オルセー美術館展は、この10年間に計3回が開催されています。 1996年「モデルニテ―パリ近代の誕生」、1999年「19世紀の夢と現実」、そして現在開催中の2007年「19世紀 芸術家たちの楽園」。

美術ファンの思い出に残る作品と19世紀近代美術について、同展コミッショナーの高橋明也氏にお話をうかがいました。(連載全31回予定)

 

第1回 (2007.03.09)

オルセー美術館展開催の動機 

 

 第1回オルセー美術館展(1996)
「モデルニテ―パリ・近代の誕生」
カタログ

―― 今回も含めた3回のオルセー美術館展で来日した名作を語っていただくという趣旨のインタヴューですが、その前に、この美術展開催の切っ掛けについて少しだけうかがいます。

一連のオルセー美術館展は、企画者である高橋さんご自身によって「オルセー美術館展三部作」という位置付けをされました。第1回のオルセー美術館展の開催が1996年ですから10年も前にスタートしたシリーズになるわけですね。開催の動機とは、そもそもどんなものだったのでしょうか。

高橋 主催者や関連組織とか、いろいろな絡みがあるんですけどね。それはもう東京都の文化事業への取り組みの体勢や予算とか……。そういうものがひとつのタイミングで足並みが揃って、それで開催に漕ぎ着けたということです。かならずしも、最初に「オルセー美術館展」という大コンセプトがあり、それがストレートに実現したというものではなかったと記憶しています。

美術展というのは、そういうふうにいくつかの流れがひとつになって実現する場合が多いものなんです。最初に小さな切っ掛けがあって、それが波紋のように拡がりながら次々と周囲を巻き込んでいくような感じですね。

―― オルセー美術館そのものは1986年にオープンしていますね。その10年後に日本で最初のオルセー美術館展が開催されたわけですから、何かの区切りを意識したものかと思っていましたが。

 高橋明也氏
(三菱一号館美術館開設準備室にて)

高橋 オルセー美術館の10周年というのは直接的には関係がなかったような気がします。

ただし、当時のオルセー美術館には、オーストラリアと日本だったかなあ……積極的に海外展をやっていこうという意欲がありましたね。それに、ルーヴル美術館と比べてまだその名前が日本に浸透していないという事情もありました。それでこの企画にのってくれたようなところがあると思います。

―― フランスとしては、国立のオルセー美術館を新設して近代美術のコレクションを整理した。その過程で自国の近代美術史の再編纂にも取り組んできた。いよいよその成果を世界に問う、ということだったのでしょうか。

高橋 開館10年で、いろいろな意味でもうワンステップあがりたいというということだったでしょうね。この連続展覧会で飛躍的に日本での知名度はあがりましたから、少なくとも広報的な意味合いでの目的は達成されたわけですよね。

美術史的意味合いでも、最初は「印象派の殿堂!」みたいな言い方を特にマスコミはしきりに使おうとしました。部分的にはこの表現は間違いではないのですが、それは決してオルセーの総体ではないことが、10年の間に一般にも浸透したような気がします。その意味でもこの展覧会の地道な努力が効を奏したのかな、という気がしています。

 

第2回 / 2007.03.10

ポール・ゴーガン《タヒチの女たち(浜辺にて)》 (1)

 

ポール・ゴーガン
《タヒチの女たち(浜辺にて)》

(1891年制作)
第1回オルセー美術館展(1996年)
 

―― では、さっそくこれまでに出品された名作を振り返って頂きたいと思います。

記念すべき第1回のオルセー美術館展「モデルニテ」(1996年)には絵画・工芸・彫刻等の181点が出品されました。

名品も多数並びましたが、今回、最初に取り上げたい作品といえば、やはりポール・ゴーガンの《タヒチの女たち(浜辺にて)》ということになるでしょうか。美術ファンでこの作品の存在を知らない人はまずいない、というほどの傑作ですね。

高橋 そうですね。ゴーガンは二度タヒチに渡っていますが、第一次滞在時代の代表作です。

―― ゴーガンは1903年にタヒチのヒヴァオワ島で最期を迎えました。一連のタヒチ時代の作品には、現地で生活をしながら制作した者にしか表現できないものがあると思います。単なる観光客の目線で描いた作品ではない、といった意味合いですが。

ゴーガンの作品をどのように受け止めるかについては「当時の芸術家たちはどんな生き方をしたのか」という問題と深くかかわっていると思います。そこからは「そもそも近代美術って何なの?」という素朴な疑問も浮んでくるのですが……。

高橋 歴史学、文学、音楽、皆微妙に違うのでなかなか決定的な定義が難しいのですが、「近代美術=モダン・アート」というのは時代的な区分では18世紀末あたりから19世紀全体・さらに20世紀の「クラシックな」現代美術まで含めてもいいかもしれません。

では「近代」っていうのは何なのかということになると、芸術家たちの視点からいえば、それまで彼らの生活を支えてきた社会のなかで、共通認識になっていた宗教や身分制のような“みんなのお約束”がなくなってしまった時代――彼らを囲っていた環境そのものがなくなってしまった時代ということになるでしょう。

―― 王侯貴族のようなパトロンが消えた市民社会では、経済的な意味で芸術家たちを縛るものがなくなったと。

高橋 経済的な意味と表現のレヴェルの両方で拘束するものがなくなったわけですね。そのかわりに作家たちは「自由」を手に入れたわけですが……。

―― いわゆる“ボヘミアン”とか“自称芸術家”のイメージがそこから定着し始めるわけですね。

高橋 そうです。それまで芸術家を支えていた層がなくなってしまったので仕方のないことですが、やはりフランス革命の影響は大きいですね。

そういう社会の変革に対して、新興のブルジョアたちはその代わりをつとめようとしました。でも彼らは基本的に経済的なことにしか関心がなくて、言ってみれば“芸術に興味をもたない人たち”でしたから、芸術家たちもそれを頼りにすることができなくなってしまったということです。一番“しんどい”時代になってしまったわけですね。

 

第3回 / 2007.03.11

ポール・ゴーガン《タヒチの女たち(浜辺にて)》 (2)

 

――  あのゴッホにしても、生きているあいだには、たったの一枚しか絵が売れませんでした。そういう画家でも堂々と胸を張っていられる時代になったということでしょうか。

高橋 近代以前なら、教会のために制作したり、貴族たちから絵を注文されない者については誰も「画家」とは認めませんでした。ゴッホのような例はあり得なかったことですね。

―― 「自称画家もアリ!」という現象の起きたのが19世紀近代美術の特色のひとつですか。

それにしてもゴーガンの作品をみていると、ひとりの画家の眼を通して捉えられた別世界が目の前に立ち現れてくる気がします。「自称画家」のレヴェルをはるかに超えたものであることは歴然としていますね。

ゴーガン自身の画家への転身は35歳と遅いものでしたが、何がこの画家をここまで押し上げたのでしょう。はるか彼方のタヒチまで行かなければならなかった行動の根底にあったものは、個人の資質の次元にとどまるものではないような気がするのですが。

高橋 画家としての、社会的な意味での乖離の自覚とでもいうのか……世間的な美術上の価値観と、自分達のやっていることの隔たりですよね――クロワゾニスムにしても、綜合主義にしても、自分たちのやってきたことは美術の地平を切り開くものだという自負があった。しかし自分達だけがどんどん先に進んでしまって、世間との距離は広がるばかりだという認識もあったと思います。それを解消したいという欲求でしょうね。

社会はすでに自分達についてこられなくなっている。その差が広がり続けるのを何とかして埋めたい、という無意識の欲望がタヒチ行きを駆り立てていたでしょう。

―― “俺がタヒチで制作して、そこのところを皆にわからせてやる!”くらいの決意でしょうか。

エドゥアール・マネ
《バルコニー》

(1868―69年制作)
第1回オルセー美術館展(1996年)
 

高橋 そうですね。例えばマネなどの場合には、まだ世間の評価を信じているような部分があって、「俺はこんなに進んだ地点まで来てしまったけれど、でも世間の皆は認めてくれるんじゃないか……」みたいな意識でサロンへの出品を続けたりしていますね。

―― マネの場合、一応は世間に認められていましたから、折衷的というか、一般社会との妥協点を探していたようですね。彼の場合は「元祖・印象派」のようなステイタスもあって、一部の芸術家たちの尊敬の対象であったし、時代の変化に対して最初にアクションを起した人物の余裕のようなものが感じられますね。

高橋 その点、ゴーガンあたりになると、まさか自分が社会的に成功するという感じはもてなかったでしょうね。自分の作品はこの時代のなかで“進み過ぎている”と思っていたでしょうから、せめては、“とんがった層の人たち”のなかで成功したいという願望があったのではないかと思いますね。

―― そのとんがった芸術家たちにしても、経済的に成功する可能性は低かったわけですから、自分の人生を重ね合せるのなら表現活動しかなかったわけですね。彼らにとって、「芸術=ビジネス」という図式は成り立たなくなったと。

高橋 ゴーガンにしてもゴッホにしても、ごく一部には理解者がいたわけで、そういう人たちをあてにしていましたけど、それでも現実に画家として成功するのは難しかったわけですよね。

しかし、そういう彼らも死んでしまったとたんに一気にブレイクしますから……不思議なほどね。

 

第4回 / 2007.03.12

ファン・ゴッホ《アルルの女(ジヌー夫人)》 (1)

 

ファン・ゴッホ
《アルルの女(ジヌー夫人)》

(1888年制作)
第1回オルセー美術館展(1996年)
 

―― この第1回目のオルセー美術館展にはファン・ゴッホの《アルルの女》が来日していますね。この作品についてはどうでしょう。

高橋 ゴッホがわずか1時間で描いたという作品ですよね……。ゴッホは同じ作品をヴァージョン化して何枚も描くようなことをしていますが、この《アルルの女》もそうした作品のひとつです。

ゴッホといえば黄色というイメージがありますが、これは典型的に黄色が支配している作品ですよね。でも、こうした黄色が主調色の絵って意外にヨーロッパでは少なくて、やっぱり伝統的に黄色=「狂気の色」という感覚が西洋の色彩象徴の伝統では強かったせいもあるのでしょうね。

現在開催中のオルセー美術館展には《ゴッホのアルルの寝室》がきていますが、あれは三作目の最終ヴァージョンでした。それに対してこの《アルルの女》は第一のヴァージョンです。

ゴッホの制作の仕方をみると、いつも最初の作品では、ザクザクっていう感じで半分スケッチのような描き方をしています。それが二枚目、三枚目になると次第にきっちりと描くようになっていくんですね。ですからこの作品のテクスチャーの粗さは、早描き作品に典型的に見られるものですよね。

―― くり返し描くことで作品が深まっていくタイプの画家ということでしょうか。個性的というのか、ほとんど我流に近いようなスタイルの作品でも名作として成り立つという――この価値観の転換も「近代絵画」の特徴のひとつなのでしょうか。

生前は報われなかったゴッホでしたが、現在の人気は凄まじいものです。実は、この「ゴッホ熱」は今に始まったことではなく、死後に急上昇してからずっと続いているものですね。

高橋 ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、この三人は20世紀に入ると、とたんにブレイクしだしますからね。とくにセザンヌ、ゴッホのブレイクの仕方は強烈でした。死んでからの10年間くらいで急激に評価が高まっていって凄いことになります。


第5回 / 2007.03.13

ファン・ゴッホ《アルルの女(ジヌー夫人)》 (2)


―― 具体的には、ゴッホの死の年の1890年、オーリエという批評家がゴッホを認める文章を発表しました。彼の作品に好意的な批評家がついに現れたわけですね。

1901年にはパリでゴッホ回顧展が開催されて大反響を呼びます。1911年には「エミール・ベルナール宛ての書簡集」が、次いで1914〜1915年にかけて「弟・テオ宛ての書簡集」が刊行されました。ゴッホ・ブームが到来したわけですね。

ファン・ゴッホ
《ゴッホのアルルの寝室》

(1889年制作)
※旧松方コレクション
第3回オルセー美術館展(2007年/開催中)
 

高橋 このゴッホ人気の沸騰はフランス国内だけではなくて、日本でもほとんど同時期の明治時代に起きていますね。

―― 何が原因なのでしよう。「ゴッホの作品には国境を越えて伝播する力があった」とかでは抽象的過ぎますし……。

高橋 いや、これはそのまま情報伝達のスピードということでしょう。あのころはそれがどんどん加速しています。

例えば、森鴎外なども文芸雑誌『スバル』に「椋鳥通信」というコラムを連載して、あちらで出た新聞・雑誌の記事や批評をすぐ取り入れて紹介していますからね。

―― 日本では明治時代から、いわゆるインテリ層が海外の文化にいち早く興味を示していたと。

ゴッホについては、雑誌「白樺」が1911年(明治44年)に『ゴッホの書簡』を訳載しています。翌年には「白樺」の付録としてゴッホ特集も組まれた。そういう情報の量とスピードが日本でのゴッホ熱に火をつけたということですか。

高橋 ゴッホの作品については、すでに第二次世界大戦前に日本の実業家が、複数存在する「向日葵」を描いた作品のひとつを購入したりしていますよね……残念ながら、これは大戦中に戦火で焼けてしまいましたが。日本の「近代美術熱」っていうのは、けっこう筋金入りなんですよ

 

第6回 / 2007.03.14

ファンタン=ラトゥール《デュブール家の人々》 (1)

 

アンリ・ファンタン=ラトゥール
《デュブール家の人々》

(1878年制作)
第1回オルセー美術館展(1996年)
 

―― 全3回のオルセー美術館展のすごいところ、これは19世紀美術の全体像を伝えようという壮大なテーマ性にあると思います。必ずしもゴッホ、ゴーガンといったスター的な存在だけを取り上げる展覧会ではなく、フランス近代美術史のなかで埋もれかかっていた重要な画家たちにもスポットを当てながら紹介していますね。

例えばアンリ・ファンタン=ラトゥールという画家です。3回のオルセー美術館展にはそれぞれ代表的な作品が来日しています。もしオルセー展がなかったら、日本の美術ファンの多くは、この素晴らしい画家の名前さえ知らずにいたのではないかと思うのですが。

高橋 そうかもしれませんね。目玉になる作品以外にもたくさんの素晴らしい作品がきているということはあります。その意味では、“玄人”の人たちが見ても絶対に面白いと感じるようにつくってある美術展なんですね。第1回目の企画から意識してやっている部分です。

―― それが、人によってはこの美術展を“厚みのある展覧会”と呼んだりする理由なのでしょうね。

高橋 19世紀美術全般を考えるのなら、とくに意識して“厚く”つくる必要がある部分ですよね。一般の方たちは気がつきにくいかもしれませんが「美味しいところ」だけを並べた美術展と区別されるところではないでしょうか。

―― 第1回展の《デュブール家の人々》についてですが、この家族の姿に見られるようなつつましさや清潔感には19世紀特有の生新な息吹のようなものを感じます。

それを支えているのが画家の透徹したリアリズムだと思いますが、こうした集団肖像画については同じようなスタイルで描かれた17 世紀オランダのレンブラントやフランス・ハルスの作品を思い出します。しかし、それとの違いも実感できます。似ているようでいて、実は違うんですよね。

高橋 ファンタン=ラトゥールの作品の場合は、新しいものと古いものがコンバインされている魅力でしょうね。

絵画の内容的なことでいうと、まず最初に17世紀オランダ系の集団肖像画に見られるような、かちっとした家族のモラルとか労働とか社会規範を重視する近代的なピューリタニスム的道徳観の表現がありますよね。他方、新しいものというのは、19世紀ならではの瞬時の定着、瞬間的な時間性の記録みたいなものですけど、それがひとつの画面に描き込まれているということになるでしょうね。

旧来のカトリック的な世界の「すべて本質的なものは神中心の宗教的な儀式や社会的な調和のなかにある」という考えから離れて、個人や個々の社会集団の労働とか道徳とか自由を優先してきたのが17世紀のまん中以降のことでした。それがヨーロッパの「近代」を引っ張るモラルになっていたわけですけど、革命以後のフランスでは急激な社会変化の中で、その感覚がより近代的なものとして捉えられ、絵画に投影されていったということですね。

 

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