ITAMI BANSAKU

 

梅雨の続きのような短い夏が過ぎようとしています。加齢とともに夏の日射しがこたえますが、こんな締まりのない天候が続くと、我慢くらべを挑まれていたような数年まえの豪快な夏を思い出します。そして、朝から入道雲を見上げる日が続いた少年時代の夏休みの日々も。

幼少時の記憶は、長い旅を振り返った時の思いに似て、断片が組み換えられ居心地のよい形に再構成されるもののようです。そして夏の思い出が、寒い季節のものよりずっと量が多いのは、記憶というものが、明るく思い出したいものを優先的に、都合よく順序を入れ替えて組み立てられるからでしょう。

戦後、小学一年(1948年)の夏に疎開先から東京に戻り、文京区音羽に家が建ちました。三年後、父親がいなくなりこの家を失ってから貸家と貸間を転々としましたが、音羽と、江戸川橋をこえた神田川ぞいに二十年余住みました。

小学校の六年間を音羽で過ごしました。戦後の復興期のことですから、原っぱや石材置き場が私たちの遊び場でした。母親が作ってくれたブカブカの手袋のようなグローブと布をひもと針金で固く巻いたボールで三角ベースをよくやりました。ひもがほどけゲームがしばしば中断しました。戦時の気配が急速に失せていく時でしたが、周りの大人は目の前の今日明日を追うのに懸命で、社会の変化にはおずおずと従いていくばかりだったように思います。

関口台町小学校へは急坂を登って通いました。音羽は護国寺の門前町で、表通りには小さな商家が立ち並んでいましたが、関口台町にかけての斜面はまだ家も疎らで、顔見知りとそうでない人との区別が子供にもつく一帯でした。

今の関口カテドラルと独協学園の周辺は開発の手がはいらない林になっていて、夏の日射しを避けてよく一人で探検しました。あけびの実がなり蔓草におおわれた一角に立ち入ったことがありました。続く小道を探すすぐ目の前を、見たこともない黒地に赤い斑点のある大きな蝶が、ゆっくりと誘うように横切っていったのです。甘美な思いに満たされ、ドキドキしました。その後この場所に来ると、あの蝶をもう一度見たいとしばらく佇んだものでしたが、再会はかないませんでした。

小学四年から三年間の担任は軍隊帰りの人で、何か言い誤るとその都度「モトイ!」と言って訂正しました。私たちもこれが正しい訂正の仕方だと信じて倣ったのですが、そんな言い方をする大人は他にいなかったので、教室で教科書を読み誤った時以外には使うことはなかったと思います。また、この先生を先頭にして校庭を走る時は、握った両の拳を腰にぴたりと付けた格好で走ったものです。「電車ごっこ」のようで他のクラスの者には怪訝な顔をされましたが、こうして私たちは集団で走る際の、教練や旧軍隊の正しい走りかたを、戦後でありながらしっかりと身に付けたものです。

この先生は男女の席を左右に振り分け、さらに成績順に前から並べる形をついに変えることがありませんでした。このことに父兄が異を唱える時代でもなかったのですね。五年生の学芸会では勧進帳の「安宅の関」を念入りに作り上げ上演しました。義経、弁慶、富樫を演じる子供らを引率して歌舞伎座の舞台を見に行く念の入れようでした。子供の勧進帳ということで評判になり、早稲田の大隈講堂で再演するというおまけまで付いて、教師は得意満面でした。でも関守と山伏姿の義経一行だけが登場するこの舞台に、女子は出ていません。五年生の二学期をまるまる費したこの芝居づくりの期間、女子はいったい何をしていたのだったか、私は憶えていません。

いつまでも時流になじめず、信ずる道を進もうとすれば、反時代的な姿勢をとることになったのだと思います。受け持ちの教室内ではそれが許されたということでしょう。私はこの先生を通して、すぐ前の時代の人の考えを突き動かしていた情熱、大人の男にしか通用しない正義感のようなものを体感したと思っています。

卒業時のクラス文集の巻頭に、この先生は「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と大書して、はなむけの言葉としました。掛けことばという語は知らないながら、「仇桜」のあたりが陳腐だなと思いました。中学生になる頃には、もう生意気盛りだったのですね。

小学四年生の頃の、学校からの帰宅時の体験は忘れられません。便意がないのに尻がムズムズするのです。坂の途中で立ち止まって脚を開いたまま、どのくらい固まっていましたか、歩きかけるとスボンの裾から大きな白いミミズがポロリと這い出てきたのです。ミミズではないとすぐにわかりました。縁日で虫下しを売るオヤジが、黄ばんだ新聞記事の切り抜きを入れた額を掲げて、回虫の恐ろしさを語っているのを飽かず見ていたからです。回虫は一匹住みつくと身体中に卵を生みつけて増え続ける。頭の中まで回虫が詰まった男の子が、父親にキセルで叩かれたものだから、ほれ、ショックで死んじまった。それが、この写真だよ。記事の隣には回虫のカラー写真まで添えられていました。わが身に回虫が住みついていたことを、その日母親に報告したかどうか憶えていませんが、その後しばらく、人に頭を叩かれることを秘かに恐れていたものです。

当時は護国寺と講談社と鳩山邸だけが目立つ建物でした。この音羽を少し前に歩いてみました。幼女殺人事件の報道で、今の音羽のマンション群が連日テレビに映されたあとです。二つの台町に挟まれた道の両側に14階に揃えられたマンションが並び立ち、両側の傾斜がなくなってしまっていました。視野狭窄という病の進行を実感させる風景です。かつての遊び場は高速道路の下の薄暗い裏道になっていて、休日の午後なのに子供の姿を見かけません。この裏道に並ぶ家々の中に、建て替わってはいましたがかつての遊び友達の家の表札を一つ見つけました。昔はこの家の戸障子を開けると、鉢巻きをした小母さんがいつもこちらを向いて封筒貼りの内職をしていたものでした。私に話しかける時も決して手を休めることなく。

坂を登り、かつて黒い蝶を見かけた林のあたりを確かめようとしましたが、見当りません。独協学園がふやした校舎の連なりの中に姿を消してしまっています。ああ、これで、あの夏の日の蝶は、私の中の全き幻となり了せたのだという気がしました。

イタミ万策
 
 
 
 
返信 IWASAKI

 

あの暑い夏からもう一年が経ってしまったのかと、つくづく感じ入っています。老いた母はわかりやすく「日薬(ひぐすり)」という言葉を使いますが、記憶のなかからその毒気の部分が抜けていくには、やはり時間が必要だったのだと思います。

親の死という初めての経験で知ったのは、人があの世へと旅立つ際のリアルなさまと、日を追うごとに受け入れやすい形に収斂していく故人の輪郭でした。わずか一年ほどで懐かしく思い起こすことのできる存在となった父が、もし生き返ってきたらどうなるのだろうと考えることがあります。また口げんかばかりの日々をやり直すのだとしたら……それもちょっと困るのですが。

「もう一度戦争になればいい。」小声でしたが、子どもたちの前で幾度かそう口にしたことのある若い頃の父でした。格別の“愛国青年”だったわけではありません。従軍はしましたが、流れ弾を脚に受け早く除隊したので、戦闘の経験もあまり多くはなさそうです。ですから、その無体な言葉にもおぞましい響きはないのです。

本人は、戦地である中国大陸に漂っていた気配や緊張感といったものを思い出しているようでした。軍隊生活の大半は満州から南京に向けてひたすら行軍していました。特殊な環境のもとで過ごした青春の一時期を思い出しては感傷にひたっていただけだったのかもしれません。「規律」という言葉が好きなわりには、自分を律するのがそれほど上手でもなかった。そうした個人のなかの落差については、わたしも理解できる年齢になりました。

イタミさんとわたしとでは、ひとまわりほどの年の差があるのではないでしょうか。初めてお会いしたのは二十年くらい前だったと思います。某社編集部の次長さんと、どこにでもいるような風来坊との関係でした。ですが、その頃すでに、わたしたちにはどこか共通した生活感覚のようなものがあるのではないかと感じていたのです。

「子供の頃の貧乏くらべでもするか。」とはイタミさんの後輩で、同じく某社に勤務していたkさんが酔うと口にする言葉です。イタミさんとkさんの年齢差が数歳、そしてそのさらに数年下にわたしがいます。終戦を起点にして国民の生活水準が向上し、均質化していったなかで、わたしたちは似たような“時代の雰囲気”を味わってきたのではないでしょうか。

もっともこれについては、最大で約12年という時間差があるわけですが、戦後の復興が瓦礫と焼け野原の東京を中心に展開し、その経済効果が徐々に地方に及んだとすれば、東京生まれのイタミさんやkさんと、隣県の小さな町に生まれたわたしとの実質的な時間差はもう少し短縮されると思います。実際、わたしの生まれる前年に公開された小津安二郎監督の『東京物語』(1953)などを観ると、そこに登場する下町の景観や暮らしぶりでさえ、わたしの幼年期の記憶に残る近隣のそれと比べて“そこそこ優雅”なのです。

――ちなみに、わたしの小学生時代に『勧進帳』を上演しようという教師はいませんでした。あの「安宅の関」の場面はイタミさんが疎開先から戻られる三年前、終戦の年に黒澤明によって『虎の尾を踏む男達』(1945年完成)という題名で映画化されています。「弁慶」を演じた大河内傳次郎や原作にはない「強力(ごうりき)」役のエノケンがとくに魅力的なもので、主君への忠誠を描いたこの映画は封建的な思想を標榜するものとの理由で公開が延期されました。実際の公開は7年後の1952年4月、つまりイタミさんが二学期にこの芝居の稽古をされた年の春のことでした。軍隊帰りの担任がこの映画に触発されたであろうことは想像に難くありません。さぞや“我が意を得たりっ!”だったことでしょうね。

もし、さして広くもない日本家屋のひと部屋に“ちゃぶ台”のひとつがあったら、それを丁寧に折り畳んで、夜はそこに布団を敷いて皆で寝る。そうした日々のいとなみのなかでわたしたちが学んできたことがあったのではないかと、その昔を思い出します。ささやかではあるけれど、しかし親密で、しかも何かしらの威厳をもった物たちに囲まれて暮していれば、こちら人間としても居住いを正さざるをえなかったのではないでしょうか。それが当たり前だった時代に思いを馳せるのです。

江戸川橋と神田川のあたりは、わたしにとってもまた懐かしい土地です。今から二十年前のバブル期、神楽坂にいたわたしには近場の心安らぐ場所でした。江戸川公園のベンチで寝転がり、鉛色の泥が堆積した川をのんびりと泳ぐ鯉たちに見とれて、それから関口の芭蕉庵わきの胸突坂を登ったり下ったりしました。散歩帰りに立ち寄っては惣菜を買い求めた「地蔵通り商店街」が、じつはイタミさんが青春時代を過ごされた「地蔵横丁」だったというのも何かのご縁なのでしょう。

土地の記憶は匂いや音とも結びつくようで、神楽坂での暮しを思い出すとき、あの神田川の匂いと、夕刻にいつもどこかで鳴っていた寂し気なチャイムの音が蘇ってきます。そして不思議なことに、浅草に移ってからも全く同じチャイムが夕方五時に流れるのです――もしかして、東京二十三区にはそんな決まりでもあるのでしょうか?

五時のチャイムに誘われて、連日のように神楽坂時代の記憶を反芻していた時期がありました。言問通りの西の奥に沈む夕日を眺めながら、あの頃の開放感と漠然とした不安感とをくり返し味わい続けたのです。懐かしいのは結構なのですが、これが半ば強制的に、しかも毎日となるとくたびれます。そこで、この反応は無意識のうちに修正されました。現在、五時のチャイムとともに漂うのは、イメージの欠落した単なる甘酸っぱいムードだけです。思い出もまた風化するのですね。

さて、この一年をかけて実家のこともおよその整理がつき、ようやく自由な時間がとれるようになりました。ところがいざ内心に隙間ができると、その空白に過ぎ去った一年間の出来事が次々と浮かんできます。記憶の断片には胸を突くようなものもあります。

ぼんやりするより何かしていた方がラクかなと、この機会に念願だったある素材の扱い方を勉強しています。独学では困難だと知り、行きつけの画材屋さんに相談したところ、そこで働く青年がこの分野に詳しいのです。聞けば、専攻は違いますが同門の二十年下でした。誠実と自負の薫り立つような後輩に助けられて一ヶ月ほど過ぎたところですが、その彼も自身の制作に専念するために先日退社しました。今では売り場を任された可憐なお嬢さんが協力してくれています。

前を見ながら少しだけ後戻りもしてみる。現在と過去とが重なるグレー・ゾーンへの行ったり来たりをくり返しながら、わたしもまたこうして“おじさん道”をたどっているのだなと、ようやく気がついた昨今です。

(イワサキ)
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