描かれた「光と闇」

―― ラ・トゥールの〈夜の絵〉には宗教的な題材を描いた作品が多く、それをみていると神妙な気持ちになるのですが、同時に「風俗画」もこなしていたこの画家のプロフィールには不明な部分があります。『聖ヨセフの夢』に代表されるような作品の「宗教画」としてのリアリティ(内実)とはどれほどのものなのか、という疑問が残るのです。

ラ・トゥール本人については、かなり自分勝手な人で“イヤな奴”であったというのをどこかで読んだ記憶があるのですが。

高橋 それはそういう記録が残っているので、かなりの“ジコチュウ男”であったろうという感じはありますね。税金の被免除権を主張して収税吏を蹴り倒したとか、小作人をブン殴ったとか、あるいは、誰かに犬をけしかけたりとか‥‥。だいたいそういう人ではあったようです。

―― そういう人の描いた宗教主題の作品をどのように受け止めればよいのかと‥‥。例えば『聖ヨセフの夢』を見た多くの人たちは、最初はみな「神」といったものを想像すると思います。しかしそれとは裏腹に、この絵は技巧と表現力において突出したプロフェッショナルが宗教画と風俗画とをクールに描き分けたその結果に過ぎない、とみることもできるのではないでしょうか。

高橋 それはそうかもしれないですね。実際にラ・トゥール自身がそのように意識していたかどうかはわかりませんが、本質的にはそういうことかもしれません。

それでも、ラ・トゥールの生きていた時代そのものがすでにそういう時代であったということはありますね。中世のような盲目的な信仰心だけではなくて、もっと個人的な問題として宗教をとらえていた時代であって、この世のすべてのものが神様の創造物であり100パーセント神様がすべて、といった時代ではなかったわけです。たとえばパスカルであるとか、プロテスタントの人たちもそうでしたが、自分の行動そのものを通してしか「神の存在」を知ることができない、というのがこのころの基本的な考え方ですから。

―― 当時のブームとして「聖人崇拝」というのもあったそうですね。聖人をヒーロー化して憧れの対象にするような‥‥。信仰のかたちが変化してきて絵画表現に影響を与えたということは?

高橋 もし哲学者であればそうした時代であることを意識したかもしれませんが、ラ・トゥール自身が宗教主題の作品を描くにあたってそこまで踏まえていたとは考えにくいですね。

―― 『聖トマス』を含めた初期の作品から〈夜の絵〉に至るまでの作風の変化をみると、プロとしての度合いが増すにつれて初期の絵にみられた“ひたむきさ”のようなものが薄れ、次第にさまざなことを計算して描くようになっていくと感じるのですが。

高橋 それはそうですね。どんな絵が売れ筋であるとかは意識していたでしょうし、あのころの一般の記録をみても、作品の評判であるとか、「財産目録、ラ・トゥール〈夜の絵〉」といったものまで残っていますから。彼は当時の流行作家だったわけですよね。本人はどんな絵が売れるのかもはっきりとわかっていたはずです。

―― その意味からしても、『聖ヨセフの夢』に「神の存在」だけをみるのは難しいと感じるのです。実は、この絵に描かれた女の子は“天使”ということですが、それを知らずに見たら、居眠りをする老人のそばに孫娘が近づいて何かしようとしている、ような絵だと思っても不思議はないわけですよね。

高橋 要するに、宗教的主題を描いたラ・トゥールの〈夜の絵〉は「神なき時代」が近づいているときの絵ということになるのだと思います。ですから、この人のことを言うのに「神秘の画家」とするあたりまでができることであって、「信仰の画家」とは書けないのです。

例えば『蚤をとる女』ですが、この絵についても単なる風俗を描いたというのではなくて、この女は雇い主の子を孕んでいてそのことを後悔しているといった解釈や、実は女は「マグダラのマリア」だとするような説まであります。でも、『蚤をとる女』が実際に何を意味し、暗示するために描かれたのかは全くわかっていません。ただし、「蚤をとる」という、つつましく勤勉な行為そのものが美徳に、さらに神の道につながるというような意味合いはあっただろうと思います。

風俗画というのは、オランダでの例をみてもわかるように、もともと宗教的な意味をもつ譬え話やことわざなどがかぶっているものです。しかし、かぶってはいてもそれがメインの主題にはなっていません。ビジュアルとしてこちらに映るのはあくまでも「蚤をとる女の姿」であり、そうした勤勉な姿を描いた絵を眺めて自分の信仰に結び付けるというのが当時のメンタリティだったと思いますね。

 

「神秘」の正体とは?

―― ラ・トゥールと同時代のオランダにレンブラントという画家がいます。二人はともに「宗教画」と「風俗画」を描き、厳格な写実をベースにしていたという点でも共通するものがあります。それぞれの画家はやがて独自の「光」の表現にたどりつくという意味でも似たケースと思えます。

レンブラントの作品には一貫して宗教的な倫理観が反映され、その表現は終始内省的なものであったように映るのですが、一方のラ・トゥールの絵にはそうした印象が希薄に感じられます。売れ線は狙ったし、流行作家にもなった。二人の「行く道」はどのあたりで分かれたのでしょう?

高橋 ラ・トゥールとレンブラントは、ともにイタリアのカラヴァッジョなどの影響も受けていますから、初期の段階の作品をみると似ていますね。しかし、レンブラント自身もずいぶん売れ線を狙っていたわけです。でも途中でうまくいかなくなってしまって、結果としては内向していくことになりました。

ラ・トゥールについていえば、今回の展示作品のなかでの、おそらく最晩年の作と思われる『荒野の洗礼者聖ヨハネ』(ラ・トゥール美術館)をみると、もうそのころには蝋燭などの特定の光源が画面の中に示されません。ただ、どこから発するともわからない画面の外からのぼんやりとした光の中に、聖人のおぼろげな姿が描かれるだけです。

画家のなかで原点回帰が起きていたということだと思いますが、おそらく戦争(三十年戦争)で自分の作品が焼かれてしまったであるとか、いろいろな経験をしただろうと思いますね。彼自身もその最晩年には、ある種の境地に達していたのではないでしょうか。「聖ヨハネ」についていえば、これはもう“枯淡”の境地ですよ。ちょっと宋元画のような雰囲気ですよね。

―― レンブラントとの比較でもうひとつお聞きしたいのですが、レンブラントほどの宗教性をラ・トゥールの作品にみることはできませんね。

高橋 その通りでしょう。

―― では、ラ・トゥールの絵に表現された「神秘」とはいったい何なのでしょう? 例えば、我々はキャンプ・ファイアーの炎を見て単純に感動してしまいます。ラ・トゥールの絵に感じるものが、それと同じことだと言ったらマズいのでしょうか。つまり、この絵のなかにあえて「神の存在」をみる必要はないのではないかということですが。

高橋 むしろ「神」ではない何かですよね。キリスト教の神ではない、もっと別の何かを感じますよね、普通は。

―― 闇の恐怖や奥深さのような‥‥。

高橋 そう、より汎神論的な、もっと超自然的なものというか‥‥。一神教的な主題を扱ってはいるのだけれども、とくに日本人が見るとそうではないものが見えるな、というのがラ・トゥールの面白さだと思います。

―― むこうの人たちにの目には、それが「神」であると映るのでしょうか?

高橋 それは、表面的にはそうでしょうが、実はむしろ違うのかもしれませんね。特に近代人にとっては。例えば(アンドレ・)マルローのようなひとも「夜の闇の深さが…」というような言い方をしているわけで、「神がそこに現れているから…」と言う人はほとんどいないと思います。

だから、例えばキリストの「生誕」を描いた絵などについても、これが本当にキリスト教の絵なのか、単なる風俗を描いたものであるのかは誰も結論を出していないわけです。描かれた内容がどういうものであるのかについては、よくわかっていないのです。たぶん、多義的な宗教主題の作品である、ということでいいのだと思います。今回の展覧会に来ている美しい『聖ヨセフの夢』だって、もともと宗教画であるはずのものなのに、聖人の頭に光の輪はついていませんし、天使にも羽根がついていないわけですから‥‥。

―― ‥‥図像学的にみても(宗教画としては)問題が残ると。それでも、当時の人々は聖人を描いたラ・トゥールの絵を「宗教画」として買っていたわけですね。

高橋 でも、彼のこうした作品は、必ずしも教会などの依頼で礼拝堂に飾るために描かれたものではないという可能性が強いですよ。普通の貴族やブルジョアの人たちが買っていた場合が多いですから、特定の教会関係者だけの礼拝の対象であった可能性は少ないのです。ですから、“より自由で曖昧な絵”が成立し得た時代であったということができるのでしょうね。

 


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「トビトとアンナ」(1626)