FUHATSUDAN

 

給料で暮らす大多数の勤め人の羨望なのだと思いますが、「自由業」という言葉の響きとイメージには憧れを覚えます。現実の生活がそう甘くはないことは承知しているつもりでも、浅草の「自由業」であるイワサキさんを羨ましいと思います。もっともイワサキさんは、かつて同僚だった頃も自由気ままに生きていたように見えましたが。

先日読んだ新聞のエッセーに、「ひとりドミノ倒し」というのがありました。おおよそ次のような内容です。

学生時代に、一日中CDをテープにダビングして夜を迎えると、その日が充実していたのか虚しく過ごしたのか分からなくなり、妙な疲れが残ることがあった。その原因は、今日という一日を明日のために費やしてしまったという倒錯感にあった気がする。日常生活には、多かれ少なかれこうしたダビング的な倒錯が含まれている。しかし、そうやってドミノ倒しのように次々と今日を使っていくと、今日のために今日を生きるということがなくなってしまう。

このままこの電車に乗ってゆけば海に行けると思いながら、毎日会社のある駅で降りる。そうやって20年間、海には一度も行ったことがない。これは異常といえば異常ではないか。ある日、思い切って海に行けば、今日が本物の今日になり、たまらなく鮮やかな時間になるはずなのに。

毎日を「海の一日」の鮮やかさで生きたい。誰が邪魔をしているわけでもない。ただ、翌日に無断欠勤を責められるといった「明日の復讐」を怖れる自分の心が、勝手にドミノ倒しを続けているだけなのだ。

やや長い要約になりましたが、こういう文章を読むと、自分のことを書かれているようで身につまされます。いまだに「海の一日」を一度も実行したことがありません。せいぜい二日酔いで半日年休を取るのが関の山です。

西行や山頭火、さらには木枯し紋次郎や車寅次郎にいたるまで、放浪者や一宿一飯の渡世人への憧れは、人並みに、あるいは人並み以上にあるように思います。それでも、ドミノ倒しの毎日から抜け出せない。職責といえばかっこいいのですが、その内実は、「明日の復讐」を怖れる小心さに過ぎない気がします。

ドミノ倒しのエッセーを読んだとき、すぐに思い起こした出来事があります。通勤電車での体験です。雨の朝、通勤電車が途中でストップしました。人身事故が発生し復旧の見通しが立たないという車内放送。長引く不況で、人身事故によるストップは珍しいものではなくなってしまいました。しかし、これは勤め人の身であることを呪う最悪の時間でもあります。どんどん狂っていく予定にどう対応するかいらいらしつつ、他方では、働き盛りで電車に身を投じた人間の無念をいやでも想像させられながら、新聞も読めない満員の痛勤電車内の空間に閉じこめられるのです。長いときは数十分も。この日は、おまけに、うっとうしい雨の中でした。

車内放送が終わると、すぐに、携帯電話で遅刻を伝える声があちこちから聞こえてきました。そして、サラリーマンや学生の電話が一通り終わると、重苦しい沈黙の時間が始まりました。この沈黙に耐えかねたように、二人の女子高校生が小声で話し始めました。「こういうの、もういい加減にしてほしいよね。」「そう、大声あげたくなるよ。」「ったく。・・・・・。」

また沈黙が戻ると思われたとき、「大声で叫べばいいじゃないか。」と、背後から太く低い声が響きました。女子高生の話を聞くとはなしに聞いていた私は、不意を衝かれたようにどきっとしました。他の乗客も同じだったのでしょう。車内の空気がぴんと張りつめたのを感じました。その声の方を向くと、どこにでもいそうなサラリーマン然とした中年の男でした。「遠慮することはない。いい加減にしろと大声で叫べばいいんだ・・・・。そうは思いませんか、皆さん。」また張りのある声が車内に響きました。女子高生二人は驚いて、当惑したように下を向いています。他の乗客も無言です。電車は立ち往生したままで、何となく気まずいような沈黙が車内には続きました。この男は苛立ってキレてしまったのか、それとも少しイカれているのか。いや、そのわりには落ち着いた口調ではないか。この男がどういう人間なのか、私同様、皆も計りかねているのでしょう。復旧が遅れているという車内放送が時おり入ると、気まずい沈黙がとぎれ、ほっとする始末です。

その後、電車はのろのろと次のMという小さな駅まで進み、復旧が遅れているという車内放送が入った後、また止まってしまいました。駅は人でごった返していましたが、満員電車の乗客はほとんど誰も降りず、乗り込む人間もわずかです。駅前のタクシーはおそらく出払っています。ここで、先ほどの男が、また声を張り上げました。「皆さん、電車を降りて、いっしょに歩きましょう。」そして、電車を降り、人混みをかき分けながら駅の階段の方に消えていきました。もちろん、誰も続くものはいません。次のO駅まででも、歩けばゆうに1時間はかかります。しかも、雨は一段と激しくなっていました。

しばらくして、復旧が終わったという放送のあと、電車はようやく動き出しました。それからまもなく、先ほどの女子高生のひとりが、「あっ、あいつだ。」と小さく叫び声をあげました。窓の外を見ると、線路わきの道を、あの中年男が歩いているのが見えました。横殴りの激しい雨の中を、小さな折り畳み傘をさして、大股で歩いています。スーツの下半分はずぶ濡れなのがすぐ分かりました。男も電車に気がついたらしく、傘を振り上げ、こちらに向かって2,3回大きく手を振りました。私は、見てはならないものを見てしまったように、思わず目を逸らしてしまいました。目を逸らすまでもなく、男はあっという間に視界から消えてしまったのですが。

以上が、ドミノ倒しのエッセーを読んで思い出した体験です。文章にしてみると下手な作り話のようですが、実際にあった出来事です。

なぜこの体験を連想したのか。あの中年男の行動に、一種の「海の一日」を感じたからでしょう。あの中年男の呼びかけを無視したことを、当然と思いつつも、どこか心の底で後悔しているような気がするのです。電車の外に飛び出して、土砂降りの雨の中を歩く姿は、狂気じみてはいましたが、常識を蹴飛ばした爽快さのようなものを感じたことも確かです。誰に迷惑をかけるわけでもないのに、「風雨の一日」の決断を迫られ、拒否して絶好のチャンスを逃してしまったように思えて、自分自身に不甲斐なさを抱いているのかもしれません。

この文章を書いているうちに、「海の一日」と似たようなことを、昔、ノーベル賞を受賞した理論物理学者・朝永振一郎の随筆で読んだ記憶があるのを思い出しました。調べてみると、『鏡のなかの世界』の「わが放浪記」がそれでした。その中で朝永さんは、勤めや学会に出る途中、ふと気が変わると、勤めや学会をさぼって見知らぬ土地にぶらりと行く、ということをちょくちょくやっていることを告白しています。たとえば、大学に勤めに行く途中、お茶の水でふと気が変わり、千葉行きに乗って、千葉の浜辺をぶらついたり、行きずりの店ののれんをくぐって「焼きはまぐり」をさかなに一杯飲む、といった具合です。勤めを怠けた罪悪感と、犯罪逃亡者に似たスリル感が楽しさを倍加する、というのです。そして、千葉ではなく、せめて北海道まで出かけ、そのまま、ようとして行方がわからなくなった、となれば、放浪の極致だが、その長年の夢まではなかなか踏み切れない、と締めくくっています。古き良き時代の大学人だから大目に見てもらえたこと、といえばそれまでです。しかし、量子物理学をかじっていた学生時代の私にとって、朝永振一郎は、ハイゼンベルクや湯川秀樹らとともに、神様のような存在でした。その神様のような学者が、なかなかの放浪願望の持ち主であることを知って、はじめて読んだときは嬉しくなったのを覚えています。

朝永さんは、落語と酒を愛した洒脱な晩年のイメージで知られています。しかし、同じ『鏡のなかの世界』所収の「滞独日記」などをついでに読み直してみると、1938年、ヒトラー時代の暗雲たれ込めたドイツでの、30歳過ぎての留学の孤独感、天才肌の湯川秀樹らに対する劣等感、ノイローゼなど、感性鋭い先端研究者の焦燥と悩みがナイーブな文章でつづられていて、胸が痛くなるほどです。現在の時点から客観的に著作集を読み返してみると、朝永さんは、物理学の業績にとどまらず、科学技術文明の行方に対する洞察の鋭さ、飾らぬ魅力的な人柄など、人間、文章ともに第一級であったことがあらためてよく分かりました。これはもう、今は亡き朝永振一郎を偲んで、学問は無理でもせめてその放浪癖にあやかり、「海の一日」を実行しなければいけません。

この4月、電車の車窓から飛び込んだ菜の花畑の光景が印象に残っています。私の心象風景のひとつに、司馬遼太郎ではありませんが、菜の花の向こうの海、というのがあります。そうだ、文字通り「海の一日」を実行するなら、菜の花の季節がいい。そこまで考えて、「海の一日」さえ年間予定に組み入れようとしている自分の勤め人根性にあきれてしまいました。

長々と、煮え切らないことを書いてしまいました。ご寛容ください。

不発弾
 
 
 
 
返信 IWASAKI

 

記憶は少しずつ薄れていくものらしく、給料生活をしていたあの頃のことを詳しく思い出すのがやや難しくなってきました。もちろん楽しい思い出もあるわけですが、それを押しのけて浮び上がってくるのは職員室を混乱させた小さな事件のことばかりです。

上の階から爆竹が降ってくる。職員用トイレの便器がブチ壊される。そして、(Kちゃんが赴任される以前のことだったと思いますが)「ドン!」という重低音に驚いて駐車場を見下ろすと、購入したばかりのわたしの車のフロントグラスに空から降ってきた瓶が命中していた、なんてことも。

「殺人以外なら何でもありだな」といった冗談が交わされることもありましたね。「学問」や「教育」などという理念以前のレベルで右往左往していたのがわたしたちの日常ではなかったでしょうか。当時、若い仲間数人が次々と学校を去っていったのも、そういうムードを反映していたかもしれません。

わたしの場合、退職するまでに二、三年ほど悩みました。辞めてどうなるのかはわからないけれど、今よりも生き生きと暮らせるのではないか。いや、この思いはきっと若気の至りで、後悔するに違いない。それぞれが交互に浮んで踏ん切りがつかなかったのです。迷いに迷って、やっと「行けばわかるさ」の心境に達したわけですが。

「人生の夏休み」は東京の真ん中でと、地図で適当に指さしたらそこが神楽坂でした。それで駅の近くのワンルームを借りて暮らし始めたのですが、快適でしたね。何のあてもないけど、空は広いし、自分の時間はある。それに、申し訳ありませんが、とにかくもう学校に行かなくてもいい。夜は学生として出版学校へ、昼間はひたすらぶらぶらと。あちこち旅にも出ました。ひとりの生活者としてはボーナスや有給休暇までを放棄したわけですから、せめてこれくらいは楽しませて頂きましょうという感じでした。

学校に残った仲間との交流でその後も続いたのはほんのわずかです。Kちゃんとは酒も飲みましたね。もちろんその後の活躍ぶりも知っていますし、わたしには難しいけれど、ネットで検索してこっそり論文なども読ませてもらっています。手抜きなどできない人だし、学校の仕事と学会・各種研究会の活動を両立させるのが大変でしょう。だから、ふっと非日常ヘの思いに駆り立てられるのもわかるような気がします。でも、Kちゃん自身も学生時代に物理から哲学へ転向して、メシを食うのが容易でない分野(?)を選ぶという冒険をされているわけですよね。すでにそのことのなかに「海の一日」的な要素もあったのではないかと思っています。(もしかして、物理学もまた“食えない”学問だったりするのでしょうか。)

明日のために今日を費やしてしまうという感覚はわたしも同じです。しかしそれを避けて「海の一日」ばかりを追求するとなれば、「現実」とは止まることを許さない漂泊の日々ということになりそうで、これもまた厳しいものでしょう。そこで思うのは、もし本当に「海の一日」を願うのなら、だれでも一度くらいは思い切って実行してみてもいいのではないかということです。子供の頃に、お腹が痛いなどと理由をつけてズル休みをしたのはわたしひとりだけだったでしょうか。大人だから自主規制しなければならない、なんてことはない。すべての人の生涯に、それぞれ幾日かの空白があったとしても何の不思議もないと思うのです。

むしろ、わたしはそのドミノ倒しの最後の瞬間が気になります。明日のために今日を使い果たしたその次はどうなるのかということです。ドミノの最後の一枚の次は人生の終わり、すなわち死ということになるのでしょうか。これは死生観ということですけれど、もしこの人生の次に、あの世や来世、天国といったものがあると信じるなら、それに備えてひたすら厳粛なドミノ倒しを続けるという場合もありそうです。わたし自身は何の信仰ももちませんが、そういう生き方を否定もできません。ドミノ倒しのゲームには、それぞれにとって最後の一枚は何のために、どこに向かって倒れていくのかという問いまでが含まれているのではないでしょうか。

実は半月ほど前に父が亡くなりました。家族の目からみて体調を崩しているのがはっきりとわかり、緊急入院してから死亡するまでが二十日間ほどという短さでした。寿命にも個人差があり、これが父の往生のかたちなのだろうと納得はするつもりですが、それにしてもその人生の総体はどんなものであったのかと考えます。家の中や敷地内にいくつもの神棚を祀り、日々の礼拝を欠かさなかった父は仕事だけが生きがいで、それこそ死の直前までドミノ倒しを続けていました。それでも終りはやってきます。

通夜から告別式、そのための会場までセットされたシステムのなかで「湯灌(ゆかん)」という儀式を見ることができました。遺体を洗うのです。この作業はこの世での汚れを浄め、来世での生まれ変わりを願うという趣旨のようで、それが給排水設備の整った畳敷きの部屋で行われました。

脚のついた西洋式のバスタブの上に枠組みがしつらえてあって、そこに裸の父が首から足元までタオルを掛けられて横たわっています。担当者のあいさつの次が「逆さ水」の儀式。そして本格的な作業がはじまります。

こういう儀式は遺族向けの形式だけのものかと思っていましたら、とんでもありませんでした。担当者は完全なプロフェッショナル。見事な手つきでシャンプーをしますし、死後伸びた髭にはシェービングフォームを塗って剃る。爪も磨くし、タオルの下に手をいれて実際に体まで洗うのです‥‥大きなスポンジに液体セッケンをたっぷりつけてゴシゴシと。その音は遺族・親族の見守る部屋いっぱいに響きました。「そんなに強くしなくてもいいのに」と母はつぶやきましたが、そうしたこちらの思いを拒絶するような間断のない作業にわたしはなぜか安堵しました。作業中に遺体が揺れたりするところは単に父が眠っているだけのようにも見えたのです。

この世とあの世がつながっているのだとだれかが証明してくれないのなら、とりあえずは「今」しかないのかもしれません。絵具の色でいえばネイプルス・イエローのあの時の父の抜け殻を思うと、あらためて今を生きることの意味を考えさせられます。

ところで、葬儀の数日後の深夜、こんな出来事がありました。実家はそれほど狭いわけではないのですが、適当な場所がなく、わたしは客間のソファーで寝起きしていたのです。葬儀後の混乱も落ち着き始めたころで少しずつ日常を取り戻そうと、その夜は午前二時までテレビを見ました。さて次は本でも読もうかと用意しておいた河合隼雄の本を取り出してはみたものの集中できません。それで、近くに置いてあった父のスナップ写真などを眺めていました。

そのとき閉め切った部屋のなかで不意に鐘の音が鳴り響きました。「チーン」という強くて、ゆっくりとした、明快な音です。さっき二時でしたから今は何時なのかと数え始めると、音は四回まで続きました。あれからもう二時間かとサイドボードの上の置き時計を見ましたが、その時計は九時十三分を指していて、よく考えると何年も前から止ったままです。おまけに振り子も取れている。それではダイニングに置いてあるものかというと、そちらにはメロディーがついている。しかもダイニングまでのあいだには部屋が二つあり、実際に音が聞こえることもない。他に音の出る時計はないし、郊外にある家の外は車も通らない静かさでした。

たぶん、物理的には何の音もしていなかったのでしょう。ただ聞こえただけなのだと思います。わたしはけっこう情緒的な人間ですが、いわゆるオカルトは嫌いなので、これは幻聴でもいいのです。ですが、部屋のなかに何かが響いていたのは確かなようで、そのことは、すぐ横で床に布団を敷いて寝息をたてていた妻が四つ目の鐘の音が終ったとたんに跳び起きてあたりを見回していたことからもわかります。

不思議なことがあるものですね。物理学に通じていて、しかも生命倫理の研究者でもあるKちゃんに解説をお願いしたいところです。

(イワサキ)
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