さる5月29日、国立西洋美術館で「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール ― 光と闇の世界」が静かに幕を下ろした。3月8日に始り、正味73日間の会期を終えて、最終的な入場者は246,315人(読売新聞調べ)を数えた。ほぼ250,000人に近いこの人数をどう捉えるべきだろうか? 成功? それとも失敗?まるでテレビの視聴率のように展覧会の入場者の絶対数を問題にすることの愚は、今やよほどの非文化的な人間を除いて誰もがわかっていることだが、決してそれ自体を無視するわけにはいかないし、また、そこから様々な事が透けて見えるのも事実である。

 ちょうど同じ時期、ほぼ並行するように竹橋の国立近代美術館では「ゴッホ展」が開かれていた。この入場者がほぼ520,000人、ラ・トゥール展の倍を越える入場者を集めたことになる。全く異なるモティヴェーションと内容で開催されたこの二つの展覧会を比較してもあまり意味がないが、最も違うのは画家の知名度であったことは間違いない。ファン・ゴッホの名を知らぬ日本人はいないだろう。おそらく、ピカソやモネと並んで、「展覧会業界」における最大の「ブランド」となっている作家であり、とにかく開催にまでこぎ着ければ確実に「集客」が見込めるという点で、主催者側からすれば百戦連勝の神様のような存在ともいえる。

 その点から言えばラ・トゥールという作家は、未だスタート・ラインにも立つことも許されない無名の競技者であったのかもしれない。ただしそれはあくまで我が国での話である。国際競技会であったなら、そのあまりの輝かしいキャリア故に招待選手に招くことさえはばかれる、というのが海外の実情であるのだが、そこのところは極東の島国の悲しさか、一般レヴェルでは明らかな情報のタイム・ラグがあったのだ。

 「ラ・トゥール展」を開催することの難しさは、実際のところ、この画家の「真作」が40点余りしか確認されていない、という厳しい現実から発している。ラ・トゥールにしばしば比較される17世紀オランダの画家フェルメールに匹敵する希少さといえようか。フェルメールの場合でも、数点の真作を集めるのが至難の業であることは、この画家の作品が扱われた内外の幾つかの展覧会を見ても実感されることであるが、ラ・トゥールの場合もそれと同様、もしくはそれ以上の困難さが予想された。それでもフェルメールの名そのものは、近年、展覧会や映画などを通して、我が国でもかなり一般にも浸透している。それに対してラ・トゥールには決定的に「知名度」がないため、もしそれなりの重要な作品が一定数集まったとしても、知名度の低さから、実際にどれだけの観覧者が会場に足を運んでくれるのか、という点できわめて不確定要素が多かった。国際的な「評価の高さ」と国内的な「知名度の低さ」に絡んだ、デフレ・スパイラルのような状況が存在したのである。

 こうしたことは、展覧会開催を考える上での決定的なデメリットだった。我が国の多くの大型展の場合、経費負担をするのは決して美術館側ではなく新聞社や放送局などの「メディア」であることは周知の事実だが(今回は特殊ケースとして美術館側もある程度の経費負担を行なった)、当然リスク負担はすべてメディア側となるためそれだけ発言権が生じる。経済原則からいえば至極当然のことであろう。しかしこうした場合に、「美術館やジャーナリズムの大きな役割は、未だに認知されていない新しい価値を人々に知らしめることではないのでしょうか」などという青臭い議論をふきかけても、現実にはなかなか難しいものがある。とりわけ昨今の経済情勢の中では、誰もが目先の帳尻合わせに走らざるを得ないからだ。そして現実には多くの場合、リスクを最小限にできる、すでに認知された「価値」の上塗りという方向に向かってしまうのである。今回その意味では、あえて冒険に踏み切ってくれた読売新聞社には感謝している。別の見方をすれば、ラ・トゥールの作品数の少なさが生み出す、「希少性」、そしてさらにその再発見の経緯がもたらす「神秘性」、といったものをそれなりに評価し、ある種の商業的な「賭け」を行なってくれたのであろう。

 思えば、最初にこのラ・トゥール展を私が発案したのは、2003年もかなり押し迫った暮れのことであった。日本の個人コレクションに秘蔵されていたラ・トゥールの若き日の秀作《聖トマス》を西洋美術館が購入するめどが立ったためである。そして、2005年の春はたまたま美術館のスケジュールが空いていた。「ラ・トゥール展」を開くという「力技(トゥール・ド・フォルス)」を奮うのは、まさにこのタイミング以外にはなかったのだ。だがそれでも最初はおずおずと、購入予定の《聖トマス》を軸に、同じ「十二使徒」のシリーズに属する「真作」を数点集める、「研究展」的な性格の強いささやかな展覧会を構想した。そして非公式にこのアイデアに乗ってくれる新聞社を探し、この段階で読売新聞社が共同主催者になってくれることとなった。しかしその傍ら私自身は、さらに大がかりな形でラ・トゥール芸術の「全貌」を見せる可能性を最大限模索しはじめていたのである。《聖トマス》はいわゆる「昼の絵」の名品のひとつだが、ラ・トゥールの名を美術史上不動のものとした「夜の絵」の数々を欠いては、ラ・トゥールの作品世界の魅力は半減するからだ。その頃もう自分の頭の中では、ラ・トゥールの芸術を扱うために、正面きって正攻法で展覧会を開催するという選択肢しかなくなっていた。

 2004年の春に、ウィーンの美術史美術館で、僅か10数点ながら代表作を集めてイタリア・ルネサンス期の夭折の巨匠ジョルジョーネの展覧会「神話と謎」が開かれることを漏れ聞き、さらに心が動いた。きわめて寡作なこのジョルジョーネの作品にはやはり真作、工房、模作といった問題が常に付きまとっている。なるほどウィーンには傑作《哲学者たち》をはじめ、数点の「ジョルジョーネ」が所蔵されている。しかし、われらが西洋美術館にも、まもなく購入される作品《聖トマス》が入るではないか……。展覧会ができないはずはない……。

 欧米で催される国際的な美術展の多くは、それぞれの美術館がもつ所蔵品を互いに貸し合い、交換することで成立している。ただ、西洋の古美術品のコレクションが殆ど皆無に等しい日本の美術館にそれはできない。それが我が国の西洋美術の展覧会の多くが、そこそこの金銭・その他の対価を払ってでなければ成立せず、それ故に国立・公立の美術館がなかなか独自予算のみでは企画できない理由なのである。しかし、西洋美術館は1959年の開館以来、本来の松方コレクションの近代絵画に加えて多くの「オールド・マスター」の作品を購入してきたため、欧米の美術館との作品の相互貸与が可能な数少ない美術館となっている(実際に今回、ラ・トゥール作品と交換に3点の作品がフランスの美術館に貸与された。さらにもう1点が貸与準備中である)。そしてそのコレクションの「質」は、近年、海外の美術館においてかなりの高い評価を得ている。いわば、これまで日本の人々が地道に築き上げてきた「西洋美術館」のコレクションの力が、今回のプロジェクトを可能にする大きな原動力のひとつとなったのである。

 2003年の暮れ、渡仏した私は何人かの専門家の人々と会い、東京におけるラ・トゥール展開催の可能性を探った。その感触はきわめて良好であった。何はともあれ、ラ・トゥール作品を美術館のコレクションに加えることから出発するという、展覧会開催に寄せる日本側の確固とした意思を、人々が皆汲み取ってくれたのである。かくして、ジャック・テュイリエ(コレージュ・ド・フランス名誉教授)、ジャン=ピエール・キュザン(前ルーヴル美術館絵画部長)など、そうそうたるメンバーがこの企画の応援団として付いてくれた。キュザンは若きラ・トゥール研究家、ディミトリ・サルモンを連れて、展覧会のフランス側コミッショナーとなることを承諾してくれた。

 翌2004年4月、再びヨーロッパに赴いた私は、それこそラ・トゥールの作品を求めて行脚の旅に出た。ナント、アルビ、ナンシー、エピナル、ディジョン、そして生地ヴィック=シュル=セイユ……さらにブリュッセル。どこの美術館の反応も、基本的には極めて良かった。ラ・トゥールの生地ヴィック=シュル=セイユに建つ新設のラ・トゥール美術館には僅か2点の真作しか無いが、ガブリエル・ディス館長は快くそれらを遠い日本に貸すことに同意してくれた。そのうちの1点《荒野の洗礼者聖ヨハネ》は画家晩年の傑作である。ロレーヌの人々のラ・トゥールに寄せる愛情と信頼を感じた瞬間である。東洋の小さな美術館が最大限の努力を払ってラ・トゥールの作品を獲得したことがこんなにも反響を呼ぶのかと、真実、作品1点の重みというものを実感した旅であった。

    閑話休題……
《肩掛け袋を置いたヴィエル弾き》の前で/2004年4月・ルミルモン、フリリー美術館にて
フランス側コミッショナー/ジャン=ピエール・キュザン(中央)と補佐のディミトリ・サルモンと共に(背後の作品は《蚤をとる女》)
   

 そのほぼ1年後の2005年3月7日、総作品数34点、ほぼ20点に近い「真作」を集めて「ラ・トゥール展」のオープニング・セレモニーが開かれた。第1級の「真作」のみで構成された10点ほどの「ラ・トゥール展」という当初の構想は、「工房作」や「模作」を加え、さらに数点の同時代のロレーヌの版画家ジャック・カロの作品を参考出品に加えた、より緩やかなコンセプトに変化していた。しかしそれでも、他のイタリアや北方のカラヴァッジョ派の画家や同時代のフランス画家などを加えることはせず、あくまで「ラ・トゥールの全貌を見せる展覧会」という軸を最後まではずすことなく、開会の日を迎えることができた。ルーヴル美術館からはフランスの国宝級の傑作《ダイヤのエースをもついかさま師》が出品された。私とほぼ同世代のルーヴルの現館長アンリ・ロワレットは、彼がオルセー美術館の若い学芸員であった時からの知己だが、今回も「西洋美術館だから貸すんだよ」と言ってこの作品を最終的に貸す決定をしてくれたのだ。さらに「夜の絵」の傑作の数々、ナントの《聖ヨセフの夢》、ナントの《蚤を取る女》、クリーヴランドの《聖ペテロの悔悟》などが会場に整然とした姿を見せた。ヒューストンの個人が所蔵する《書物のあるマグダラのマリア》の神秘的で現代的な造形や《犬を連れたヴィエル弾き》の荘厳な姿も眼を引いた。ウクライナからはるばる旅をしてきた《金の支払い》も、すべりこみで開会式に間に合った。

 開会式の当日から、専門家・非専門家を問わず多くの人々から賞賛と驚きの言葉を頂戴した。とりわけ、展示作品の数の少なさを感じさせない会場構成と、ゆったりとした作品のレイアウトはきわめて好評だった。そして最初の部屋を飾るアルビの『十二使徒』連作の再構成は、会場入り口の鮮やかなテーマ・パネル・デザインとともに展覧会の冒頭でなかなかに強烈な印象を来場者にもたらしたようだった。また、「真作」の思いがけない数の多さと、工房作や模作も含みながらもあえて「ラ・トゥール作品」にこだわった事には、かなりの高い評価をいただいた気がした。《戦争の惨禍》をはじめとする参考出品のカロの版画がラ・トゥールの生きたロレーヌの環境を浮き彫りにしたことも、好意的に受け止められた。他方、他の一切の同時代の画家の作品が展示されていなかったことは、人によっては軽いとまどいを覚えたかもしれない。しかし今となっては、作品数を増やすための中途半端な展覧会の作り方をしなくて良かったと考えている。

 そしてありがたい事に、最初の日からほぼ2,400人以上の人々が連日訪れてくれた。それはすぐに、まるで機械で数えたような正確さで平均2,800人という数字になった。この人数はほとんど変わることなく、会期終了近くまで続く。さらに、さまざまな興味深いことが目についた。ゴッホ展や去年西洋美術館で催されたマティス展などに比べると数分の一程度の低予算で運営されたため、必ずしも宣伝は行き届かなかったものの、それを補うように、共催の読売新聞以外の新聞社をはじめとする他の多くのメディアがこの展覧会を取り上げてくれたこと、さらに、インターネットの「ブログ」などを通じて、さざなみのようにこの展覧会の話題が広がっていったことである。

 普段は出来る限りパソコンから遠ざかるようにしている私だが、今回はインターネットのコミュニケーションの力というものを肌で感じた。「ラ・トゥール展」で検索すれば、すでに開催初日から2,000件以上ヒットしていたものが、会期末には20,000件にまでなっていた。そして多くの人がこの展覧会とラ・トゥールの芸術について「熱く」語っていた。メディアの性質上、多くは10代や20代の若い人たちだったが、そうした「彼」や「彼女」たちが、初めて触れたであろう17世紀の「ロレーヌ公国」の画家について真摯に綴った文章を読むのは、貴重で、しばしば感動的な体験であった。こうした来館者の中には、一度ならず二度、三度、中には10回近く訪れている人が少なからずいることを知ったのも、これらのブログを通じてなのである。

 展覧会場自体は、この画家の芸術にも似て静けさが支配していた。多くの人々が単独、あるいはカップルで訪れていて、皆押し黙って、じっと絵と対話しようとしていることが容易に見て取れた。音声ガイドを耳に、1点1点を丹念に見て歩く人もまた多かった。階下のマルチ・メディアのコーナーや参考図書の閲覧コーナーも熱心な人々で常に埋まり、空席が見つかることは稀だった。展覧会カタログの売れ行きも素晴らしく、最終的には通常の展覧会では例外的ともいえる販売率(ほとんど来場者7人にひとり)を記録した。部分図を多用した構成と、付属論文・資料の充実にもかかわらずコンパクトにまとめられたデザインと価格が評価されたのかもしれない。会場全体の印象としては、普段の展覧会にも増して男性が多く、意外なほど若い人々も目についた。その一方、通常ならばこうした展覧会の主役となる、年配の女性の集団が比較的目立たなかったことは面白い。

 来館者からの、展示された作品の点数が少ないことについての不満や、真作とともに模作が多く並べられていることへの不満は、予測の範囲ながら当然存在した。しかし本展では、日本の展覧会では頻繁に見られるような作品の同定についてのあいまいな記述はせず、作品情報と真贋の判断は出来る限り開示するようにしたせいか、大方の反応は好意的であった。これは事前に新聞記事などを通して、また会場でも「作品数が極めて少ない画家」という概念が浸透するように心がけたことも幸いしたかもしれない。しかしそれでも残念ながら、「贋作ばかりの展覧会」という、こうした時代の絵画では常識的な「模作」の意味を考えようともせず、ラ・トゥールの展覧会がもつ特殊性・希少性にも考え及ばない、乱暴かつ低レヴェルの中傷がままあったことも事実である。実際にはかなりの数の代表的な「真作」が展示されていたにもかかわらず―。

 他方、西洋美術館講堂では、7回に渡り「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと17世紀フランス」と題した連続講演会を開き、いずれも大変好評を博した。とりわけ、初回のキュザン氏と田中英道氏のふたりのセッションは、ラ・トゥールの研究者としての信念に基づいて両者がそれぞれの主張を繰り広げ、きわめて興味深いものとなった。また、3回の公演を行なったフランスの古楽器アンサンブル「ル・ポエム・アルモニーク」のコンサート「ラ・トゥールの聴いた響きをもとめて」では、17世紀前半の、まさにラ・トゥールの時代の民衆音楽・宮廷音楽を中心に、『ルノー王』、『狼や狐が騒いでいた』、『王宮の階段に』といった美しい曲をレパートリーに並べ、ラ・トゥールの芸術とそれを包んでいた日常が聴覚を通して見事に再現された。ヴィエルを筆頭に数々の珍しい楽器の奏でる音とヴォーカルの美しい響きが、幻想的な演出の中で至福の時を味あわせてくれた。ラ・トゥールの作品をほとんど貸し切りのような形で鑑賞した上で音楽に浸る―、これほど贅沢なミュージアム・コンサートもめったにないだろう。ラ・トゥールの芸術と同様、それらの音楽は素晴らしく現代的なアクチュアリティーを示していた。今回コンサートを聞くことができた計300人の方々の僥倖を思う。

 私は展覧会カタログの冒頭に寄稿した一文「闇からの声−日本における初の“ラ・トゥール展”を巡って」の中で、「なぜ今ラ・トゥールなのか」ということを語っているが、そこではこの画家の造形が現代に直結していることを強調している。それも色々な意味で。5月1日に放映された「新日曜美術館」に写真家の藤原新也氏とともに出演した際にも、ラ・トゥールとその芸術を語りながら、「戦乱のチェチェンやボスニアやイラクで制作した画家をイメージしてください」、といった意味のことを話した。そして今は、そこに「沖縄」や「広島」という言葉も加えるべきだったか、などと考えたりもしている。あるいは「重慶」や「南京」、「ドレスデン」や「ダッハウ」、「ワルシャワ」の名を、そしてあらゆる「悲惨」を被った「ヴエトナム」や「カンボジア」、「コンゴ」や「ルワンダ」などのアジア・アフリカの数え切れない町や村々を―。

 実際にこの画家が生き、制作したのはフランス東部の小さな「ロレーヌ公国」である。悲惨な「30年戦争」(1618〜1648)の災禍を直接被る運命にあったこの国で生を全うするしかなかったラ・トゥール。作品の多くもこの戦乱で失われ、その存在が忘却される直接の原因ともなったことはここで改めて繰り返すまでもない。

 他方この画家の「再発見」は、第一次世界大戦勃発直後の1915年に、「敵国」ドイツの美術史家ヘルマン・フォスによって行われた。そして20世紀に甦ったこの画家がフランスで注目を集めるようになったのは、1934年の大展覧会「17世紀フランスの現実の画家」展以降のことであった。しかしそれはまさに、二つの世界大戦に挟まれた時期、新たに迫り来る全体主義の足音のさなかであったのだ。画家が生きた現実も、再発見された環境も、いわば人間の危機的な状況に直裁に結びついていた。

 そして今、日本の多くの人々がこの展覧会を期に、ラ・トゥールの寡黙だが強い力をもった芸術に触れるようになった。カタログの「緒言」の中でジャック・テュイリエ教授はいみじくも、「ラ・トゥールにおいては、ひとりの老人の質素な肖像に人生のすべてが含まれ得るのだ」と語っている。「人間」に正面から向き合ったこの画家の画面には、時空を越え、文化の違いを超え、人種を超え、世代を超えて21世紀の我々の心を激しく打つ何かがあるのだ。それが今回の250,000人近い熱心な入場者、膨大なインターネットの「書き込み」の意味するものである。展覧会開会式の日、キュザン氏は「日本の人々がラ・トゥールをどのように受け止めるのか、とても興味があります」と挨拶したが、その答えはすでに明らかだろう。そのいくつかは今回、具体的な「コメント」としてこのサイトで見る事ができるのだ。

 手前味噌で恐縮だが、今回のラ・トゥール展はいろいろな意味で、日本の展覧会史に残るものとなることだろう。一般的にはほとんど無名で、それも17世紀という、大方の日本人には縁遠い時代の画家でも、作品の質と、訴え方によってはこれほどの人が関心をもってくれることを示した点で、本展は画期的ではなかっただろうか。そして企画者としてはもちろん、専門家の方たちが掛け値なしにこの展覧会に注目してくれたのも嬉しかったが、同様にいやそれ以上に、なんの先入観もなく展覧会を観てくれたごく一般の鑑賞者の人たちが素直に「感動」を語ってくれたことが、望外の喜びだった。私の美術館人としての乏しい経験でも、「開催してくれて有難う」という声をこれほど多く聞いたことはなかったような気がしている。そして印象深かったのは、かかわってくださった人々がそれぞれの分野でそれこそ最大限に気持ちを注いでくれたことである。この貴重な応援サイトを開設してくれた友人イワサキ・ミツル君やほぼ一年間を展覧会とともに歩んでくれたアシスタントの大谷公美さんをはじめ、本展開催をここまで支え、盛りたて、共感してくれた方々にこの場を借りて心から感謝したい。この展覧会はそれ自身まさしく、皆さんが綴り合わせたひとつの物語なのである。