|
浅草にはかつて湊(港)があったと聞くと驚かれるかもしれない。だが本当である。江戸湾の海岸線は、15世紀半ばには浅草南部の鳥越あたりに達していたと推定されている。したがって、浅草は隅田川の河口近くに成立した町ということもできる。
東京低地を流れる隅田川の流域はもともとが砂州であり、とくにその西側(浅草側)は自然堤防も含めた微高地となっていて、それが湊の建設を容易にした。最も古い湊は、現在の台東区とその北に位置する荒川区にまたがる石浜のあたりとされるが、港湾機能の中心は今戸(旧・今津)、浅草というふうに下流に向けて移行していったと考えられている。これは江戸湾の海岸線の後退と関係するようで、同時に江戸の市街化・都市化とも関連している。浅草がこの低地帯のなかでいち早くひらけたのも、ひとつには隅田川流域にあったからとされている。
古刹・浅草寺の門前町として知られたこの土地には水上の道の拠点としての側面もある。古くは渡来人の関東上陸の際の玄関口でもあったらしく、彼らはここから上陸し、あるいは、隅田川からさらに荒川へと遡り内陸部に移住したとも聞く。また中世以降は軍事上の、そして商工業の中継基地として栄えた。
地下鉄浅草駅近くの吾妻橋から上流を望む。直接眺めることができるのは今戸の手前の言問橋のあたりまでであって、足元に水上バスの乗り場はあるが、ほかに船着き場らしきものは見えない。徳川幕府が隅田川西岸を埋め立て、幕府直轄の天領地から搬送される米の収蔵庫をつくったのは元和元年(1620年)のことで、その「浅草御蔵」があったのはこの橋の下流「蔵前」のあたりだった。現在、湊はどこにもなく、両岸はコンクリートの堤防がゆるやかな曲線を描いている。
西岸の隅田公園は川に沿って細長く、1キロほど上流の今戸まで続いている。堤防の下にはテラス(遊歩道)があり、こちらは延々と2キロ先の石浜まで伸びて、極端な増水でもなければ川辺を歩くことができる。単に俯瞰するか仰ぎ見るかの違いだけにしても、堤防の上からの眺めと水面近くからのそれとではかなりの違いがあり、リアル・サイズの川岸に立てばかつての景色が彷佛とするようである。水鳥や川の水で生育する植物を眺めてここを歩く気分は格別のもので、数年前までならそれが楽しめた。しかし残念ながら、近年はそこに建ち並んだ小屋のために躊躇せざるをえない環境となってしまった。
小屋の位置は季節によって変わるのだが、その住人たちにしても公園内に堂々と居を構えるよりは水辺の方が気楽なのかもしれなかった。飼い猫がいる。発電機付きの豪邸もある。“夫婦”もいるし、ビニールシートの奥で強烈なヒップ・ホップのリズムが鳴り続ける家までも……。ここはすでにひとつの集落である。だから散歩のための道幅は確保されていても、こちらには人様の庭先を勝手に横切るような後ろめたさがある。そういえば、以前ここで遭遇した下町の紳士からは、空襲で家が焼け、戦後のドサクサに紛れて土地を取ったとか取られたとかの話を聞いたことがあった。してみると、浅草ではいまだに続いているということだろうか、その“ドサクサ”とやらが。
遊歩道を川上へ歩いて言問橋の下をくぐると、まもなく山谷堀水門を通過する。その昔、男たちの無邪気な欲望を載せて吉原通いの猪牙舟が行き交った山谷堀である。堀は埋められてしまった。堤防内側の小さなプレートに気がつかなければ、そこは目立つこともない、ただの沿岸施設である。
廃水を川に流し込む堀の消滅は避けられなかったのかもしれない。だが、こうした近代化には、時として “隠蔽”の二文字を連想させる場合がないわけでもなかった。例えば明治の頃、奥山の旧態依然たる見せ物小屋は浅草公園整備の名目で公園六区への移転を命じられている。新区画の借り受けについては抽選だったが、その対象者は小屋の撤去と再建設の費用を捻出し、さらに新たな地代を払うことのできる者に限られた。そこで置き去りにされたものは一体何だったのだろう。
水門前には公園の広場がある。「竹屋の渡し」の碑のそばでは子供たちが白球を追い、リードを解かれた小犬が飼い主とたわむれる。むき出しの土が嬉しく、そこから西を見上げれば待乳山。この先の今戸は、古くは川辺の土を利用した瓦の製造で栄え、また雑器・土人形の今戸焼産地として知られた。そこに寄り道をしてから、もう1キロ北の石浜までを歩く。
| |
|
(C) 2004 Mitsuru Iwasaki
|
|
画像およびテキストの無断転載等を禁止します
|
|