FUHATSUDAN

 

I am not what I was.  われは昔のわれならず。

これは、高校時代の英文法の参考書で、関係代名詞のところで覚えた例文です。当時詰め込んだこれ以外の例文などは、勿論ほとんど忘却の彼方にあります。ところが、なぜかこの文章だけは、ふっと思い出し、口をついて出てくることがあるのです。

「われは昔のわれならず」。これは、ある程度の年齢になれば誰でもいだく感慨かもしれません。多少とも可能性と情熱を抱えていた若い頃の自分と、人生の先が見えてしまい分別くさいだけの、昔の自分とは別人のように変わりはてた現在の自分と。私がこの言葉をつぶやくのも、たいていは、そういったほろ苦い感慨の次元においてなのですが、まれに、もう少し哲学的次元に陥ってしまうことがあります。かつての自分と今の自分は本当に同一人物なのか。論理的な根拠はあるのだろうか、という疑問を抱いてしまうのです。

殺人犯が、「一ヶ月前に殺人を犯した自分と今の自分は別人だ、別の人格だ」と主張して無罪になってしまうならば、社会は成り立ちません。「人格の同一性」は、私たちの生活の大前提をなしています。 ところが、「人格の同一性」(personal identity)をめぐる議論は、17世紀のジョン・ロック以来、現在も論争が続いており、哲学上の難問の一つなのです。

通常は、人格の同一性の根拠は、身体、特に顔の同一性に求められているのではないでしょうか。しかし、身体は新陳代謝を通して日々入れ替わっていきます。顔も年齢とともに変わっていきます。したがって、身体の同一性というよりは、身体変化の連続性といったほうが正確かもしれません。目の前の大きなかしの木が半世紀前のドングリが成長した同一物の姿であるように、現在の中年の私は、半世紀前のあどけない赤ん坊と同一人物なのです。

しかし、最近の技術は、こうした素朴な常識の土台を揺るがしています。

ちょうど40年前に書かれた安部公房の『他人の顔』では、爆発事故で自分の顔を喪失した主人公は、プラスチック製の「他人の顔」によって自己回復を図ろうとあがき続けます。ところが、美容整形技術の進歩によって、今では、一晩で、すっかり別の顔を持つことも容易になってしまいました。子ども時代のマイケル・ジャクソンの顔を知っている者なら、顔によって人格を同定することが困難な時代になったことを深く了解できるはずです。

では、DNA判定が日常的になった現代においては、DNAの同一性こそが人格同一性の根拠といえるのでしょうか。確かに、身体の成長変化の連続性も、DNAあるいはその総体であるゲノムのプログラムにしたがっています。しかし、この見解も、DNA自体が変わる性質を持っているため、盤石とはいえません。さらに、医療技術は、遺伝子の同一性を脅かすレベルにまで達しています。たとえば、遺伝子治療などが普及すれば、自分のものではない遺伝子の注入も増加するでしょう。また、臓器移植で多くの臓器を他人の臓器と入れ替えてしまった人たちが現に存在しますが、他人の臓器の細胞には、自分のとは別のDNAが入っているのです。

臓器移植は、移植によって人格の同一性が損なわれることはないという前提のもとに容認されてきました。したがって、人格の同一性の根拠を身体とは別のものに求めます。その根拠とは、記憶を中心とする心理的連続性です。記憶や意識を担うのは脳ですから、脳の同一性が損なわれなければ人格の同一性は保証されることになります。この前提に立ってはじめて心臓移植なども正当化されるわけです。しかし、最近、その前提を脅かすような事実が報告されています。欧米では、臓器を移植された後、食べ物などの嗜好が大きく変化し提供者と同じ嗜好になってしまった、あるいは性格が激変したり、提供者の記憶を受け継いだといった事例が少なからず報告されているのです。移植患者の多くは、移植によって提供者の人格をも取り込んでしまったと感じているようなのです。これを、細胞記憶、すなわち脳以外の心臓などの細胞にも記憶に関係する部分がある、という考え方で説明する研究者もいます。

今後は、異種移植の可能性も高まりそうです。 ヒトの臓器と同じ大きさを持つ豚の臓器が有望視されています。ただ、ヒト以外の動物の臓器を移植した場合は、数分以内に「超急性拒絶反応」と呼ばれる急激な拒絶反応が現れるため、あらかじめ豚にヒトの遺伝子を組み込んでおきます。こうした異種移植が普及した場合、人格の同一性だけでなく、種の同一性をも脅かすことになるでしょう。

アルツハイマー病の治療方法の一つとして、中絶胎児の脳組織を患者の脳に移植するという技術が考えられています。こうした「脳移植」も、移植医療の視野に入ってきました。脳移植が許容されるためには、人格の座を脳のさらに一部に局在化する必要があるはずです。脳とコンピュータをドッキングする研究も始まっています。自分の身体にコンピュータを埋め込んで神経と連結した科学者が現れましたから、脳との連結も時間の問題でしょう。

人格の同一性を身体に求める考え方も、記憶などの心理的連続性に求める考え方も、大きな難点があります。また、科学技術の進歩は、これまで見てきたように、人格同一性の問題をますます混乱させるだけです。

結局、人格の同一性を保証する論理的根拠などないと考えたほうがよさそうです。ただ、それでは社会生活が成り立ちませんから、同一性があるかのように振る舞わざるをえないのです。難しくいえば、社会的責任の概念が人格の同一性を要請するわけです。

「われは昨日のわれならず」。 これが本来の在り方なのだと観念してしまえば、アイデンティティの危機などと悩むより、むしろ、憑き物がとれたような軽快な気分になるのは、私だけでしょうか。

不発弾
 
 
 
 
返信 IWASAKI

 

机の引き出しを片づけていたら、Kちゃんからの古い手紙が出てきました。消印を見ると13年前のものです。いよいよ本腰を入れて取り組み始めたバイオエシックス(生命倫理)についてが連綿と綴られていました。

その手紙のなかでKちゃんは臓器移植について、ひとつの謎掛けをしています。

脳死状態にあるAという人間から心臓を摘出して、心臓の悪いBという人に移植する。これは欧米では日常的に行われていることである。では、もしBが交通事故などでその脳以外が使いものにならなくなった場合、Bの脳をAに移植したら、その結果生存することになる「Aの身体+Bの脳」は一体誰になるのかと。

「人格は脳に局在する」とされる従来の考えに従えばこの人物はBとなるが、それでは身体を無視することになる。少なくとも他人から見たときには身体を抜きにした同一性は考えにくいのではないだろうか――と補足したあとで、今後予想される人工知能等の進化を考えれば、将来、「人」「心」「私」「他人」などの意味するところは大きく変わる可能性がありそうで、「人格の同一性」や「人間の概念」の再検討も必要だろうと手紙は締めくくられています。この手紙を頂戴したのが「日本生命倫理学会」の発足した翌年で、文末には最先端の情報を得るために会員にしてもらうことになりましたとの報告も。若き日(?)のKちゃんの気合いの入った姿が透かしとなって浮び上がっています。

「われは昔のわれならず」。本当にそのことが裏付けられてしまいそうなわけですね。弱りました。

記憶や意識といった「心理的連続性」を(ごく大雑把に)「心」の一部ということにすれば、その「心」の在り処を脳の中と決めつけてきた思考の歴史が一方にあり、それを拠り所に科学技術を援用してきた西洋医学の流れがある。その恩恵に浴しておきながらいうのもナンですが、今では、その「心」のためにキープしておいたはずの指定席もさらに小さなものにしようというわけですね。ということは、いずれは「人格」や「心」を頭の中から完全に駆逐してしまおうという魂胆なのでしょうか。そうした「心」の居場所の当否は別として、追い出された「彼ら」の姿を具体的にイメージしてみようとすると、とても奇妙なものであり、また少し切ない気持ちにもなります。

そもそも、その「彼ら」を身体から引き剥がして捕えようとする思考そのものに問題はないのか――というニュアンスで受け取ったのですが、この手紙のなかでKちゃんは言及しています。大森荘蔵の哲学にみる「相貌」や「アニミズム」といったものの見方が参考になるのでないかと。

久しぶりに『物と心』を読み返してみました。

――科学は仕掛けられた罠ではないが、天然自然の罠の形をしているようにみえる。それと意識して作られたのではないが、天然のハエ取り器の形につくられている。そして、そう作ったのは他でもない。ハエ自身なのである。このハエは明らかに自縄自縛の習性、というより本性をもっている。

(「科学の罠」の章のはじめの部分から抜いてみました。導入の箇所ですから派手な感じがしますし、部分を取り出して何かを言おうとするほど“非大森的”な行為もないでしょうから、あまり適切でなかったかもしれません。)

どんな事物も「見え姿」や「聞こえ」という「相貌」をもっている。いかようにも見えない情景やいかようにも聞こえない歌などないのだから、およそ相貌をもたない事物はありえない。相貌とは、その相貌をもつもの全体のことであり、全体の部分はまたその相貌をもつが、それは全体の相貌とは別のものである(五重の塔の相貌をその各層がもつことはできない、等々)。‥‥要約していっても長くなりそうですね。

比喩を繰り返し挟みながら、この本では「身体」と「心」、「存在」と「意識」といった二元論がゆっくりと打ち消されていきます。

――「私」は健全な精神だとは到底思えないが、それでも人並みに自分の体に「宿っている」のだろうか。だが、その「宿り方」は一体どんな宿り方なのか、ほんのひとことでも言える人がいるだろうか。‥‥もともと「宿る」とは、或る状況で一つの物体が他の物体の中に或ることをいう。それを、「私」は私の体に宿る、と流用(盗用?)するのは既に「私」を準物体扱いにしようとしているのである。(氈|3「痛みと私」)

再読してみると、やはり目から鱗の落ちる思いがします(放っておくとすぐに再生してしまいそうな硬い鱗ですが)。かつて森には精がいたし、石にも魂があった。それらを消し去ってしまったわたしたちの強迫観念を遠慮なしに断ち切ってくれる清涼感があります。「居場所」でなく「あり方」ということでしょうか。「人格の同一性」の問題についても、こうした立場を踏まえ、さらに今日の視点から眺めると、また違った景色がひろがるのでしょうね。それは「ビールスやロボットに意識があるのか、あるいは、彼らは生きているのか」という問いと同様に、「われわれの判決にまかされている」事項なのかもしれません。

*            *

ふと、昨年の夏にいただいたメールを思い出しました。いつもの几帳面なメールとは違い、「かっこいいのを見つけた」とは何かと、首をかしげながら添付ファイルを開いてみたら『木枯し紋次郎』の写真でした。

最初のテレビシリーズのタイトルバックあたりのものでしょうか。三度笠を目深にかぶり、峠道をこちらに向って歩いてくる紋次郎がそこにいます。すれ違いざまに声を掛けても、彼は振り返ったりなどしません。追いすがれば「先を急ぐ旅でござんす、御免なすって」とか、つれない言葉が返ってくるのでしょう。

いつも思い出すわけではないけれど、決して忘れることのない紋次郎の姿でした。汁をぶっかけた飯をかき込む姿、食あたりで腹を抱えて苦しむ姿、そして不格好ではあるけれど、めちゃくちゃに強い斬り合いのシーンまでが浮かんでくるのです。「関わりのねえ」ことばかりに巻き込まれ、目的のない旅を急ぐ紋次郎の姿が立ち現われています。

(中村敦夫が演じるところの)紋次郎は、わたしも人様に負けないくらい大好きで、テレビ放映されていた当時も、再放送も、何度も見ました。あのKちゃんも紋次郎ファンだったかと喜んだものですが、メールにたった一枚だけ添付されたこの「紋次郎」には、何か謎でも掛けてあったのでしょうか。

そういえばブラウン管のなかで、ただ今の、この現実だけを生き抜いてみせる紋次郎にも、幼い日に間引きされかかったのを姉の手で救われるという生い立ちがありました。ドラマのなかでその内面が細かく描写されることはありませんでしたが、わたしたち視聴者は彼の「過去」を承知しています。その意味で、わたしたちの前に、今まさに出現している紋次郎は「現在」と同時に、その「過去」までもリアルタイムで生きているわけですね。

そこで推測です。「われは昔のわれならず」と観念するKちゃんがいて、そのKちゃんは同時に、決してそのようには観念しないKちゃんをも生きているのではないかと。

じつはこうして手紙を書きながら、ぼんやりとワープロの向こうの本棚のあたりに目をやっていると、もう一人の方のKちゃんが見えます。いろいろと訊ねてみたい気もしますが、そちらからの言葉は聞こえそうにありません。これが紋次郎なら、「あっしにゃ言い訳なんぞござんせん」などと返ってくるのでしょうね。

(イワサキ)
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