭(末寺)の関係とは異なる浅草寺の観音信仰の形態についても及んだ。推古朝から続く信仰は天台の流れに統合されてからも、子院はまず観音様の方を向き、観音様は天台の方をお向きになっていらっしゃる。そういうことであるらしい。信仰に裏打ちされた活気と求心力とに満ちた往時が偲ばれる。

夕映えのなかを、遍照院から誓教寺まで歩いてが小一時間ほど。碑銘「画狂老人卍墓」の前に立つと、行き着くべきところにたどりついた安堵感がある。「勝川春朗」から始まり延々とくり返された北斎改名の歴史は、晩年には「画狂老人卍」、そして「老人卍」と続いてその幕を閉じた。墓石表面にひろがる黄金色の照り返しに目を細めると、その人が不在であることさえ忘れる。

仮住まいともいうべき北斎終焉の地・遍照院について、郷土史料には次のような記述がある。

「元堂前の赤門には卍字の金章を附し 本堂には龍及鶴の彫刻があった」

晩年の北斎が得意とした極彩色の肉筆画の世界を連想させるのに充分なイメージであるかもしれない。

 

2003年4月18日。元浅草の浄土宗・誓教寺にて葛飾北斎の百五十四周忌法要が営まれた。読経・焼香に続き北斎の戒名にちなんだ法話、次いで寺所蔵の北斎肉筆画が公開された。なかでも『絹本着色骸骨図』は、牡丹灯籠を提げた骸骨が月下に竹林の脇を行くという大作。墨色を基調にして、灯籠の薄明りが怪しく、しかしどこかユーモラスな北斎最晩年(九十歳)の仕事である。

 

 
(C) 2003 Mitsuru Iwasaki

画像およびテキストの無断転載等を禁止します

 


 

 

back  next

 

誓教寺
画狂老人卍墓