もうひとつの浅草案内  
 (4) 金龍の謎
待乳山聖天宮

浅草寺裏の言問通りを東へ。隅田公園についたら、堤防沿いに隅田川上流へ向けて歩く。桜橋の手前で西を向くと、そこには鬱蒼とした小山が見える。緑の季節には公園の木立が邪魔をするけれど、それが待乳山。

推古天皇の時代、待乳山は一夜にして地中より涌現した。天から舞い降りてそれを護ったのが金色の龍。その六年後の推古九年(601)夏、十一面観世音菩薩の化身として現れた大聖歓喜天が早魃に苦しむ天下万民を救うことになる。待乳山(古くは「真土山」とも書いた)の聖天信仰の歴史は浅草寺の縁起よりも古い。

大聖歓喜天は天部の神であるが、そのルーツはインドのガネーシャ神。密教の細部までは知らなくても、象頭人身の男天と女天が抱き合う姿には鮮烈なものがある。金色の龍といい、この大聖歓喜天といい、イメージは伝説を色濃く染め上げている。

その大聖歓喜天(秘仏)を祀った通称「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」は、待乳山の頂上――といっても現在の待乳山は小丘というほどのもの――にある。東都随一の名勝とされ、北斎や広重が描いた往時の景観を偲ぶのも今では難しい。境内に残る土塀や江戸初期の歌学者・戸田茂睡の歌碑(拓本をもとに復刻されたもの)などにその面影は宿るものの、現在の聖天宮は昭和三十六年に再建されている。

あわれとは夕越えてゆく人もみよ
     まつちの山に残すことの葉     戸田茂睡

「聖天さま」は正式な名称を『待乳山本龍院』といい、『金龍山浅草寺』の子院である。山号についてであるが、金色の龍が現れたのは待乳山の上空なのに、なぜ「金龍」の文字が浅草寺の方につけられているのか。素朴な疑問を抱かざるをえない。

昭和八年編纂の『浅草區史』では「浅草寺の金龍山の山号につき」の項目で、この謎について考察している。

その筆者によれば、明應八年(1499)の古文書のなかに「金龍山浅草寺」の記述があることからして、すでに足利初期には浅草寺に「金龍山」の山号がつけられていたらしいという。ただし、その由来についての定説はなく、「金龍山とは待乳山のことである」「いや、待乳山を金龍山と呼ぶのは誤りである云々」といった江戸以来の諸説や伝説を紹介している。実際に、江戸中期以前の名所案内では待乳山に対して「金龍山」の名称をつけたものが多いようであり、つまりは、当時の人々の間でもこのふたつが混同されたり、「金龍山」の山号をめぐって異論が渦巻いていたことになる。真相は待乳山の薮の中。

「これらの伝説は凡て信憑すべきものであるかもしれないが また全々信用する事もできぬ様にも思はれる」としながらも、筆者は、待乳山は土地の豪族・土師中知(はじのなかとも=浅草寺を創建したと伝えられる人物)の墳墓であるという伝説に拠り、この山はおそらく大規模な古墳であろうと推測している。そして、日本各地に点在する黄金発掘伝説と古墳からの出土物の関連にもふれて、もし、待乳山からの出土物の中に黄金でできた何かがあったとすれば、そこから金龍の伝説が生まれたとしても不思議はないとしている。金龍山イコール待乳山というのがこの筆者の見解であった。

『浅草區史』の「山名考」の結論は、「金龍山」の山号は本来待乳山本龍院のものであり、徳川家の庇護のもとに急速に勢力を拡大していった浅草寺とその子院という関係のなかで、それが浅草寺の方に鞍替えしてしまったのではないか、というものである。

現在の『台東区史』では、待乳山が古墳であるという説は否定されているものの、「金龍山」の山号についての特別な関心は見受けられない。編纂と改訂を繰り返された『台東区史』を過去のものにまで遡っていくと、このテーマが次第に「棚上げ」されていった様子をうかがうことができる。史料としての昭和八年の『浅草區史』は、几帳面な鉄筆の跡から当時の熱意が伝わる「がり版印刷」の冊子である。

いま目の前にないのだからそれは存在しない、とはいえないだろう。待乳山の上空に現れた金龍の姿は、この眼を閉じさえすれば見えてくるような気がする。それを「幻視」とだけ呼んで済ませるかどうかは、それぞれの了見によると思うのだが。

 

 
(C) 2003 Mitsuru Iwasaki

画像およびテキストの無断転載等を禁止します

 


 

 

back  next

 

「築地塀」は江戸を偲ばせる
一家和合と商売繁盛のシンボル
「大根と巾着」