ここ数年、ヨーロッパ統合という共通命題を意識しながらも、かえって国家ごとの国民性を主張する展覧会が互いに競いあっており、今年はさらに近代国家よりも古い、都市国家や領邦国家といった地域別の伝統にさかのぼる企画展も続いている。バブル経済は日本の美術コレクションに不愉快な余波しか及ぼさなかったが、そのなかでただ一つ、西洋美術館が《聖トマス》を購入できたことは嬉しく、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展開催という信じられないような奇跡につながった。
 長年の職業意識からようやく解放され、ただ自分の感性に訴えることだけに集中して、懐かしい数々の作品に対面することができたのは、本当に幸せだった。一番好きな《ヨブとその妻》に再会できなかったのは残念だったが、それを十二分に補ってくれたのは、初めて見る《聖トマス》(《小ヤコブ》、《ユダ》なども含め)と《洗礼者ヨハネ》の2作品だった。老人と子供、男女さまざまな年齢の人物が、二人またはそれ以上組み合わされている画面も多いが、とりわけ今回は、深い皺を額にきざむ、内面をみつめるような中年から老年にかけての単独の男性の「顔」に、私は惹かれた。槍にさされた脇腹の傷口に、自分の手で触れるまではキリストの復活を信じなかった実証主義者トマス、その槍によって印度で殉教するトマスが、他ならぬその槍を凝視する。沈鬱な表情は髭と影に半ば隠れ、禿げた頭頂部と槍の穂先にのみ光があたる。トマスの深刻な眼差しの迫力に較べると、《ペテロの悔悟》では、トマスよりも年をとったペテロは、もはや三度キリストを否認した自分が信じられないような、途方にくれた表情で遠くから届くかすかな光をみつめる。
 他方、《洗礼者ヨハネ》の若い肉体は、すでに宿命を自覚したかのように憔悴しきっており、今にも闇に溶解しそうに見える。一切の色彩を拒むこのセピア調モノクロームの画面は、画家の深いペシミスムを感じさせる。多数の同主題の作例が知られるカラヴァッジオのどの絵とも似ていない。子羊に草を与え、十字架を握るしぐさは、背後からあたる弱い光線と共に、本来ならば、旧約の影の世界の終焉と輝かしい恩寵の世界の到来を予告する筈であろう。しかし、そんな希望の実現からはほど遠い絶望的な現実を、今の私たちと同様に、画家は静かに見据えているようだ。
 
 
 
 「美は可食的である」とはダリの言葉です。私は美味しいものをいただくように、絵を楽しむことにしています。
 今回は三点の興味深い発見がありました。一つは「模写」です。ヨーロッパを旅しますと、同じ絵が何枚もいろいろな美術館に散らばっていて、狐につままれたような気分にさせられることがあります。はじめのうちは、「どれが本物?」と疑わしく思ったものですが、そのうちに考え方が変わってきました。コピーや印刷技術のなかった当時は、もちろん、模写するしかなく、「模写」と「贋作」は、証らかに制作意図が違うということです。下手すると模写のほうが良かったりするのは、魂の込め方の違いなのでしょうか?
 二つ目は「光」です。カラヴァッジョから始まり、一般的に画家の意図する「光」というのは、どちらかと言うと「照明的な効果」を感じさせることが多いと思います。しかし、ラ・トゥール関しては、光を受けた対象の方に目がいくのです。たとえば、《ダイヤのエースを持ついかさま師》の絵では、宝石やグラスのみならず、帽子の羽根に含んだ光、白眼の白磁のような艶、果ては短く切り込んだ爪の先の透明感までが、輝きを見せています。ベラスケスやスルバランの生地の表現に舌を巻いたことはありましたが、こんなに細かいディテールにまで光を感じたことはありませんでした。
 三つ目は《聖ヒエロニムス》。私の娘は、画家がどう「聖セバスチャン」を描くかにいつも関心がありますが、私は断然「聖ヒエロニムス」です。厳しい生活環境を背景としてどう「知性」を表現するかが、画家達の見せ所なのですが、ラ・トゥールは、眼鏡と、透ける手紙によって、「穏やかな知性、暖かみのある知性」に仕立てたのでした。以上、私にとっては心踊る、久しぶりに堪能させていただいた展覧会でした。
 
 
 
 
 
ラ・トゥール展 テーマ・パネル [ Design:Tomoko Goto ]