もうひとつの浅草案内  
 (7) 「はなし塚」の話
石積みの塀(本法寺)

明暦三年(1657年)一月十八日のこと。同じ振袖を着た三人の娘が相次いで病死をしたため、その供養にと着物が焼かれた。折しもの竜巻きで舞い上がった振袖は本郷丸山の本妙寺本堂に火の粉を降り注ぎ、そこから出火する。炎は北西の強風にあおられて南へと向い江戸の中心部を焼き尽くした。

江戸史上最大の惨事の発端が、そのディティールまで明らかなのはいささか不自然であり、「真相は幕府に不満をもつ浪人の放火だったのではないか」といった説などさまざまにある。この「振袖火事」とは「明暦の大火」のことだが、翌十九日に起きた二件の火災と合わせて“明暦の”と総称される。被害は甚大で、死者数については、一万人ほどのものから十万人までと複数の記録が残っている。

幕府は焼失した寺社の復興に際して周辺地への移転を奨励した。浅草が「新寺町」と呼ばれたのもそのため。

地下鉄銀座線・田原町駅前から“あみだくじ”のように路地をたどって西へ歩く。こんなところに寺があったのか……などといった感慨はこちらが勝手に抱くものであり、古地図をみれば、むしろ寺社の敷地でない場所を探す方が難しいほどのかつての賑わいだった。浅草通りの歩道、その南側を上野方面に向けて徒歩三分。脇道に目をやると、そこには石積みの塀一面に往年の落語家、演芸関係者たちの名を刻んだ寺が見える。「はなし塚」はこの長瀧山本法寺の境内に立つ。

昭和16年10月、太平洋戦争に突入する直前の戦時下で、芸能関連の各団体は演題演目についての自主規制を迫られていた。それに率先して応じたのが落語界だったという。先人の残した演目を甲・乙・丙・丁の四種類に分け、時勢にそぐわないものを「丁」にまとめてこれを禁演落語として発表した。「丁」の内容は花柳界、妾、酒にまつわる噺、そして郭噺などである。当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主の協力で本法寺の境内に「はなし塚」が建立され、そこに禁演落語の台本などが納められた。碑は落語界の先達の慰霊も兼ねていたそうである。

この出来事は落語界のしでかした「愚劣な真似」(結城昌治)である、と後日になって批判する向きもある。人情の機微をうつし、その視点を常に市井の側に置いてきた表現の分野にあって、関係者がこぞって圧力に屈し、自ら尾を振るようにして体制にすり寄っていったのは、落語という芸の本質に照らしてみて一種の自殺行為ではないのか、噺家たちのプライドはどこにあるのだ、といった意味合いのようである。無頼の名人・古今亭志ん生の芸を愛し、おおらかな落語の世界に親しんだ作家による苦言に違いなかった。

しかし時代を考えれば、滅私奉公や“長いものには巻かれろ”式の対応も避けることのできないものだったかもしれない。もしそこに、「どうせなら、いっとう最初に巻かれちまおうか」ほどの気分があったのであれば、それは救いだろう。自粛ムードに逆らう“抵抗落語”などといったものは、どう考えてみてもこの芸には似合わない。やるなら、人目を忍んで“こっそりと軽妙に”が、いかにも落語風ではあるまいか。

終戦の一年後の昭和21年9月。この塚の前で「禁演落語復活祭」が催された。塚からは禁演落語の台本が取り出されて、かわりに戦時中の台本が奉納されたということである。こうしてやっと一連の出来事に「落ち」がつけられた恰好となる。闇のなかに五年間も放置され、このとき禁を解かれた噺のなかには『明烏』『五人廻し』『木乃伊取り(みいらとり)』など郭噺の名作が含まれていた。私見だが、なかでも『五人廻し』の物語には人間臭さを漂わせたささやかな“闇”のことが語られている。禁演落語が眠っていた“戦時中の闇”とは異質のものだが、果してどちらが暗く、深いのだろうか。

場所は吉原のとある女郎屋。大きい店でなく小店というほどのもので、その二階に並ぶ廻し部屋にはそれぞれ客がいる。「廻し」とは、娼妓が複数の客を掛け持ちすることを意味し、客は彼女が部屋にやって来るまでひらすら待ち続けなければならない(来るか来るかと待ちくたびれるので、これを“来るか疲れ”という)。――遊女と客の関係であるが、金を払うのが客の方であるにもかかわらず、主導権は花魁の側にあるというのが暗黙の了解。こうした遊びの流儀になじめない者は“野暮”であるとさげすまれた吉原の郭であった。

夜半はとうに過ぎて、やがて空も白み始めようかというころ、いくら待てども姿を見せぬ花魁にしびれを切らせた四人の男が見回り番の若い衆(といっても若くはない)に、宵に買った女が来ないのだから「娼妓揚げ代金」を返せと迫る。物語は随所に“くすぐり”を挟みながら個性豊かな四人の客を描き分けて進行する。

五人目のお大尽のところにいた花魁と掛け合った若い衆は、太っ腹のこの男から四人分の玉代を頂戴して客を帰らせることになるのだが、噺はここから急速に展開する。花魁が放つ痛快な「落ち」の部分は伏せることにして、結局、この五人目のお大尽も振られてしまうのである。

『五人廻し』の噺の余韻には、聞き手にとってのっぴきならない真実がひとつ潜んでいる、と思う。いいかえると、そこには世の男どもを根源的な恐怖に突き落とす「余白」の部分が存在する。自尊心を傷つけられ、あげくは振られてしまう男たちの哀れで滑稽なさまを、客席から“他人事”として眺めて楽しんだ者の耳には、つい先ほどまで目の前に立ち現れていた花魁が「落ち」のあとに発していたかもしれない「無言の一言」がかすかに響くのである。噺の台詞にはないが、野暮を承知でつけ足すならこんなふうだろうか。

「そこのお兄ィさん、六人目のあんたも帰っておくれよォ。」

 

 

 
(C) 2003 Mitsuru Iwasaki

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懐かしい師匠たちの名前
「はなし塚」