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煮物を作ろうと大根をむき、人参を切っているうちに、送ってきたレンコンがあったはずだと気づいて、段ボールの隅からやっと見つけだしました。 ところがもう腐りかけていたのです。相変わらず骨格をしっかり保ってはいるものの、中は茶ばみ、臭いを放っています。夏場放ったらかしにしておいた雑巾、たっぷりと汗を吸ってそのまま何日もポケットから出していないタオル地のハンカチの、あの臭いです。もう10日もこのままおけば、ビルの柱の陰にいて、見えないけれども確実にそれと気づく、あの家なき人にひけをとらないレンコンになることでしょう。わが人生とかさねつつその虚ろな中身をながめながら、ついに意を決して捨てたのでしたが、見つけだすのがあと1月も後だったら、あるいは饐えつきて臭いもおさまり、この世の中にはこんな褐色のレンコンもあるのかと感心しながら煮込んでいたかもしれません。 半月ほど前、久しぶりにたっぷりと雪が降りましたね。その翌々日、東京に行き、昼前に用事がすんだので、そして一仕事おえて少しやすらかな気持ちになっていたこともあり、コンビニでカップの焼酎とカレーパン1個を購い、小さな公園の植え込みの端のコンクリに腰をかけて昼食がわりにしました。ベンチはまだ雪が積もったままで座れなかったのです。まずは3口焼酎をすすってから、おもむろにカレーパンの袋をあけて1口かじります。この手順は、ぼくにとって近時外出先でのほとんど唯一の贅沢になってしまったこの行為において、すでに儀式化されたもののごとく、変わることはありません。たんに渇きをいやすためだけの飲食ではなく、自然と宇宙の不可思議をめぐる内なる祭礼でもあるのです。ときに木々が語りかけてきます。いつだったかカイヅカイブキがこう言っていました。──きみたちは、そよ風にゆれることができないから、昼間から酒をのむんだろう、と。 いいことを思いつきました。今日は特別に、この雪で割って飲むことにしよう。いったん立ち上がり、右後ろのツツジがかぶっているかたまりから適量をつまみあげて、カップにいれてみると、液体は白濁し下降しながらやがてまたもとの透明度をとりもどしていきます。焼酎が一瞬清酒に変わったような気がして、同時にものを清める雪の力を改めて確認したしだいですが、その時、ツツジの下に動くものが目にはいりました。黒い子猫でした。 さきほどから気づいていた、公園の中央で昼寝している猫の子どもに間違いないでしょう。そして間違いなく野良猫なのですが、おそらく生後4か月ぐらいのとてもかれんな表情をしています。ツツジの下からじっとぼくをみつめています。カレーパンの袋をあける音を聞きつけて忍び寄ってきたのでしょう。ぼくはためらいました。猫がカレーパンを食べるものだろうか。食べるのであれば少しぐらいならわけてやらないでもない。だがもしそれが無駄に終わってしまったなら、貴重なぼくのこの贅沢はぶちこわしになってしまうのではないだろうか。そこでほんのちょっぴり、皮の部分を与えることにしたのです。果たして子猫は、皮が投げられて地に落ちるやいなや、じつにすばやくそれを左前足で掻きこみ、ためらいもなく食べたのでした。 公園の入口近くで若い男が雪を蹴り上げながら携帯で話をしています。年輩の男がトイレから出てきて、去っていきました。昼を告げるチャイムが聞こえてきます。先ほどまで寝ていた母猫が目を覚まし、悠然と公園から出ていきました。きまった時間に餌をくれるやさしい人間の所に食事をしにいったのだろうと、ぼくは想像をたくましくします。雄猫がやってきて、母猫の後についていく。カレーパンの皮を2口食べた子猫もついていこうとしましたが、携帯の男に雪をぶつけられて出ていけず、また植え込みに隠れてしまいました。ポタンと音がしました。柿です。枝にまだたくさん実を残した柿の木が傍らにありました。椋鳥が数羽ついばみに来ています。渋柿が風雪にさらされてよほど甘くなっているに違いありません。公園に面するしもた屋の二階から50がらみのおばさんがぼくの風体をひとわたり観察して、ピシャンと窓を閉めました。 カップの焼酎が半分ぐらいになり、ポケットからカレーパンを取り出しまた少しかじりました。その取り出した音を聞きつけて向こうの植え込みにいた子猫が再び近づいてきました。いったんぼくを見捨てたはずなのにまたもどってきた、そのいとおしさに、またややほろ酔いかけて気持ちが大きくなったこともあって、ぼくは皮だけでなく餡の部分も与えてしまったのです。こうしてぼくはついに猫がカレーを食べることを発見したのですが、それにしてもこれが誇り高き猫族のすることでしょうか。我が家の猫ならもちろん見向きもしないものです。浜辺の野良猫でさえネコマタギは食べません。だが都市に棲息する野良猫に、常識は通じないのでしょう。常識とは文化であり、その対極にあるのが野生であるとすれば、都市の野良猫はそのどちらからもマージナルな生き物だったのです。野生の血を受け継ぎつつ人間文化と折り合いをつけなければならない存在として、野良犬が都市から消えてしまった現在、重大な責務を負わされている生き物であるともいえましょう。40年ほど前、ぼくの家の庭に野良猫の親子が住みついていました。雪が子猫の背中に降りかかっていて、それをじっとぼくはみつめていたのでしたが、ぼくが見ていたのはあの小さな肩の内にひそむ誇りと自負だったのかもしれません。 以前次男が宇宙物理を勉強したいと言いだしたので、銀河系のいちばんはじっこの惑星に行ったら夜空はどう見えるか答えてみよ、と問題を出したら、しようもないおやじだという目でみられておしまいでした。でもぼくにはたいへん関心のあることなのです。おそらくは1年の夜空の半分は星だらけで、もう半分はぽつんぽつんと星雲がみえるだけではないでしょうか。そのことをぜひとも確認したいと希望しているわけですが、それにはその星に行ってみなければなりません。ではどうすればいいのでしょう。貴兄との往復書簡の1回目に書いたように、児童公園のあの球形の遊具の中に入り、夜半飲みつづけてみましょうか。今度はポケットにカレーパンを入れておきましょう。銀河系のはずれの惑星でも雪は降るでしょうし野良猫もいることでしょう。その猫がカレーパンを食べることが分かれば、ぼくの中でいま形成されつつある「野良猫─カレー理論」は宇宙的真理となるのですから。
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| 返信 IWASAKI |
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