第13回 / 2007.03.23

アンリ・ルソーの絵画

 

アンリ・ルソー
《M夫人の肖像》
 第1回オルセー美術館展(1996)
 

―― 第1回と第2回のオルセー美術館展には、それぞれアンリ・ルソーの作品《M婦人の肖像》と《戦争(駈けぬける不和の女神)》が出展されています。

近代から現代にかけての美術史のなかで、こうした作風の画家が評価されたのは一種の逆転現象が起きているわけですね。一見、素人が描いたかのように思える作品でも、今までにない新しさが感じられるものは認められるという。

高橋 そうですね。その点でアンリ・ルソーはすごいですね。こういう画家が登場してきたということ自体が革命的な出来事でした。

それまでの絵画史を振り返ってみても職業的な画家という意味では、ほとんどあり得なかったタイプです。いわゆる昔の画家の役目だった“対象を忠実に再現する”という機能が多少なりとも残っていた近代美術のなかで、ルソーだけがそこから完全に自由になってしまったわけですから。

それでも画家として仕事ができるんだという驚くべき現象ですね。その意味で、ルソーという画家は一番「モダンな人」だと思います。

―― この《戦争》という作品は1894年に制作されています。やがて20世紀を迎えるという頃の作品ですが、かつての画家の専門領域であった部分以外にも注目して、新たな価値を見いだそうとする時代がやってきたのでしょうか。「素朴派」という呼び方も誉めているのか貶しているのかよくわからないのですが。

アンリ・ルソー
《戦争(賭けぬける不和の女神)》(部分)
(1894年制作)
第2回オルセー美術館展(1996)
 

高橋 一般に過去の美術で語られてきた、絵が上手いとか下手であるとかの価値観は、主に「対象に似ているかいないかの再現性」を取り上げて言われてきたことですからね。ルソーの作品にはそれを超越した魅力があります。

それとある意味では、ルソーは決して下手ではありませんしね。色の組み合わせとか、ものすごく上手いです。ただし、おそらく「再現性」というレヴェルではゼロに近いので……。

―― その意味で誤解されやすいと。他の誰にも真似のできない表現力をもつこの画家の出現が、ちょうど美術史上の「近代」と「現代」の境界あたりでしょうか。そのどちらに属するとも言い切れない感じがします。

高橋 ちょうど境目にいる人ですよね。そういう意味では、ルソーの存在は革命的な感じがしますね。ピカソとか以上にそう感じます。

―― しかも本人は自分自身の革新的な部分を全く意識していませんね。狙ってもいないようですし。

高橋 だから時代によって古びることのない画家なのでしょうね。古いという印象をまったく与えませんから、19世紀美術に入れてもいいし、現代美術でもいいし、原始美術に繰り込んでも、どこでも通用する作家だという気がします。そういうクロノロジー(年代学)を超越したところがあっていいですね。

 

第14回 / 2007.03.25

エドガー・ドガの絵画 (1)

 

エドガー・ドガ
《オペラ座のオーケストラ》
 第1回オルセー美術館展(1996)
 

―― エドガー・ドガの《オペラ座のオーケストラ》。この絵はオルセー美術館展の第1回展に出品されたものですが、ドガならではの面白さが随所に見られるのではないでしょうか。

高橋 この作品は、ドガが友人のバスーン奏者、デジレ・ディオを中心にしてオーケストラを描いた一種の肖像画ですね。

―― 同時にバレエを描いた作品でもあるようですが。

高橋 そういう面もありますね。バレエを描くにしても、描き方がとても面白いです。踊り子の首から下だけを画面に入れたところとか、普通では考えられないような斬新な構図の作り方をしていますね。

―― 見た瞬間、何かハッとさせられるような絵だと思うのですが、こうした大胆な構図が理由なのでしょうか。

高橋 そう。構図の効果がかなりあると思います。主に描かれているのは、手前の演奏家たちが真剣に演奏をしている様子ですが、それとは対照的に奥の踊り子たちが踊バレエは華やかなものです。ほとんどこの前景の人たちのイマジネーションの世界でも描いたかのように、ちらっと見えているだけの踊り子の姿が印象的で、何かファンタジーのような感じもします。

―― 奥が明るくて、主人公が手前の暗い空間の中にいるという対比もインパクトがありますね。

高橋 画面の中のコントラストも、構図についても、ラジカルというのか、肖像画としてそれまでにこういうものはなかったでしょう。

―― そういう意味で言うと、第2回オルセー美術館展に出品された、同じくドガの《カフェの中で(アプサント酒)》という作品についても同じようなことが言えるのではないでしょうか。

 

第15回 / 2007.03.27

エドガー・ドガの絵画 (2)

 

エドガー・ドガ
《カフェの中で(アプサント酒)》
1875―76年頃
 第2回オルセー美術館展(1999)
 

高橋 《カフェの中で(アプサント酒)》という作品ですが、これもたいへんラジカルな構図を採用しています。

―― 実はこの絵は、日常のスケッチなどをもとにして描いた作品ではなくて、あえてモデルにこういうポーズをさせて制作された作品だそうですね。モデルはドガと親しい女優のエレン・アンドレと版画家のマルスラン・デブータンということですが、完全に演出された光景ということでしょうか。

高橋 だから非常に考えたうえで、わざとこういう構図を考えてつくっているのでしょうね。

まず普通だったら、こういう飲んだくれと娼婦のような人物を絵にするということはなかったわけです。《オペラ座のオーケストラ》の演奏家と踊り子にしても、この作品の二人の人物像にしても、それまで絵画ではテーマになり得なかったようなものをあえて選んでいます。

それに加えて、画面上での構図の工夫――《カフェの中で》では二人の人物を画面の中心から外して極端に右に寄せていますね。この斬新さというのは、要するに「視線」のラジカルさなんですね。モダンなもの、っていうのは何なのかというと、実は今までになかった「視線」のことなんですよ。

―― 対象を眺めるアングル、画面に取り込む位置のことでしょうか。ドガの絵画の新しさというのは、それまで主題になり得なかったものが主題になり始め、他の画家が眺めないような角度から対象を見るようになったということですか。

高橋 そういう意味でいうと、同じ19世紀の同世代画家といっても、マネやモネ、ルノワールなどは旧来のモティーフの扱い方からは完全には脱却していませんでした。

―― 印象派の画家たちの間では、まだ絵画を制作するうえでの暗黙のお約束のようなものが残っていたと。

高橋 一応は「絵になる風景」のようなものを意識して取り上げてみたり、モデルを使えばどこか古典的なポーズをとらせてみたりとかいうことがありました。そういった画題の選択や、モティーフの並べ方といった次元で、 印象派世代の画家には、昔からの伝統の踏襲が時折見られますよね。ルノワールの裸婦像などは典型的ですけれど……。

 

第16回/ 2007.03.29

トゥールーズ=ロートレックの絵画 ―― ラジカルな視線 (1)

 

トゥールーズ=ロートレック
《ひとり》

(1896年制作)
第1回オルセー美術館展(1996年)
 

―― 「視線のラジカルさ」という意味では、ロートレックにもドガと共通するものを感じます。主題の扱い方や作風をみても、彼が画家としてのドガを尊敬していたというのが頷けますね。

高橋 そうですね。二人はそれこそシュザンヌ・ヴァラドンのような共通のモデルを使ったりもしていますしね。扱うテーマもサーカスや踊り子、売春婦というように、共通したものがありますよね。女性に対する視線はロートレックのほうが格段に優しいですけれど。

―― ロートレックは19世紀当時、どの程度まで評価されていた画家なのでしょう?

高橋 もちろん一部では高く評価はされていました。彼の限定版の版画作品の収集家がすでにたくさん居た事からもそれは分かると思いますが、やはり当時のラジカルな趣味をもった愛好家の層、あるいは商業美術世界にかかわっていた人たちというように、いわゆる純粋美術の愛好家、という層とはちょっとずれていたと思います。いわば、芥川賞や谷崎賞ではなく、直木賞やドゥー・マゴ賞というぐらいの感じでしょうか。

―― 第1回オルセー美術館展の《ひとり》と第2回展の《赤毛の女(化粧)》は、モデルが寝ていたり、後ろ向きだったりするような“素のままの女性”を描いた作品ということができそうです。「素のまま」が美しいかどうかよりも、人間存在のありようの一面を見せている作品なのかな、という気がします。それと、構図というか、画家の描く視点の位置などに斬新さを感じるのですが。

高橋 モデルが見る人の視線を全く気にしていない状態で描かれていますね。 通常では絵画に描かれることのなかった、疲れ切って寝ている女性やガリガリに痩せた女性が背中をだした姿が作品化されているわけですから、言い換えれば、この画家の視線、そしてこの作品を見る人の視線は、ある種の「窃視」ですよね。それまでの絵画なら、画中の人物はたいていその作品を見る観客と対峙しているものですからね。そういう関係がこの作品にはないわけです。

 

第17回/ 2007.03.31

トゥールーズ=ロートレックの絵画 ―― ラジカルな視線 (2)

 

トゥールーズ=ロートレック
《赤毛の女(化粧)》

(1889年制作)
第2回オルセー美術館展(1999年)
 

高橋 やはり近代絵画の場合は画家がどんな「視線」を採用しているかという問題が大きくて、それは当時の社会環境と大きくかかわっています。

例えば、フランス革命以後の近代社会で飛躍的に発達したのは、監獄の監視システムと言われています。権力が個人をコントロールするためのシステムですね。それがどんどん発達していきます。そういうふうに視線を管理するという状況が飛躍的につよくなるわけです。

ところがロートレックの作品にみられるような視線の工夫は、その「管理された視線」をいかにして外すか、というところに狙いがあります。アーティストによる、ある種のラジカルな反作用なんですね。決められた視線、管理された視線というものに対する反発とでもいうのか……。

―― まさかこんな角度からは誰も見ていないだろうと。

高橋 やっぱりそういうプライベートな、オフィシャルな視線では見られないようなものを出していくわけでしょう。それは完全に管理から抜け出した表現ですね。

―― 「管理」に対する芸術家たちの抵抗ということでしょうか。

高橋 「管理されたオフィシャルな視線」に対する反駁なんですよね。

―― 例えば前回のドガについてのお話のなかで、オーケストラの背後に描かれた踊り子の首から上が画面のなかに描かれていないという状態や、娼婦と飲んだくれと思しき人物が画面の端に寄せられて描かれているのもそういことになるわけでしょうか。単に斬新な構図というよりも「今までに眺められたことのないような角度から意識的に対象を見るようになった」という根本的な態度の変化を反映しているわけですね。

高橋 優れた芸術家というのは、常に管理的なものに対して、その先、先と読んではずしながら創作していくものだと思いますね。

 

第18回/ 2007.04.02

ポール・セザンヌの絵画 (1)

 

ポール・セザセンヌ
《セザンヌ夫人》

(1888―90年制作)
第2回オルセー美術館展(1999年)
 

―― セザンヌは、20世紀初頭から展開するキュビスム等の現代美術にも多大な影響を与えた画家として知られています。その作品についても、オルセー美術館展ではくり返し紹介されてきましたが、今回はふたつの作品についてお聞きします。

まず《セザンヌ夫人》について。この作品は第2回のオルセー美術館展に出品されました。セザンヌの造形性を理解するのにも適した名作だと思います。

高橋 ドガやロートレックとはまたタイプが違いますが、セザンヌの描き方についても似たようなことが言えると思います。誰も自分の奥さんをこんなふうに描いたりはしないわけですね。それ以前の絵画では、人物をこういうスタイルで描写するということは考えられませんでした。これが「肖像画」だと言われても見る側は困りますよね。

―― 単に肖像画として見た場合に、まずこの人物の虚ろな表情は何なのだろうという気がします。それに、人物画として見ても、モデルを綺麗に描こうとかいった努力は放棄しているように見えるのですが。

高橋 人物の表情、エモーションの部分でも全く美的な扮飾をしていない作品です。だからモデルに似ているとか似ていないとかの「再現性」でいえば、ほとんど意味のない肖像画ですよね。

―― とくに卵型をした頭部や円筒形の首の描写を見ていると、セザンヌのあの有名な言葉「自然を円筒形、球形、円錐によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい」を思い出したりもします。

高橋 例えばこの人物の首のあたりだけを見てみると、ほんとにサント=ヴィクトワール山の形みたいなものですよ。形態、フォルムの本質的な状態ということでは人間の首も山の形も大差はないですね。その意味で、この絵はサント=ヴィクトワール山に目鼻がついているようなもので、肖像画でありながら実は肖像画ではないということにもなるでしょう。

 


※掲載画像はオルセー美術館展主催:日本経済新聞社の許可を得て
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