AKADOU SUSUNOSUKE

 

今年もあっという間に過ぎ、世の中大騒ぎしているにもかかわらず、個人的にはただしのびよる老いをつくづく眺める以外なにもやってきませんでした。その意味で貴兄の表現行為、ものを刻む作業の継続がうらやましくもねたましくも感じられます。腹の据わった中年の若さ、あるいはふてぶてしいエネルギーとでもいうのでしょうか。細密への傾倒は諦念と意志ふたつながら抱き持つ者にのみ可能な、失われて久しい芸術(人生)態度に違いありません。

貴兄の「雨上がり」と題された作品をサカナにして、少しく妄想を展開してみたいと思います。

HP上に掲載されている一連の絵から、ぼくを含め多くの人がやわらかみとあたたかみを受け取っていると思います。雨上がりの公園をモノトーンで描いたこの作品も、例外ではないでしょう。水たまりのつつましさ、まだ湿りを帯びたグローブ・ジャングル(というのだそうですね、あの丸い遊具は)とその影、公衆トイレのたたずまい。静かな夕暮れ時の児童公園は、みずみずしくやわらかな気をのぼらせて、ぼくのなかに立ち現れています。

もちろん、人のいないこの小さな公園の風景から、やわらかみやあたたかみというよりも、いちまつの寂びしみを感じとる人もいるでしょう。〈忘れ去られた遊具〉〈時代に取り残された空間〉のセンチメンタリズムとでもいうべきモチーフが、ここに表出されているのではないか。それはまた社会・時代にうち捨てられた中高年の悲哀そのものでもあるのではないか、と。

画面中央に据えられたこのグローブ・ジャングルが、こどもたちにうち捨てられてさびしいのであれば、このようなモチーフも説得力がありそうです。しかしぼくはそのようにはとらえません。ぼくには、この遊具はむしろ、こどもを拒絶していると感じられるのです。

もうひとつ。この遊具で遊んだ想い出も見すごせません。こどものころのかすかな記憶。子育て中のなつかしい記憶。たしかにぼくらは、グローブ・ジャングルという名前こそ記憶に残っていませんが、このなかで、あるいはその周囲で、遊び、またはらはらしながらこどもが遊ぶのを見ていたのでした。貴兄の作品を見て、忘れていたこうした記憶がよみがえる。そのよみがえりの過程で、遠い日々の喜びが失われてしまったことに寂びしみを感じる、というのもわからないではありません。

しかし、「雨上がり」のグローブ・ジャングルは、優しい想い出を拒絶しているとぼくには思えるのです。

それは、真昼の主婦と彼女に手を引かれた幼児や、純粋な少年や、携帯に淫した女高生の指を拒絶します。それは賢いカラスや、強い野良猫や、カキフライとレバを食べたばかりのイノシシを毅然として拒絶します。だからあそこには、だれも、なにも、いないのではないでしょうか。あるのはつつましい水たまりと自分の影だけ……。 

雨上がりの児童公園にふっと現出した〈異空間〉を描き止め、ぼくらに伝えること、おそらく貴兄の手技はそこで任務を完結するのでしょう。あとはぼくらそれぞれがそれとどうたわむれるか、だけです。

*                *

サラリーマンをやめてから5年がたちました。タイムレコーダーに拘束されないという点では自由ですが、それこそ明日の保証がなにもないしんどさは、想像以上のものでした。楽になりたい、という気持ちはあります。それはふたつの方向に答えを求めているようです。ひとつはロト6で1億ないし2億を当てて、台湾かどこかの温泉で心ゆくまで眠ること。もうひとつは、いっさいを放棄して、身を天地にゆだねること。

このふたつの平凡な帰結しか〈楽になる〉道がないとは、我ながら情けないとは思っていますが、まあこんなものかもしれません。ロト6のほうは、当たるかはずれるかふたつにひとつなのに、未だ当たらない。ひょっとすると当たることなくこの生を終えてしまうのかもしれないのですが、その時はその時で、はずれ続けも悪くはないとかうそぶいてあの世に行きましょう。

あるいは次のような〈家なきびと〉の姿を、ぼくは自分と重ねてみたいのかもしれません。

男はなにかに向かって歩いているようです。身につけた古着のほかはなにももっていない。パスポートも免許証ももっていなければ、家族の写真ももっていない。一般の〈家なきびと〉が所有する段ボールや古新聞すらもっていないのです。

自動車やビルディングや木立や酒場の看板、さまざまなものが目にとびこんできますが、男は立ち止まらない。男は知っているのです。通り過ぎてきた過去の風景には〈実体〉がなかったことを。空間はすべてゆがんでいて、だからこれまでまっすぐに歩いてくることができなかったということを。絶頂期のおのれもうらぶれてからのおのれも、一度たりとも〈道〉を歩いてこなかった。

男の目に涙が浮かんできます。ようやく立ち止まった男の目の前に、さびついた夕暮れのグローブ・ジャングルがあります。男はそれに登り、また降りて、両手で懸命に回しはじめます。きしんだ音が一帯に響くでしょう。今度は小さくなって中に入り込みます。そこから見ると、あたりはやはりゆがんで見えます。犬を連れた奥さんと、ジョギング中の若者に声をかけ、回してくれないかと頼みますが、顔をさらにゆがめただけで、もちろん回してはくれません。

夜が更け、酔っぱらいも通らなくなりました。男は、もうけっしてここから出ないことを誓います。その時、涙があふれでてきました。いつまでもあふれてきます。真夜中の流星が涙の中で光りました。男の乗ったグローブ・ジャングルが回りはじめます。今度はきしむことなく、ゆっくりと、そしてだんだんはやく。

あけがた、児童公園には、涙の水たまりが残っているだけでした。

おしまい
赤胴煤之助
 
 
 
返信 IWASAKI

 

白い画面にだんだんモノクロのトーンが浮かんできて、その湯気の向こうに貴方がいます。いつものように豆腐ステーキを運んできた小さくてかわいらしいおばちゃんが、その日はそっとテーブルに置いていきました。

何か悲しいことがあって最初に泣き出したのがわたしなのに、つられて泣いてしまうのが貴方なのです。傍の椅子にゲラを詰め込んだ大きな鞄を置き、もうひとつのには三角定規の飛び出した黒のショルダー。神田の社屋からさほど遠くもない、階段を降りて数メートル先がもう終点という酒場で、二人の男がうつむいて涙をこらえる姿はどんなものだったのでしょう。昭和が終るまであとニ、三年という頃だったでしょうか。

浅草に移り住んだその夜には、本とガラクタを積上げたリビングの中央で一升瓶をはさんでの差し向い。そして、入籍だけではだめだといって呼び掛けていただいた夏の日の宴‥‥。初めてお目にかかったそのときから今日まで、何かの時には必ずといっていいほどそのお姿がありました。示し合わせたのでもなく、どこからともなく、それはおそらく天井を突き抜け遥か彼方より舞い降りた存在としか思えないのですが、いったい貴方は本当に人類というものなのでしょうか。

「カール・ルイスとぼくのあいだに差はない」。これが飲んだ夜の口癖でしたね。ほんとうは「ベン・ジョンソン」だったはずなのに、ベンのドーピングがバレてからはいつのまにか入れ替わっていました。このことばを教えとして、わたしはいまでも生き続けています。

総合的に生きよ、などとはことばにこそされませんでしたが、いつもはやわらかく、そしてごくまれに激しいものごしで示されたセンチメンタリズムはまた時折出くわす人びとのなかにもうかがうことのできるものでした。少年の日にむさぼり読んだ岡本太郎氏の著作にも同様の香りがあったと記憶しています。それらはそれぞれ個人のことばを越えてどこか別の世界からもたらされるメッセージではないのかと受け止めているのです。他者とのあいだにもし境界などというものがあるのなら、それは踏み越えてみせろという。できるかどうかは最初から問題ではないでしょう。腕組みをしてみても何も聞こえはしないのですから。

師匠とお呼びするには若過ぎる。さりとて友人というわけにもまいらず。まあ兄貴分ほどがピッタリなのでしょうか。そんな貴方と、いまは翻訳などされながら悠々のSさんのお二方を今年はこちらにお迎えすることができました。

あの歌の題名はなんといったでしょうか。「指を丸めて覗いたら、黙ってみんな泣いていた」。わたしの父母でさえ忘れてしまったようなそんな歌ばかりを、立ち上がり、美しいテノールで、海老フライのしっぽなどを指でつまみマイクにされて歌うお姿をなつかしく拝見しました。難事件の鍵を見つけだした刑事コロンボか、はたまた陽気なアインシュタインなのか。酒気を帯びたテンションの高さは、あいもかわらずこの世のものとは思えません。「しっぽ」を受け取ったSさんもそれに負けじと歌いあげる夜でした。

隅田川から一本道の言問通りをほのかな新緑の香りが吹き抜ける夜明け前。かつてもそうであったように、ひとしきりの歌謡ショーのあとには、もし人が見るなら喧嘩としか思わぬはずの貴方とSさんとの長い議論が始まりました。いつものように傍聴席に座るわたしは、ほんの数文字ほどのことばの解釈をめぐり延々と続く精神の挌闘を、まるで隅田川の花火でも眺めるように拝聴していたのです。わたしの家から見るそれは距離の関係でまず夜空でひらき、やや遅れて音が届きます。続けてひとつ、そしてもうひとつ。しだいにその間隔は狭まり、音と光の錯綜する切れ目のない雷鳴が五感を引き裂くのです。一瞬の静寂をおいてのカタルシス。

お二人のような方たちがこの世にいるのを以前のわたしは知りませんでした。追い詰められたからではない、自らに求めて内を外へと押し開き、開き続けるひとたちを。はたしてこのタフな意識に忍び寄る老いとはどのようなものなのでしょう。瞬時にして守りから攻めに転じるそのやりかたなど、わたしには貴方たちから盗み取りたいものがまだいくらでもあるのです。

朝日の上る頃、べろべろに酔った貴方は「いや、仕事なんだ」と席を立たれました。横浜の事務所へは無事にたどり着けたのでしょうか。もしやと思い窓からその後ろ姿を目で追いましたが、柔道の猛者であるはずのその背中には白い羽など生えているはずもなく、右へ左へとゆれながら早朝の国際通りに吸い込まれていったのです。こちらは夜具まで用意しておりましたのに‥‥。

ほんとうに楽しい夜でした。また来年もこういう日がくればと思います。それにしてもこの際ですから、お願い申し上げておきたいこともあるのです。人がトイレに立った隙に野暮などおっしゃいませんようにと。「いいのかぁ、あんなのを野放しにしておいて」だなんて。わたしがこういう奴になった責任の一端は貴方にもあるのですよ。Sさんは死ぬほど笑い転げていたようですが、わたしはとても感謝しているのです。

(イワサキ)
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