甘ったるい糖類の香り。それと焦げたソースの匂いが混じるなかで、テキ屋のKさんを探した。例年通りなら「朝顔祭」のゲート近くでガラス細工を商う姿が見られるはずである。
以前教えてもらったのだが、香具師の世界とは厳しい縦社会であり、どこに店を構えるかについても「序列」があるらしい。そこで、浅草寺境内なら奥の本堂寄り、この朝顔祭なら客の流れ込むゲートのそばが古株のKさんの指定席である。そういえば、上野不忍池のほとりで商いをするときも、おじさんの店は見栄えのする場所にあった。だが今年に限っては、まだ一度も会えずにいる。
夏本番を控えたこの時期、涼を求める浅草の人びとは入谷の「朝顔市」(7/6〜8)に足を運ぶ。浅草寺裏の言問通りを一路西へ。日比谷線入谷駅前の交差点には「入谷朝顔発祥の地」の碑が立つ。
入谷は浅草ではなく下谷に属する。下谷とは湯島、本郷、上野の高台の下に位置するので古くからそう呼ばれてきた一帯のことであり、明治11年の東京府15区6郡制発足から昭和22年の23区制実施までのあいだ、独立した行政区域「下谷区」として存続した。付近にはいまでも「下谷」を冠した住所表示が残っている。
水田と低湿地の多かったここはかつて「入谷田圃」と呼ばれ、朝顔や蓮の栽培にも適していた。明治の初期、近隣の植木職人たちが朝顔の鉢植えを作ってみせたところ評判となった。それが「朝顔市」のはじまりとか。幕末から明治にかけて残酷絵や錦絵新聞で異彩を放った浮世絵師の大蘇芳年(月岡芳年)は、明治十三年の錦絵シリーズ『東京自慢十二ヶ月』のなかで、すでにこの入谷の朝顔を描いている。市そのものは大正期に一旦廃止されたが、戦後「朝顔祭」と改称されて再開、現在に至る。
「恐れ入谷の鬼子母神‥‥」という洒落言葉は江戸の狂歌師、蜀山人の作である。その鬼子母神を祀った法華宗真源寺の境内を中心にして、門前の言問通りには朝顔売りの露店が並ぶ。雛壇の上の朝顔の数、二万鉢とか聞いた。
――鬼子母神は他人の子を奪い取って食うインドの女神。釈迦はそれを戒めようと彼女自身の子を隠した。子を失う悲しみを知ったその女は、改心して児女を守る善神になったという。それで、この入谷鬼子母神を表記するには、上についたツノ=「ノ」を取り去った「鬼」の字を使うことになっている。
お寺の方に直接伺ってみたところ、朝顔市そのものが鬼子母神の縁日というわけではないそうである。ではあるが、実際、鬼子母神には朝顔のついた“かんざし御守”というものがあり、かつてはそれに実物の種までつけて出していたこともあるという。中国から渡来したこの植物の種子は、もともとが漢方薬であった。お守りにして髪飾り、しかも薬つき。市の賑わいが、あるいはそこに憩いを求めた人びとの心が名所と名物とを融合させたのかもしれない。こうして入谷鬼子母神に新たな“ハレの日”が加わっていったようである。
朝顔の露店と対をなすようにして、通りを挟んだ向いの歩道には一般の露店がたち並ぶ。そちらはテキ屋稼業の仕事場である。たそがれ時の人の波も退いたその夜遅くに、もう一度そこを歩いてみる。
午前二時。千鳥足の勤め人のほかに通りをたどる姿はなく、ハロゲン灯に照らし出された鬼子母神前の通りでは、商いを終えた売り子たちが法被の前を開いてくつろぐ。こちら側の歩道には裸電球がわずかにふたつ。連なるビニールシートの屋根の下で、薄明りを頼りに明日の仕込みをする若い影が動いた。
「若いときにゃ、おソバなんていちどきに六キロも焼いたもんよ」。そう話していたおじさんのゆく末を知る術がない。昭和ひとケタ世代のKさん、不養生でもしたか。
十数年前のことだった。まだこの神田生まれのおじさんと知り合ったばかりの頃に、わずかばかりの額だが用立てさせてもらったことがある。浅草で最初に知り合った人だからというほかに理由らしきものはなかったのだが。
「名前も知らない奴に貸したカネが返ってくるか?」と笑う人もいた。それでも、ややあって照れ顔のおじさんは現れた。むき出しの酒の壜を差し出しながら「待たせちゃったねェ」と。
風通しのよからぬご時世を嘆くまえに、朝顔の種でも蒔くとしよう。
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(C) 2003 Mitsuru Iwasaki
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