AKADOU SUSUNOSUKE

 

一昨日電車に家なき人とおぼしきおばさんが乗っていました。すいていたので影響はそれほどでもなかったのですが、人々は彼女の列とその向かい側の座席を、意識して避けていました。一駅ごとに、何人かが周囲に腰掛けようとしてはやめ、別の車両に移るという光景が見られました。小生は、移動するのも失礼なのでそのまま本を読んでいましたが、おそわれる臭気で読書に専念できません。人はにおいにはすぐ慣れるといわれます。しかしドアが開いたり閉じたりと空気の動く電車の中で、波動が間歇的におそってくるせいなのか、ついに慣れることができませんでした。

先月、新進オペラ歌手のリサイタルを見に東京のホールに行きました。ドイツ、イタリア、フランスの歌曲を20曲ほど聴き、迫力あるステージに、彼女の成長ぶりを知ることができました。言葉もわからず、音曲の妙を味わえるほどの素養ももたない者にとって、歌曲は時に苦痛をもよおすはずなのに、それがまったくないどころか、どの曲もこちらの心に響いてきます。それだけ彼女の表現力が優れていたのだろうと思うのですが、この感想は少し割り引いてきいてもらう必要があるかもしれません。じつは彼女、小生のいとこで、初めてのリサイタルということで招待券を送ってきたのでした。

貴兄と同じ学校を出て、賞もいろいろとり、有名指揮者のオペラにも出演し、ここまでの彼女はどうやら順調に歩んできたようです。少しは名も知られてきたのでしょう。ホールは2階席まで満員でした。その2階席のはじっこで、身内であるがゆえの奇妙な感動をも覚えながら見ていたわけですが、プログラムの曲を歌いきり、アンコール2曲目の「赤とんぼ」を聴きながら、不覚にも小生、とうとうこみあげてしまいました。なじみの名曲だから、というだけではありません。

(いまキーボードを打ちながら、電車のおばさんのあのにおいが、少しマイルドになってふいに嗅覚器官によみがえってきました。いったいこれはなんなのでしょう。ぼくは「赤とんぼ」を聴いていた時の感覚を思い出そうとしていたというのに──。あのにおいが、小生のどこかに隠れていたのでしょうか。そういえばここ数日風呂に入っていません。)

──幼時彼女は、我が家に住んでいました。手をひいてよく、公園に遊びに連れていったものです。ぼくとはだいぶ歳が離れているのです。70年代、気持ちの屈託していたぼくが彼女を公園に連れていった帰り道、果たして彼女を背におぶり、「赤とんぼ」を歌ってきかせなかっただろうか。こみあげてきた原因の一つは──ほかにもいくつかあります──彼女の歌を聴きながらこの妄想が突然脳裏をよぎったからに違いありません。あるいはぼくが歌ってきかせたのは「赤とんぼ」ではなく、三橋美智也「赤い夕陽のふるさと」(「呼んでいる 呼んでいる 赤い夕陽のふるさとが」)だったかもしれないのですが。

身近にいた小生の品のいい歌声が彼女の進路を左右した、と言いたいのではありません。もしそうであるなら、歌好きの母親の背中でいつも歌をきかされた小生もまた、歌い手への道を志向していなければならなかったはずですから。そうではなく、歌というものは聴く者に妄想や物語を発生させやすくするなんらかの機能を有しているのではないかということ。ふとしたきっかけで発生した妄想や物語は、歌を聴いていると猛烈なスピードで自己増殖していくのではないかということなのです。

大事なのは小さな「痕跡」だろうと思います。ぼくらに刻まれた無数の「痕跡」は、一つ一つが物語発生の「芽」なのだろうということです。サブリミナルな状態のとき、この「痕跡」の一つと外部の刺激がこすれあう、そのかすかな摩擦音こそが、なにかを生み出す原点なのではないでしょうか。

以前、かな書道の大家と食事をする機会があったのですが、筆が紙とこすれあうかすかな摩擦感がなんとも言えない、とその先生は言っていました。なるほどそんなものか、芸術は快楽とそんなふうにもつながっていたのか、と目が開かれる思いがしたのを憶えています。墨と筆を通して紙から指に伝わる微振動。先生の書いたあの長尺の巻物も、そうした共鳴が織りなす一幅の交響楽だったのか。筆というものが、笛と同じく空洞の竹でできているのもなるほどゆえあることと思われました。かな書道の先生、細密画の貴兄、大田区の職工さん、みんな素材のかすかな振動を聴きとる充分な訓練を積んだ人たちなのでしょう。指が耳になっている人たちです。

この宇宙で、震えていないものはない、とぼくは勝手に考えています。紙もペンも鉄板も、島倉千代子もプレスリーも、火星の石も遠い恒星から来る光もみんな震えている。だとすれば、ぼくらに刻まれた無数の「痕跡」もまた、それ自身つねにかすかな震えを生じているはずです。その震えは、おそらくそのままでは聴きとることが、感じとることができないほど微細なものとしてあるのでしょう。

あの二日前のおばさんのにおいの微粒子は、おそらくぼくの内部のどこかにその痕跡を刻んだのです。そして彼女を想起するという、痕跡にとっては外部からの刺激によって、かすかに震えることで存在していたあのにおいが、ぼくの嗅覚器官に再び増幅・再生されたと考えることはできないでしょうか。さきほどふいににおいがよみがえったという事態には、「赤とんぼ」の歌を聴いて、記憶の古層にあった震えが増幅され思わずこみあげてきたことと、類似した構造があるように思われるのですが。──それにしてもあのおばさん、どこに帰ろうとしていたのでしょう。存在の痕跡をその〈残り香〉に託しつつ。

リサイタルの3日前、ぼくは後楽園ホールにいました。彼は3ラウンド終了まで完璧な試合運びをしていました。少なくとも2ポイントはリードしていたでしょう。残りあと1ラウンドの試合で、観客の多くが彼の勝利を予測していたに違いありません。

最終ラウンド、彼の勝利を信じる一方、どこか動きにぎこちなさが感じられ、そのぶんぼくのまなざしは鋭くなりました。そしてこちらのロープを背負った彼が不用意に右を出したとき、右のカウンターをあごにくらったのです。4ラウンドを通じてはじめてくらったクリーンヒットでした。彼は前にくずれおち、一度立ち上がりましたが再び倒れたあとは仰向けになったままでした。

いとこの歌がぼくの心にあれほど響いた理由の二つめは、ドラマチックな息子の敗戦であったかもしれません。

赤胴煤之助
 
 
 
 
返信 IWASAKI

 

温かいと感じる日が増えてきて、近頃は散歩に出ることが多くなりました。わたしの散歩コースは隅田川まで行って川面の水鳥を眺めるという一時間ほどのものと、六区から浅草寺ヘ抜けて境内を歩き回る三十分コースとの二種類があります。実際に歩く距離はたいしたものではないのですが、座り込んでくつろいだりしますので、そういう時間になります。

昨日は長い方の散歩でした。隅田公園の堤防から見下ろす水面にはスプーンで掬い取ったような小さな波ができていて、それが春の陽射しを反射させています。「いいなあ」などと、いつものベンチでのんびりしているうちにハッと気がつきました。いつのまにか、わたしは大勢の人に囲まれているのです。ざっと見渡しても軽く百人は越えているでしょうか。日向ぼっこにしては多いなと思っていたのですが、ある瞬間までその全体を意識することがなかったのは、誰一人として言葉を発することもなく、そこを動かずにいたからのようです。

貴方もご存知のように、現在では浅草のこのあたりは路上生活をする人びとの居留区域です。なんとかして立ち退かせようとする側の貼紙や警告にもめげずに、小屋ごと公園内を移動するといった追いかけっこが続きます。一方では、その人びとを支援しようというグループ(?)もあるようで、昨日はその食料配付の直後の光景だったと思います。うつむき、あるいはどこか彼方を見つめる人たちは、それぞれ「海苔弁当」のパックを持っていましたので。

二か月ほど前に食事が配られる場面に遭遇したことがあります。その日は自転車の荷台に大きなケースを付けた人がやってきて“おにぎり”を配りました。白髪混じりの長髪を後ろで束ねたボランティアらしきおじさん、無言で素早く手渡していきます。そして、醤油を入れて炊いた御飯に小さな海苔を貼り付けただけのおにぎりの、これまた旨そうなこと。とても寒い日のことでした。

こんなことをいうと笑われてしまうかもしれません。実はこの浅草でのわたしの知り合いというのは、ほんの数人ほどしかいないのです。わたし自身がここの育ちではありませんし、たまたま住みついてしまったわけでして、数としてはそんなものなのです。

浅草寺の境内で仕事をする的屋のおじいさんからは、相撲の興行師をしていた若い頃の自慢話を聞かせてもらいます。横綱のだれそれと飲んだ話などにも、神田の生まれというその江戸弁に職業柄のテンポが絡み合って、上等の咄家を聴くような趣きがあります。上野駅の近くから自転車に乗って遊びにくる左官のおじさんは耳触りのいい職人言葉で楽しませてくれます。二人ともわたしがこの街をぶらぶらしていて、ひょんなことから知り合った人たちなのです。出合いとはそれでいい、それが味わいだろうと思うのです。

知り合いとまではいきませんが、女性の顔見知りもいます。その人は貴方流にいうと“家なき人”です。名前も身の上も知りません。でも、すれ違えば三度に一回くらいは目で挨拶します。共通の話題がありませんので、こちらから話しかけることはないのですが、目が合うと彼女は笑顔で近寄ってきます。それで、その短い会話の最後の台詞がいつも決っているのです。「ところで兄ちゃん、煙草もってる?」というわけ。こういう奇妙な関係が何年も続くところが浅草の不思議でもあります。奇妙で不思議なのはあなただけよと、わたしの同居人などは思っているかもしれません。

そのおばちゃんが少しずつ衰弱していくのがわかりました。たくさんの人が行き交ういつもの場所にいて、その前を通り過ぎても声をかけてこなくなったのです。それどころか目線を移動させることもなくなりました。ついには壁に寄り掛かって両足を投げ出し、薄目を開けたままです。このあたりの“有名人”でもあるはずのおばちゃんに声をかける人がいるかどうかはわかりません。「下町人情」にも及ぶ範囲というのがありそうで、こうして行き倒れていく人もそれほど珍しくはないのです。それが昨年暮れの“短い散歩”での出来事でした。

おばちゃんの姿を見てわたしが何を感じたかを正直にお話しますと、それは恐ろしいものです。というのも、わたしはこの光景を「描きたい」と思ってしまったからなのです。それもかなり本気で。

おばちゃんの姿を見た瞬間から、歩きながらそのことばかりを考えています。壁とアスファルトがつくる直角の部分に身を沈めた老女の姿を絵にしたいという想い。深いしわを刻み込んだ頬に斜めの角度から光りの当たる感じとか、重ね着で膨らんだ灰色の衣服の襞とかをモノクロのペン画に描いている自分まで想像しているのです。人を物として眺めるつもりはないのですが、場面そのものは明らかにモノクロの画像としてわたしのなかに焼き付いてしまいました。それを描いてみたいのです。

家に戻った後もしばらく考えました。その欲求は純粋に造形的なものであるのか、私情を交えてはいないのかと問われれば自信はありませんが、他方で光と陰のバランスや皮膚の質感などが限り無く視覚的なものとしてまぶたの裏にこびりついています。絵描きとしてのわたしは、こういうものも描きたくなるのです。

なんとかして写真にでも収めておくべきだろうかと、その日は寝床に入ってからも悩み続けました。差し入れでもして撮らせてもらおうかなどと馬鹿げたことにまで思いを巡らせているのです。人が死ぬかもしれないというのに。やはりやめようと決めてから数日後にそこを通りかかったのですが、おばちゃんの姿はもうありませんでした。もし人に「魂」というものがあるのなら、そこからまっすぐ上に昇っていってほしいと思います。

浅草に来たばかりの頃には、こういう事柄にかなりのショックを受けていました。決して慣れてはならないはずなのですが、眼の方は勝手に慣れてしまったようで、それで比較的冷静に絵のことなど考えてしまうのかもしれません。

わたしは自分のお絵描きの最初の一歩を記憶しています。まだ幼稚園に上がる前でしたが、ある日、母が裏の白い新聞チラシを束ねて紐で綴じたものを渡してくれたのです。手製のスケッチブックとちびた鉛筆。自分の子供がそういう方面に敏感に反応するらしいことに気づいた彼女のアイデアでした。質素なものですが、充分すぎるほどの贈り物でした。

畳の上で腹ばいになって、来る日も来る日もあたりのものを描き写しながら、わたしはそうやって自分と外界とに折り合いをつけていくことを覚えていったような気がしています。言葉以前の感覚はだれにもあるのでしょうが、そちら側に最初のスイッチが入ってしまったということのようです。そして、それはどうやら今でも続いています。

赤胴さんには“家なき人”のにおいが、わたしにはその姿が何かのきっかけになっていくのではないでしょうか。貴方のスイッチがどこで「ことば」の側に入ったのか、そのあたりについてをいつかお聞かせください。

(イワサキ)
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