IWASAKI

 

丈の長いグラスに金色の波が揺れていました。今年の春先でしたね、浅草橋のガード下でホッピーの“正しい飲み方”を教えていただいたのは。琥珀色の、あの液体を焼酎で割る際の最も美的で経済的な配分の仕方です。たそがれどきに、そのたそがれを胃袋に流し込むようでもあり、身体のなかまで夕暮れ色に染まる心地でした。

黄金色に光り輝くものはすべて、暗く、深く沈んだものとの対比でその彩りを増すようです。金色から茜色へとうつろい、やがて暮れてゆく空の色も、背後に迫った闇の予感のなかでわたしたちの胸を打つのかもしれません。

「金色」というと、どうしても連想してしまうのです。黄金色の光背を担いだホトケさんや金地の板切れの上に配置された聖人の姿といったものを。唯物論者というわけでもないのに、その連想から逃れようと長いあいだこの色を避け続けてきたようでした。惹かれてはいても自分の理屈に合わないから閉め出すという、わたしのなかの「整合性」とやらもずいぶんと野暮ったいものです。

少年の日に友と訪れた中尊寺の金色堂を思い出しました。近代建築の覆いでつくりだされた人工の薄闇とそこに浮び上がった黄金の柱や荘厳具。あのとき眺めていたのが、じつは「金」や「真鍮」という物質ではなく、光そのものだったのだということを今さらながらに気づかされるのです。わたし自身もまた今、たそがれの入り口に立ってしまったからなのでしょうか。

この夏はさまざまな金属の薄片ばかりをいじっていました。薬品と反応させたり水をかけたりしながら、朝から晩まで光沢を帯びたその表面の変化を追いつつ……。ひと夏をこれで使い切ってしまったほどですから、わたしなど本能に従ってしまえば単純なものです。ほとんど“野犬”に近い状態でした、それもおそらく光に飢えた。

“いぶし銀”とは、単に煙にかざしただけの銀のことだと思っていたのです。ところが違いました。古くから行われてきた方法としては、火のなかに硫黄を入れ、そこから出る硫化水素と銀とを反応させるというのがあります。燻された銀の表面は硫化銀の灰色からやがて深い黒色にまで変わってゆき、それを磨き込むなどしたものを“いぶし銀”と呼ぶようです。

しかし、これを実行するには少々の覚悟が要ります。ひとつは強烈な硫黄臭に耐えること。温泉場のあの臭いを思い出せばいいわけですが、大都会のまん中でこれをしたら、当節はやりの「異臭騒ぎ」に発展する可能性さえあります。何よりもまず材料の硫黄を入手する必要がありまして、なんとか硫黄を置く薬局を見つけたまではよかったのです。でも、店先で何度も使用目的を尋ねられたあげく、「常温では発火しないが、衝撃は避けなければならない。花火を扱うつもりで。その気なら爆弾も作れるのだから‥‥」などとさんざん脅かされてしまいました。それでちょっとヘコみながらも、火を使わない方法や別の薬剤を試していたのです。いまひとつ思うような効果が得られないなかで、ささやかな発見がありました。

銀の表面にあるものを塗布すると硫化反応で徐々に黒変します(硫化ガスは大気中にもわずかに含まれるので、同じ反応は日常的に起きています)。銀色から黒へ移行するその過程で思いがけない色味が出現したのです。最終的な“いぶし銀”からすれば、そこに浮び上がった黄から褐色へのグラデーションは想像を越えるものでした。そして、そこで反応を停止させると、銀は自らの輝きの力で(部分的にではありますが)「金色」に変るのです。放置すればいずれ大気中のガスで変色しますから、これがうつろいゆく過程での仮の姿であることは間違いありません。いわば“偽りの金”なわけですが、しかし、見え方としてはまさしく「金」なのです。

うつろいゆく金色のなかには、たとえば最初から金色をした「真鍮(黄銅)」という金属もあります。銅と亜鉛の合金なのでこれもまた錆びます。人から人の手へと受け渡されてゆく五円玉ならきわめてゆっくりと、そして塩水を塗った無垢の洋箔はたった一晩で鮮やかなエメラルド・グリーンの錆(緑青)を吹き出します。

ホンモノの金は空気中では錆びませんし、酸におかされることもありません。そこに不変(普遍)の価値を見つけて珍重してきたのが人間の歴史ということになりそうです。一歩でもそれに近づきたい、そう考えた者が金色に変化した銀を見たとき、あるいは「金は作り出せる」と思い込んだかもしれません。かつてそうした無謀な試みをくり返した人たちのことを「錬金術師」と呼びました。彼らの直接の目的は金をつくり出すことにあったわけですが、根っこのところには、人間にとって最も神聖な領域にまで踏み込もうとする強い意志があったかに思えます。その野望はかたちをかえて今でもわたしたちのなかに潜んでいるようですね。やや淋しげではありますが、個人のレベルでは永遠というものについて抱く“せつない思い”くらいのものでしょうか。

うつろいゆく過程のなかにも「金」は潜んでいるのではないかと考えるようになりました。等級づけでいうと金の次に置かれた銀ではあるけれど、ある瞬間には同じ輝きを帯びることがある。そしてそのふたつの輝きは等価ではないのかと。ちょっと大げさになりますが“永遠はどこにでも見い出すことができる”と、そんなふうにも思い始めているのです。一方で、ホンモノの金は依然として不滅の存在であり続けるのでしょう。ただし、それと対面するわたしたちの方がすでにうつろいゆく存在でした。いずれにしても黄金色に光り輝くその前を通り過ぎるだけのわたしたちなのかもしれません。どこで「永遠」と交わるのか、なのでしょうね。

長らく浅草に住んでみて気がついたことがあるのです。この街はたそがれている、いや、もしかしてすでに日はとっぷりと暮れて闇のなかにあるのではないかということです。

江戸期の地図を見て、わたしの住む老朽ビルが小さなお寺の跡地に建つことを知りました。南の窓から隣の敷地を見下ろすと、そこには別の小さな寺が、これは幸いに当時の名前のままで残っています。はるか昔のこと、浅草寺の西側から上野方面にかけての一帯にはお上の号令でさまざまな宗派の寺院が集められていました。「新寺町」と呼ばれたその広大な霊場のうえを、今では車が走り抜け、素知らぬふりのビルや集合住宅が覆います。窓から眺めるいくつもの壁面は陽の光を浴びてまばゆいようでありながら、しかしまた、どことなく沈んだ色にも映るのです。

あるいはオーラとでも呼ぶべきものでしょうか。このあたりには黄金色に輝いていた往時の幻影が放つ“たたずまい”が漂っています。わたしには、「懐古趣味」・「反近代」等々の言葉を並べて自己断罪するつもりはないのです。それがわたしのなかのある部分を支えていることもたしかなわけですから。

イワサキ
 
 
 
 
返信 AKADOU SUSUNOSUKE

 

錬金術の話、興味深く読みました。金に縁の薄い者として、黄金(こがね)の美しさに取りつかれることはほとんどないものの、季節は秋、満開の金木犀が香り立ち、木の葉がそろそろ黄ばみはじめているのを眺めていると、天然こそ、それこそ自然の錬金術師であることを納得させられます。

昔失意のころ(いまも似たようなものですが)、かのタマちゃんも訪れたことのある鶴見川の土手で、変容する荘厳の夕焼けに圧倒されたことを思い出します。空もまたまごうことなき錬金術師であったに相違ありません。西方浄土が、浄土という語にもかかわらずおそらくきわめてきらびやかなのは、黄金の仏さんが大勢いるからかもしれないな、と思ったものでした。でもなぜ歳時記では夕焼けを夏に組み入れているのでしょう。絶対に秋でなければならないと思いませんか。稔った稲穂やたわわな柿と照り映える時もっとも絵になるはずの夕焼けは……。

子どものころ、何色が好きなのと母親にきかれて、紫と答えたのを憶えています。口には出しませんでしたが、変な子だね、と内心気になったに違いありません。紫色が何を象徴するのか知りませんが、たしかに健全ではつらつとした感触は与えなかったでしょう。おそらくそれは、小さな庭の一角に毎年咲いていたアジサイのためであり、それをじっと眺めているのが好きでしたから、そのせいだったかもしれない、と後年気づいたことでした。しかしいま、この書簡をしたためるにあたって、新宿御苑のベンチでさらに深く考究した結果によれば、それはむしろ島倉千代子の「りんどう峠」の刷り込みではなかったろうか。「りんりんりんどうは濃紫、あねさの小袖も濃紫……」とうたわれたあの唄が、「この世の花」や「からたち日記」や「東京だよおっ母さん」などの佳品にもましてぼくは好きだったのではないか。

紫が好きだったからあの唄が気に入っていたのではなく、あの唄が頭にあったがゆえに母にきかれて思わず紫と答えてしまったような気がするのは、ぼくは歌謡曲はたくさん憶えていましたが、色彩に心動かされたという経験にきわめてとぼしいからです。色彩に対する感覚が未熟なまま成人してしまったのでしょう。ピンクのシャツを赤と言って人に笑われたこともあります(いま、頭上をモズがキチキチ笑いながら飛んでいきました)。ベージュとかアイボリーとかいった色は、結婚して女房に教わるまでまったく意識したことのないものでした。前者はぼくにとっては茶色の範疇に属するものであり後者は疑いようもなく白だったのです。色に対する興味を持てないまま、色よりも形に、形よりも意味に腐心してきた半生であったことを改めて認識します。

少し冷えてきたのと、藪蚊に刺されてかゆくなったのとで、御苑の中を少し移動しました。池の端で写生をしている人が何人かいます。のぞくと案の定、みんなそびえ立つドコモのタワーを描いていました。これまで日本になかった尖塔が御苑の翠樹にマッチしてかつてない作品が出来上がるだろうと、思い思いに期しているに違いありません。見ていてふと、地区の展覧会にぼくの絵が出されてびっくりしたことを思い出しました。中学一年の時です。学校の近隣の家を写生したものですが、授業時間中に完成せず家に持ち帰って続きを描いたものの、その家がどんな色だったか忘れてしまい、ままよと右半分を真っ黄色に塗りつぶしたのでした。それを教師が前衛性と勘違いして過大な評価をし、勝手に展覧会に出品してしまったのです。あるいはその若い女教師は黄色に幻惑されて、少年の内面に大きな光の鼓動を看て取ったのでしょうか。

以前貴兄に、光と闇とどちらが速いかという問題を出したことがありました。小生の用意した解答は闇なのでしたが、そしてその理由は貴兄も即座に了解されたのでしたけれども、昨今新たに、さらに速いものを発見したのです。それは〈無〉です。ヒカリ、ヤミ、ム……。一目瞭然のことになぜ当時気づかなかったのか、不明を羞じます。

〈無〉こそが究極のスピードを有するというのは、〈無〉が時空を超越しているからにほかなりません。ですから同じフィールドの競走としてはルール違反なのですが、アインシュタインが光を一番にしてしまって以来、どうも窮屈になってしまった感があります。そこで〈無〉というメディアを導入してみると、これはまたなんと自在な乗物であることよと、改めて気づかされるのです。なにしろ時空を超越しているのですから、時空の果てまで瞬時に移動することができるのでした。何万光年離れていようと、そこに生えている樹木とリアルタイムで交信できるのです。電波や光ファイバーよりすごいことは疑いようもありません。

そこで何万光年も離れた樹木から生きる智恵を学ぼうとぼくは考えました。しかしそのためには何よりもまず、〈無〉というメディアを使いこなせなければなりませんが、理論は構築されたにせよ方法がどうしても見つからないのです。しかたなくぼくは実践を積み重ねるしかないと思い、とりあえず散歩のたびに「からっぽ、からっぽ」と念ずることを始めました。心をからっぽにしなければ〈無〉というものは使いこなせないと考えたからです。修行のようなそうでないような半端な実践でしたが。

そしてあれは去年のことでしたろうか、それとも今年の春でしたろうか、突然あらゆる色が、空や樹木や岡や家やのあらゆる色がダイレクトに飛び込んできたのです。色の曼陀羅がそのままにからっぽの心を満たしたのでした。その曼陀羅のうちのひときわ透き通った翠が、ぼくに生命の力を指し示してくれたことはおのずと理解されました。それが何万光年も離れた彼の樹木の啓示ではないと、誰が言えましょう。否定できる証拠はどこにもないのです。そしてその時、ぼくは生まれて初めて色彩というものに目ざめたのであり、そのことはこれまでの色彩感の貧しさを貴兄に揶揄されつつ、ホッピーの正しい飲み方を伝授しながらぽつりと語ったことなのでしたが……。

5年間いた横浜の仕事場を引き払いました。運送屋が運び去ったあとの部屋を見渡しながら、久しぶりに「からっぽ、からっぽ」と唱えたことでした。

赤胴煤之助
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