2007年の初頭を飾る美術イベントがいよいよ近づいた。「オルセー美術館展 19世紀芸術家たちの楽園」が1月27日から東京都美術館で開幕する。

印象派と19世紀の美術を展示して世界の人々にひろく親しまれてきたオルセー美術館は1986年に開館している。しかし、この美術館の創設に一人の日本人美術研究者がかかわっていたことまではあまり知られていない。第1回のオルセー美術館展(1996年)から今回まで同展コミッショナーをつとめる美術史家の高橋明也氏(三菱一号館美術館館長)である。

オルセー美術館開館準備室に在籍した当時の思い出、そして今回のオルセー美術館展の見どころについてなどを語っていただいた。

 


高橋明也 TAKAHASHI akiya

1953年東京都生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。19世紀フランス美術史専攻。1984〜86年、文部省在外研究員としてオルセー美術館開館準備室に在籍。国立西洋美術館学芸課長を経て現在、三菱一号館美術館館長

主な担当企画展覧会としては「ジャポニスム」「ドラクロワとフランス・ロマン主義」「バーンズ・コレクション」「ラ・トゥール」、3度の「オルセー美術館展」(1996年,1999年,2006〜2007年)など。著書に「ゴーガン」「マネ」「ドラクロワ 色彩の響宴」他、共著に「フランス発見の旅」等がある。






 

―― 「オルセー美術館秘話」ということですけれど。この美術館についてお話をうかがうとすれば、日本では高橋さんということになりますね。なにしろ今から20年も前に、その創立に直接かかわった方ですから。

あらかじめ確認しておきたいのですが、この美術館のどこかに“隠し部屋”があるとか、あるいは“お化け”がでるとかいった種類の「秘話」はないわけですよね……。

高橋 それはありませんね。(笑)

―― では、オーソドックスにいきます。

創立20周年ということですから、美術館としてそれほど長い歴史があるわけではありませんね。にもかかわらず、駅舎を利用したあのユニークな形状もあってか、今ではパリの名所のひとつになっています。もちろん印象派を中心とした展示で世界的に名高い美術館でもあります。

昨年12月には創立20周年の記念式典が開催されたと聞きます。高橋さんも出席されて懐かしい創立メンバーたちとの再会があったのではありませんか。

高橋 私が文部省の在外研究員としてオルセー美術館開館準備室に勤めたのが1984年秋から86年春にかけてですね。美術館のオープンは86年の12月でした。

先日の20周年式典には、その頃の同僚や懐かしい人たちがたくさん来ていましたね。当時は皆若かったけれど、20年も経つと同僚のなかから偉くなる人もでてきますから……その一人が現在ルーヴル美術館の館長をしているアンリ・ロワレットですけど、「おう!」とかいった感じで後ろからどつかれましたよ。(笑)

―― ほとんど“同窓会”のノリですね。現在のオルセー館長は創立当時からのメンバーですか。

高橋 いえ、現在の館長にはグルノーブルの美術館の館長をしていたルモワンヌ氏が就任しています。オルセーの最初からのメンバーではありません。

―― 美術館というのは最低限どれほどの人数で運営できるのか想像がつきません。当時は何人くらいの所帯だったのでしょう。

高橋 一部入れ代わりはあったと思いますが、学芸員自体は12〜13人だったと思いますね。他に多くの情報資料、渉外、教育などの専門スタッフや事務スタッフ、パートの学生、それから準備室ですから当然設計・設備関係の人がたくさん居ましたから、所帯全体の人数は本当のところよくわかりませんでした。

 

オルセー駅からオルセー美術館への改装 ( 1985年頃 )

―― 懐かしい写真を用意していただきました。この写真はオルセー駅を美術館に改装中の写真でしょうか。壁面にシートのようなものがかけられています。

もともとパリ万国博覧会に向う人びとをパリ中央部に運ぶ目的で建設されたのがオルセー駅でした。1900年のことですね。その旧駅舎を美術館に改装することが決定したのは1978年。

歴史的建造物を美術館として再利用するのは素晴らしいとしても、実際問題として、築80年の建築物を現代の施設に変えるのは大変な事業ですよね。

「開館準備室」というのはどんな感じでしたか。もちろん専用の施設や部屋が用意されていたわけですよね。……まさか、この建物のなかにあったとか?

高橋  あの建物をそのまま使っていましたよ(笑)。最初は駅舎のなかの一部、上階の部屋を使っていて、それからそこも改装しなくてはならないので追い立てられるようにしていろんな部屋に分散して移動しました。外部の建物に移動したこともありました。私は資料室、図書室みたいなところを貸してもらって使っていましたね。

改装工事の初期と完成直前の状態
 

――この写真を見て納得ですけど、本当に大工事だったんですね。黒いテントのようなものは?

高橋 一番上の採光部分を工事しているところですね。骨組みの部分が落ちないようにしながらの工事です。この状態は工事の初期段階なので、まだ駅のプラットホームもそのままの状態で残っています。 ほとんど駅舎そのままですね。下の写真の頃になると、工事もだいぶ進んで美術館らしくなりました。改修工事が終了する直前です。

―― 内装と外装のどちらかを先にやっていたということはありますか。

高橋 平行してやっていましたね。

―― そうすると、文字通り「工事現場」のなかで美術館を立ち上げていたわけですよね。

高橋 だからルーヴル美術館の職員たちは、(ジョークで)よく我々のことを「駅に住んでる奴らか!」なんて言ってましたね。

―― そんなことを言われてオルセーの人たちは黙っていたわけですか?!

高橋 いえ、まあ……あちらの皆さんは「宮殿」にお住まいなので、宮廷の方たちですからねえ。(笑)

―― でも、アフター・ファイブはみんなで飲みにいったりとか……。

高橋 それはあまりなかったですけど、個別にはいろいろとあって楽しかったですよ。

 



 

ジュウ・ド・ポーム美術館にて ( 1984年 )

―― この写真左の女性はカロリーヌ・マチューさんに見えますけど。

高橋 そうです。彼女は現在、オルセーの主任学芸員をしていますが、オルセー美術館生え抜きの人で、私と彼女は開館準備室の一番若いメンバーでした。1996年、1999年、そして今回と、日本での「オルセー美術館展」で共同コミッショナーを引き受けてくれています。

私がカロリーヌと知り合ったのは81年頃で、彼女はすでにオルセー美術館開設準備室に入っていましたね。当時の私は国立西洋美術館に勤務して2年目でした。

この2枚の写真は、私がオルセー開館準備室に勤務する直前に、西洋美術館の仕事でパリに行った時にジュー・ド・ポーム美術館(印象派美術館)で撮ったものです。

ジュー・ド・ポーム美術館は当時まだ開いていて、絵画収蔵庫でカロリーヌを、セザンヌの作品展示室で私を撮影しました。

―― 1978年にオルセー美術館の構想が決定して、当時の印象派美術館であったジュー・ド・ポーム美術館などから19世紀美術だけを新設のオルセーに移し変えていた時期ですね。移管のためにさまざまな作業をしていた頃でしょうか。

高橋 そうだったと思います。でもジュー・ド・ポーム自体はこじんまりとして、ヒューマンスケールで、ある意味オルセーよりも印象派の鑑賞環境としては優れていたと思いますよ。

―― 美術館建設というと、我々はつい“計画があって、それが即実行されて完成”のように思い込んでしまいますが、実際には周到な準備と実現のための膨大な時間が必要なんでしょうね。

高橋 そうですね。オルセー美術館の場合は発案から完成までに約9年間ですか、そういう時間がかかっています。パリに19世紀美術専門の総合的な美術館をつくるというこの計画にしても、当時の社会環境や政治的状況によって修正をくり返されながらやっと実現したものですね。

.ロダン 《 地獄の門 》
( 国立西洋美術館 )

かなり古い話ですが、もともと現在のオルセー美術館が建っている場所にはクール・デ・コント(会計院)、要するに経済省みたいなものが建つはずだったんです。クール・デ・コントは一度戦争で焼かれてしまったものを再建する目的でしたけど結局「駅」になってしまって……。余談ですけど、この建設予定の新しい会計院の建物のためには、ロダンの、あの有名な《地獄の門》が発注されていました。でも、建物の扉としては実現しなかったわけですね。

その後《地獄の門》自体は作品として成立しました。それがめぐりめぐって松方コレクションに入り、今では国立西洋美術館の庭に立っています。いろんな因縁があって、面白いといえば面白いですよね

 

 

――  オルセー美術館創設の背景には、ルーヴルやジュー・ド・ポームなどに分散していた19世紀近代美術をひとつの美術館にまとめて展示しよう、という当時の政策があったわけですね。

ドラクロワ 《 民衆を率いる自由の女神 》

高橋 そうです。でも、当時はいろいろな議論がありました。保守派のジスカール=デスタン大統領(在任1974年 - 1981年)は最初、あのドラクロワの有名な大作《民衆を率いる自由の女神》をオルセー美術館のエントランスに据えて、そこから展示を見せていこうとしていたんです。

そうなると展示としてはドラクロワと同時期のアングルやジェリコーの作品まて並べなければおかしいことになりますよね。結果としては“印象派以前の19世紀美術館”という雰囲気が強くなってしまいます。それではルーヴル美術館に展示されているフランス美術の最後の時期のものと重なってしまいますし、オルセー美術館自体がかなりクラシックで重厚な感じの美術館になってしまうということです。

――  現在のものとはかなりイメージの違うオルセーですね。

高橋 でも、ジスカール=デスタンの後で社会党のミッテラン大統領の時代になって、議論はもっとアヴァンギャルドなものになりました。美術館のコレクションや展示を、もう少し後の時代、19世紀後半を中心にしたらどうかということになったわけです。そこにはたぶん、その方がより“革命的”であるからだという、わりと左翼的な発想があったかもしれませんね。

―― なるべく古典から離れた美術館にしようと。そのために印象派以後の革新的な美術をメインにすると。

でも、オルセー美術館に収蔵されているのは、必ずしも過激な主張をもった美術ばかりではありませんね。象徴派や保守的なアカデミスムの作品も含めて幅広くフォローしていると思います。

高橋 あの頃、70〜80年代には、フランスの美術史全体を見直して、より正確なものに書き換えようという気運がありましたからね。近代美術は単に一直線に進化し続けて成り立ったわけではないし、もう一回検討し直して19世紀の全体を見せようという方向性はありましたよね。

例えばオルセー美術館の前身であったジュー・ド・ポーム美術館は印象派の作品だけでしたから。印象派だけ見ていても19世紀美術についてはわからない部分があるので、それなら新しい美術館ではアヴァンギャルドなものもコンサバティヴなものも両方見せようということになったわけです。

―― オルセー美術館というとすぐに「印象派の殿堂」と連想しますど、それだけではないと。

高橋 印象派の革新的な内容を理解するためには、当時の、もっと保守的な絵画と並べてみれば、より分かりやすくなるのではないか、また、両者の間に未分化な部分も多くあってその辺を総合的に、当時のコンテキストのなかで見直したい、ということですね。

―― なるほど。今日の我々からみて突出した芸術運動だったから、印象派が19世紀のすべてのように思えてしまうけれど、当時としては、どちらかといえば売れなくてマイナーな絵描きたちだったわけですものね。しかも一握りに近いような人数だったでしょうし。

高橋 印象派の人たちだって妥協しながら商業主義的な作品を描く場合がありましたしね。アカデミスムの画家たちも革新的な内容を取り込んで制作することがありましたから。美術作品の展示にもいろいろな切り口ができそうなので、さまざまな角度から当時の美術を検証できる美術館にしようというのがありましたね。

それに、印象派だけとなると、どうしても範囲が絵画に限定されてしまいますね。19世紀にはもちろん工芸や彫刻もあったわけで、それを全部見せようという発想です。

 

―― それと、この際なのでひとつお聞きしたいのですが、なぜ日本人は……というより、世界中の人たちは印象派の美術が好きなんでしょう?

高橋 ……その理由のひとつには、受け入れやすさというのがあるでしょうね。印象派の作品は宗教というバックボーンから比較的自由にいられますよね。印象派の画家たちは宗教的な主題を描くことがほとんどありませんでしたから、鑑賞する側に文化的な違いがあっても受け入れやすいわけですね。近代人の最大公約数的な生活スタイルと矛盾するところがなかったということでしょう。

―― “色彩とは光の状態なんだ、だからそれを分析して描くんだ”という考えを押し進めた結果、画面からは宗教的な側面が消えていった。当時としては革新的なことだったけれど、今では逆にそれが万人に受け入れられる“無難さ”にもなっているということですか。

 

 
オルセー駅は第二次世界大戦後まで駅として機能していた
 
現在のオルセー美術館 ( 2006年12月撮影 )


 
 
 
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