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19世紀という時代全般を通して、パリを離れた遠方に思いを馳せ、現実にその地に制作の拠点を移した画家たちがいた。
神戸展会場のこのセクションには、ゴッホ、ゴーガン、セザンヌといったビッグネームのほかにピエ−ル・ボナ−ルや綜合主義のエミ−ル・ベルナ−ル、さらにナビ派のモーリス・ドニといった画家の作品が並んでいる。
美術展を観たあとでしばしば思うことがある。それは会場内の順路に沿って並べられた作品の順番が、カタログに掲載された作品の順とは必ずしも一致していない場合があることだ。これはどの展示会場でも普通に起き得ることらしく、会場の構造・スペースにあわせて展示上のアレンジが行われているからだそうである。
今回のオルセ−美術館展「神戸会場」でも、あらかじめ計画された展示順序のうえに、さらに本展コミッショナーのカロリーヌ・マチュー氏(オルセ−美術館主任学芸員)による修正が加えられていると聞いた。これは企画者の意図を正確に反映させるためのアレンジと考えてよいようだ。
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ポール・ゴーガン
《 黄色いキリストのあねる自画像 》
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ポール・ゴーガンは生活と制作の拠点を求めて、南米ペルー、カリブ海、ブルターニュ地方、そしてついに南太平洋タヒチ島にまで渡った画家である。大胆不敵とも思える面魂で《黄色いキリストのある自画像》のなかからこちらを見据えている。
ポール・セザンヌは生まれ故郷のエクスの東から屏風のように続くサント=ヴィクトワ−ル山を約10年にわたり描き続けた。追求するテーマの必然性から画家の居場所が定められる場合もあるということだろう。
そのセザンヌの作品に続いてフィンセント・ファン・ゴッホによる2点が並ぶ。アルル時代の作品である。
ゴッホの《 ゴッホのアルルの寝室 》は今回のオルセ−美術館展で中心となる作品のひとつ。彼はこの作品を全く同じ構図・色彩で3回描いている。出品作はその3点目にあたる。波瀾に富んだ彼の人生のなかで作品の質が最も安定し、充実していた時期の作品である。
この作品から受ける印象は人それぞれで異なるものかもしれない。さしずめ筆者なら、無人の部屋のなかにある“孤独”のことを思う。ただし、それは単なる“疎外感”とは別物のような気がする。他人が介入できない個人のなかの意志や充実、そして場合によっては喜びさえともなうような種類の孤独とでも言おうか――裏返してみれば“他者による無理解”ということにもなりそうだが‥‥‥。
いずれにしても、さまざまな意味で日本とつながりのある作品であり、また、多くの方が関心をもたれると思うので、本展担当の学芸員である岡泰正氏にもじっくりと伺ってみたい。
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セザンヌからゴッホへと作品が続く
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ゴッホ 《 ゴッホのアルルの寝室
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《 ゴッホのアルルの寝室 》の余韻に浸りながら順路を進むと、正面の突き当たりに赤い色をした壁面が見える。落ち着きと情熱の両方を思わせるような深い赤である。
第4章「芸術家の生活」はその部屋でくりひろげられる。それにしても前章の終わりから続く、回廊を思わせるモダンな展示デザインが導入部分となって、ここから先の会場にドラマティックな予感を抱かせる。
恥ずかしながら、じつはこの位置に立って初めてこの展示会場全体の色彩計画に気がついた。黄色い壁面の第1室からベージュ色の第2展示室、そして赤い部屋という展開は、黄〜赤の大きなグラデーションのなかにあったのだ。次第に高まるテンションのなかで新たな展示内容が期待される。
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この展開 ! 美しい会場デザインと色彩感覚に訴える展示
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赤い壁面の部屋の入口に立って、右にひろがる展示室を見渡すと圧倒的に迫ってくるものがある。しかも、その中央に位置した小品の放つ気配が部屋全体にゆきわたっているのだから驚くべきことである。
エドゥアール・マネの《すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ》。この小さな作品が、マネの親友ルノワールによる2点の人物画――一方は画家バジールを、もうひとつはモネを描いている――に挟まれるようにして配置されている。
優雅さと気品にあふれた女性、ベルト・モリゾはマネの絵画面での弟子であったが、画家に請われてこの絵のモデルをつとめた。そして、この絵が制作された4年後、ベルトはマネの弟と結婚している。
「二人の芸術家が、師と弟子という立場を超えて惹かれあっていたことは、この小さな宝石のような作品からはっきりと感じ取れることだろう」と書いたのは本展コミッショナーの高橋明也氏だが(日本経済新聞
11月10日夕刊)、画中の人物の何か言いたげな眼差しが、ここまで鮮明に描き出された作品というのも珍しいだろう。
この絵の前に立つ入館者の誰もがそれを感じているであろうことは、その後ろ姿の神妙さからも伝わってくる。
まさに「珠玉の名品、オルセーにあり」といったところか。
このベルト・モリゾの肖像が、神戸でのオルセ−美術館展の白眉として意識されているだろうとは、博物館面正面に掲げられた看板やポスター、そしてチラシにいたるまで画像として採用されていることからも推察できた。彼女を包む黒の帽子、胴着、そしてリボンの表現がしっとりと深く、美しい。実物を観て、まさに納得する思いである。

“神戸展 ”チラシ
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「私が信じるのは、目に見えず、ただ私が感じるものだけだ」と語ったのは画家ギュスターヴ・モローだった。写真術が開発され、印象派が光学への関心から先鋭的な表現を模索したこの19世紀に、時代の流れに逆行するかのように自己の内面、あるいは神秘の世界に没入していった画家たちがいた。
「象徴主義」という言葉は日本では馴染みが薄い。モローほどの巨匠であっても文献の類は少なく、その作品が来日する機会も決して多いわけではない。印象派や後期印象派、そしてフォービスムといった表舞台で活躍する前衛の背後に隠れて、決して声高に何かを主張するわけではなかった画家たちの作品が、最終章「幻想の世界へ」を飾る。
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ギュスターヴ・モロー
《 ガラテア 》
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ギュスターヴ・モロー の《 ガラテア 》は今回の展示を締めくくる作品である。凝ったつくりの額縁もさることながら、目を引くのはその宝石のような色彩と画肌の美しさ。そして、そこに描き出された神秘の世界。
この作品は特別に用意された紺色の背景の上に展示されていた。その寒色には数々の名作で昂った場内の興奮をク−ル・ダウンさせる役目があったかもしれない。しかし何よりも七色に輝く《
ガラテア 》の画面を際立たせて、今でも瞼の裏側に浮び上がる鮮やかさである。
展示環境が変われば、美術展会場に漂う雰囲気、そして立ちあらわれるイメージにも差異があるに違いないと確信した。その意味で、今回訪れた神戸会場には、そこでしか観ることのできない「オルセ−美術館展」があったのではないだろうか。
会期も残すところあとわずか。かなわぬこととはいえ、もう一度、あの神戸会場の赤い壁面の前に立つことを夢想してみた。
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