1995年1月17日、淡路島北部を震源として発生した直下型大地震は阪神間を中心にして大きな被害をもたらし、とくに神戸市街は壊滅的な打撃を受けた。

阪神・淡路大震災からの復興と重なるようにして、神戸市立博物館では1996年4月、初のオルセ−美術館展(――モデルニテ:パリ・近代の誕生)が開催されている。

博物館再興と美術展開催のかかわりについてなど、神戸市立博物館の岡泰正氏に聞いた。

 

岡 泰正  OKA yasumasa

神戸市立博物館主幹・学芸員


1954年 舞鶴市生まれ、神戸育ち
関西大学大学院修士課程終了 
専攻/美術史、日欧文化交流史

過去2回のオルセ−美術館展を担当
著書に「めがね絵新考」「司馬江漢」などがある





● 神戸市立博物館とオルセー美術館展



―― 阪神・淡路大震災の起きたのが1995年でした。すでにその時には、この神戸市立博物館で最初の「オルセー美術館展」(――モデルニテ:パリ・近代の誕生)開催が決定していたわけですね。当初の開催予定は何年でしたか。

岡  これはもう最初から1996年開催と決まっていました。開催日もそのままで、一回も変更しないで予定通りに開催しました。

―― 大地震は開催の1年前ですね。この神戸市立博物館は“激震地区”の中央区に立地しています。施設は相当な被害を受けたでしょうし、美術展の計画もチャラになってしまったのでは?

岡  地震は開催前年の1月に起きたわけですが、もっとギリギリに起きていたら開催計画は確実に飛んでいたでしょう。

―― “飛ばさない”自信はあったのでしょうか。なんとしても実現するという。

●阪神・淡路大震災当時の神戸市立博物館 

博物館西南から北東に向かって、震災3日目に撮影された写真。左側の瓦礫は全壊した旧居留地15番館。
【写真提供 神戸市立博物館】

岡  ないです。何もないです。ただ、(主催の)日本経済新聞社の社長さんが言われたのは「もし神戸から、開催できないという返事があったらどうしようかと考えていた」ということでした。

――「できません」という申し出があるかもしれない。そのときは京都でできないか、あるいは大阪でできないか。とにかく関西での開催地を探さなくてはならない、というお話でしたね。

オルセーの企画は、日本経済新聞社さんとの関係で「ルーヴル美術館200年展」(1993年)のあとでお話があって、準備を始めたわけです。

もともとは、アーバンリゾートフェアで「ルーヴル美術館200年展」をやりまして59万人のお客さんが来られました。会期が44日と短かったので館内はもとより館外にもたくさんのお客様が溢れて大変な状態になりましたけれど。それで“神戸市博はお客様が入る美術館”というひとつのイメージ・ステイタスができて、都市型の美術館として外からも内からも見られ始められたわけですね。

我々としてはもともと「南蛮美術」と「古地図」と歴史の展示を主にしているわけですから「そういう会場としてだけで見られるのは、ちょっとなぁ‥‥‥」という気持ちがあるにはあるんです。でもオルセ−美術館展はやろうと、神戸市民のために成功させようと。

とくにあの頃「復興」という気持ちがありましから。それがなかったら普通に無事に展覧会をこなすということかもしれないですけど、地震があったものですから。その翌年にオルセー美術館展の開催予定があるならそれは“飛ばせない”と。

―― あえて宣言してやるような感じでしょうか。

岡  逆に団結ができたんですね。「頑張ってやろう、皆でやろう、復興を見てもらおう」ということでした。



●大震災から復興へ



―― 震災当日ですが、地震は早朝(午前5:46)の出来事でした。その日の岡さんはどうされましたか。

岡  僕はそのとき出張で東京にいたんです。僕自身は震災にあっていないんです。

自宅には小さい子供と嫁とが寝ていました。家中の本が倒壊し、コレクションしていた伊万里の大皿なんかも棚から全部落ちたんです。嫁はとっさに子供に覆いかぶさって、その上から布団をかぶったと聞いています。全部こわれ、家には集めていたガラス器なんかもあって、子供がその破片で手を切ったりしました。自宅は土台がずれて全壊判定を受けました。

●博物館4階 収蔵庫  【写真提供 神戸市立博物館】

結局、博物館には震災の翌日に飛行機と自転車で辿り着きました。職員もすでに近くの人たちが来ていまして「岡さん、収蔵庫なんか棚が動きマップケ−スが倒れているし、資料はみんなひっくり返っているし、ショックを受けるから見ない方がいいよ」って言われましたね。展示室も実際に陳列ケースは倒れているし、展示中の一部の南蛮美術も被害を受けていました。

―― 国宝は大丈夫でしたか。

岡  国宝も、銅鐸が少しダメージを受けました。常設のランプはほとんどが壊れていましたね。そのときはもう「オルセー美術館展」のこととか全然考えられなくて。ああ、これは悪夢かと思いました。

それで博物館を見届けてから自転車で山を越えて自宅に向かいました。家族は、ガスもれ等の危険があって実家に避難していました。

―― それで博物館の復旧にとりかかったわけですね。

岡   いえ、当面のあいだ博物館のことは何もできませんでした。

我々は神戸市の職員なので指示に従って職員として働いていたんです。僕は自転車で朝2時間くらいかけて博物館にやってきて、そこから派遣されて避難所で被災者をお世話する仕事をしていました。

学校の避難所で物資がくるのを受け取って、それが盗難にあわないように夜勤で見張りをしたりもしていました。暖房もないところで毛布にくるまって待機しながら夜中に巡回をしていました。それとか炊き出しも手伝いましたね。

―― 博物館のほうは?

岡   別の職員がやっていました。まず被害の現状確認をして、そのあとの片付けとか。それとボランティアの人や色々な人がきましたね。本当に助けてくださる方もいるし、単に東京から参考のために“見物させてください”というような人まで。

―― 博物館の地階では水も出たわけですよね。これは専門家でないと‥‥‥。

岡   地下水がすごくたまって、それで漏電の恐れがあるから地下に入るな、触るなと言われました。最終的に半年くらい経って、これから復旧のことをしなくてはならないということになって、ある程度地下から救える物は救おうということで一階の大理石の上に一部の資料を並べたりしました。

そうした地震後の復旧作業の延長のなかでやっと“オルセー” が見えてきたんですね。

関係者の集まる席で日本経済新聞社の社長さんが「じつは別の開催地も探したんですよ」という話をされたことがあります。そのとき、そばで訳を聞いていたカロリーヌ・マチューさん(オルセ−美術館展コミッショナー)が僕の手を取って「彼の言っていることは本当じゃないのよ(It's not true. )」って、「神戸以外の所でするなんて思っていなかったのよ」って言うんです。

マチューさんも“オルセー”は絶対に神戸市博でやるという――迷いなく本当にその気持ちだったんだそうです。それが絆を深めたのでしょう。我々としては本当に寛大な配慮をして頂いたという思いです。

―― 作品を貸し出す側にそういう気持ちがあったわけですね。

岡   普通だったら「危ない、あんなところで」となるのに「地震は神様がしたことだから」って言われたんです。保険とかそういうことも普通にして展覧会をしましょう、ということでしたね。

もちろん神戸市としてもオルセー美術館展開催について議会で承認してもらった。この承認したということもすごいことです。「費用を復興に回しましょう」ではなくて「展覧会をしましょう」ですからね。復興した神戸を見てもらおうということで1996年のオルセー美術館展は“復興記念展”として象徴的なものになりました。

―― 開催は対外的な復興のアピールだけではなく、市民に対する励ましにもなりますね。

岡   そうです。たくさんの神戸市民の方が見にこられるわけですから傷ついた心を癒すというのが本当に大事なことです。元に戻ったということが大切ですね。皆、普通の生活に戻りたいと思っていたわけです。地震の前の状態に戻りたいと。地震のことを一瞬でも忘れたいと。

我々は突然非日常の生活に放り込まれたわけですから本当に戦場みたいなものでした。電気はこないし、ガスは出ないし、トイレの水は川に汲みに行くわけだから。それで下水管は壊れて汚水は垂れ流しのところもあり、誰も処理できない状態ですよね。皆が同じ環境だから許せるけど、自分一人そうなってしまったらおかしくなってしまうでしょう。食べる物はないし、救援物資としてもらうものになる。人間、何でももらうようになったら、かえって心が荒んでしまいますよ。

――そうすると実質、半年ちょっとの準備期間でオルセー美術館展を迎えることになったわけですか。

岡   そうですね。やがて電車も繋がって、オルセー展のための会議の目的で東京に行くこともできるようになりました。

―― そうした非常事態のなかで、美術展が担うことのできる役割とはどういうものでしょう。

岡   ひとつには、たくさんの人が神戸に展覧会を見にこられる。「オルセー美術館展」を見るということは、神戸はこんなふうに復興したんだということを知って頂くきっかけになりましたよね。

神戸ルミナリエもそうですが「大変だね、かわいそうだね」じゃなくて見に来て頂いたということで、県外の方が「神戸はこんなに綺麗になりました」というのを確認して頂くことになりました。神戸はすごいと。それと神戸市民の皆さんが贅沢なものを見るということ。なくなったものが復活して神戸市博も今まで以上の展覧会ができるようになったのは感動されたと思うし。印象派の名品が神戸で見られる、という喜びを提供できました。

僕は、わりと醒めている方なんですよ、何についてもね。でも僕自身、展覧会がオープンしたときはジーンときました。それとカロリーヌ・マチューさんの優しさというか、オルセーの主任学芸員たちの気持ちというのがすごく暖かかったですね。

●第1回オルセー美術館展カタログ
(1996年)

―― 美術展開催の喜びには、それが「オルセー美術館」だからということもありましたか。

岡  オルセー美術館展というのが初めてだったでしょう。やっぱりこれができるんだっていうことは、ルーヴル美術館展に続いてオルセー美術館展をやったんだっていうことは、世界的に名高い一番人気のある美術館展が続くわけですよね。‥‥‥だから、やはりオルセーには日経、神戸市を含め協力各社のメセナ協力に対する理解の姿勢があったのでしょうね。


展覧会の企画自体も、コミッショナーの高橋明也さんはかならずしも日本人にとって口当たりのいいものばかりで構成するのではなくて、例えばエロチックなものや騒乱なども取り入れていかれましたからね。
そうした“陰”の部分も入れることで、より厚みのある“スパイシー”な展覧会になりました。オルセー美術館らしい、充実した企画だったと思います。

 

 
 
 
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