もうひとつの浅草案内  
 (6) 凌雲閣と十二階下
「凌雲閣」

浅草公園の整備・近代化の名のもとに、江戸以来の見せ物小屋の多くは奥山から公園六区へ移転された。それが明治17年のこと。それから六年後の明治23年10月、「凌雲閣」は英国人の東大教師W・K・バルトンの設計により、公園に隣接する地区に建築された。十階までが八角形の総レンガ造り、十一、十二階が木造の塔である。その通称「十二階」は大正12年9月、関東大震災で半壊した。浅草の地に近代娯楽施設の代表としてそびえたのは34年間と短く、地震で八階から上を失った「十二階」は赤羽工兵隊の手で爆破・解体されている。

建設された当初、十二階の内部は十階までがエレベーターで昇降できたが、危険をともなうとの理由で螺旋階段に変更された。入場料は大人6銭、軍人小児3銭也。各階には絵画や東京美人の写真等が展示され、九階には官報と新聞の閲覧室。休憩所は三階に西洋音楽を聞かせるもの(有料)、十階にも美少女が茶菓を運ぶ有料のものがあり、回廊式の十一、十二階には見料一銭の望遠鏡が備えられていた。

「十二階から見た山の眺めは、日本にもたんとない眺望の一つであるということを言うのに私は躊躇しない」と書いたのは田山花袋(『浅草十二階の眺望』大正12年)だったが、天気の良い日なら西は箱根、東は日光まで見えたそうであるから、高さ六十メートルほどの視座も当時は特別なものであったのだろう。

人を高いところに置いて楽しませるというこの発想の源流のひとつは、明治18年ころの浅草観音の五重塔の修理にあったそうである。修理用の高い足場に下足料一銭を取り登らせたところ、これが好評を博した。次いで、それに目をつけた興業師が浅草公園内に展望用の「浅草富士」をつくる。材木と竹編みとを漆喰で固め、螺旋形に登山道をつけた素朴な人工富士は、それでも十八間(33メートル)という高さがあった。こちらは入場料大人五銭、小人三銭で、明治20年のこと。そしてその三年後に十二階である。

十二階の上層部に立つと塔そのものが揺れているのがわかる、と書かれたものをいくつか読んだ。「建坪三十七坪五合」であるから華奢な塔であったといえるだろう。だが、揺れるように感じるのは気のせいである、と書いたものもある。いずれにしても、ある高さ以上に据えられたとき、わたしたちの視線は宙を泳ぐのかもしれない。たとえば、名匠・溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)の第二部冒頭では、撮影用カメラは右斜め上方(地上何メートルかは不明)からうねるようにして宙をすすみ、高度を下げながらゆっくりと大きな門のなかにすべり込む。小鳥のように、あるいは龍のように。そして、その落差によって生じた浮遊感のなかで物語の続きが始まる。

震災後に撮影された十二階の写真からは、焼け野原と化した周辺の様子を知ることができる。この塔の下に位置して「十二階下」と呼ばれた、“銘酒屋”の密集する地域の被害はかなりのものと思われる。

――十二階下は、昼間でも、「君恋し」や「枯すすき」の流しが出入りしていました。観音様の境内で、演歌師が本を売り、夜は、ほとんどそこに集まるのです。銘酒屋とは銘酒ありますを看板にして女性に接待させる。よく考えた名ですね。……「路地ぬけられます」は銘酒屋の特徴でした。――「金子弘一氏 古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和 2」

十二階下と総称された範囲は今日想像するよりも広く、南北に長い公園六区の北端に接した通りの界隈からさらに北に伸び、千束小学校の近くまでをさすこともあったらしい。千束小学校の創立90周年記念誌には、崩れ落ちた十二階の姿が震災当日に校庭から見えたとあり、地震の一時間後には北(吉原方面)から、そして南(十二階下方面)から襲いかかる炎であたり一面が火の海になったとある。

凌雲閣の建っていた場所は小生の住むすぐ近くで、国際通りを渡ってせいぜい徒歩三、四分ほど。当然ながらかつての面影はなく、説明板のひとつさえないのだが、そのころのものと現在の住居表示とを対照してほぼ正確な位置がわかる。そこから曇天の空を見上げてみた。

上部が欠け落ちた十二階の姿をイメージするのは難しくないだろう。かつてはキリスト教徒の時祷書にくり返し描かれ、北方ルネサンスの巨匠、かのピーター・ブリューゲルも描いた『バベルの塔』の図を思い起こしていただきたいのである。「バベルの塔」は人の野心のむなしさを描いたものであったが、諦めきれないところが人間なのだというのもある。さて、我々は何処へ向っているのだろうか。

 

 
(C) 2003 Mitsuru Iwasaki

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(見えるでせうか? 幻の塔が。)