| SEIKATSUSHUMIJIN |
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おやおや、私の組み立てた自転車で貴君にはとんだ思いをさせていたのですね。あれは卒業生達の残して行った古自転車を改造して作った内の一つで、私も同様のものを何台か持っていて当時は授業をさぼってはそれらに乗って町を徘徊したものでした。同じ美術部には所属してもクラスの違った貴君とは一緒に授業をぬけだしたことはなかったっけね? 私達の通った学校は蔵づくりの商家でも有名な古い街並みの残る埼玉県川越市にあって、絵になりそうな場所を見つけるには事欠きませんでしたね。私はこの街の辻々に残る時代がかった佇まいや、フッと時間の止まったような気持ちにさせるところがとても好きでした。駅からはちょっと離れていた学校への道も、時にはルートを変えてみたりして未発見の道や路地裏との出合いがあって少しも苦にならなかったものです。 前回は私が石を拾う夢ばかり見続けていた事を話しましたよね。実は学生の頃頻繁に見た夢はと云うと、これが家や街の夢だったんですよ。毎回どこか知らない街に住むことになる夢なのです。それがなぜかいつも古家ばかりで。夢とは云え妙にリアルなディテールでそれを体験しました。使い込まれた艶のある畳や、日なたの古い木の窓枠のにおい。そんなリアリティある一部屋ひとへやを見つつ、これからここでどうやって暮らしてゆこうかという不安と興奮でドキドキしたりしてね。 ところで上の街角の話と家の夢の話だけど、きっとどこかでつながっているんだよね。今思い出したんだけどどこかの建築史家が言っていた。人間は建物や街並みで自分を確認しているのではないかと。で、夢の中で一番安定しているのは建物と街並みだとも。 たぶんあれは少年だった自分が自身と向き合いはじめる通過地点での現象だったのではないだろうかと今思う。自分が生き続けているんだと云う事、そして人生の主体もまた自身であるんだと気付くために。幾度も朽ちかけた街角に佇み、眠っては記憶の中の家々を訪ねる。そうやって無意識のうちに時の記憶を追想していたのだろう。 そう云えばその頃、大阪万博の翌年あたりだったかルネマグリット展が国立近代美術館であって、その時最も印象に残ったのが「望郷」という題の小品だったんだよね。前回の「石遊び」の話にもかぶるけど、どうやら私はその頃から自分の帰るべき場所としての原風景探しに取りつかれているのかもしれないね。 一方、学生時代の貴君はと云うと、そんなセンチな所はまるで見せなかった。質実剛健、勉学一筋の校風にあって、貴君はある日突然坊主頭になったかと思うとピンクのシャツにピンクのジーンズのいでたちでやってきた。そんなアバンギャルドで反抗的な態度はその集団に在って極めて異彩だった。 そして学園祭ではどこからみつけてきたのだか巨大な鳥かごのような形をした鉄製の檻を校庭に運び込んで、君はその中に自ら「閉ざされて」通りかかる人に貴君のメッセージを書き込んだ何かを配ろうとしていた。でも、その異様な雰囲気に圧されてか人々はただ遠巻きに眺めるだけだったようだったね。 あの時君が何を発信しようとしていたのか結局理解しなかった私だったけれど、貴君があえて押し出そうとしていたそう云った強い側面よりも、実際には意外な程に率直なところが好きだったんだよね。 卒業以来、結局僕達の行く道が交わる事は無かったし、付き合いと云っても年に一度の賀状の片隅に書いた一行のコメントだけがコンタクトの全てだった。でもその短い一文にはいつも真摯なまなざしと心地よい余韻が含まれていて、それだけのことなのに貴君は私の中でいつしか単に遠い過去の友人という位置付けとは別の扱いを受けていたわけだ。 それにしてもあのピンクずくめの男が30年を経てどういう経緯で浅草のおやじになったのだろう。ここに披露される皆さんの書簡からその辺りの経緯が垣間見られるのではないかと、じつは密かに期待しているのだけれどもね。 ところで覚えているかな。美術部の部室で次の授業の体操着に着替えている貴君に、もうクラスの仲間は郊外の沼の方にマラソンして行ってしまったぞと騙し、私の自転車に乗せて追い付いてあげようと申し出た事を。貴君は私の自転車の後ろに乗って「恩にきるぜ」としきりに言ってくれたっけ。でもマラソンの件は真っ赤な嘘で、貴君を後ろに乗せ、ぐるっとひとまわりしてグラウンドを見下ろす土手までやってきて、すでに整列しているクラスメイト達を指して種明かしした。貴君はS教諭にこっぴどく怒られてしまったね。 こんなに古い友人なのに、私との記憶がブレーキのない自転車で危ない目に合ったり、担がれて怒られる羽目に合ったという事だけだったとしたら余りにも悲しいので、どうかこれらについてはこれを機会に忘れて欲しいものだと願うばかりなのだが‥‥‥
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| 返信 IWASAKI |
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わりと最近のことだけど『ウォーターボーイズ』という映画があったよね。男子高校生がシンクロナイズド・スイミングをやる話さ。あれはオレたちの学校がモデルだからね。当時あれはまだなかったけれど、比較的自由な雰囲気の学校だったと思う。真面目ふうな生徒が多かったし、学校側も生徒を信頼しているというのか、放っておいても妙なことはしないだろうと高を括っていた感じがあった。だから、このオレはたしかに異端児だったろうね。 ピンクのシャツにピンクのジーンズというのはまだ可愛いわけで、カバンは旧帝国陸軍の「雑嚢(ざつのう)」だったし、それで坊主頭に刈り上げて、通学の電車内ではサングラスまでかけていた。本当に無気味な高校生だった。さぞかし君にも圧迫感を与えていたことだろう。ごめん。 今だから話すけどね、じつはあの頃、オレはずっと怒っていたんだよ。何についてかというと、少し長くなるけど、まあ聞いておくれ。 三年生の時だった。クラスにひとりだけ登校してこない奴がいたのさ。今どきの不登校とはちょっと違っていて、彼は学生運動をしていたんだね。そういう理由もあるのだろう、ごくたまに彼が学校に出てきても、同級生たちは相手にしないんだよ。同情じゃなくて、引かれるところがあったからその彼をつかまえて何度か話し込んでみたことがある。予想通りのいい奴さ。きゃしゃな体つきをして、はにかみ屋で、それにとても知的でね。どうしてこんな繊細な男がヘルメットなんてかぶるんだろうと、そのときは思ったよ。 時代からすれば全国に広がった学園紛争も収まりかけて、その残り火がいくつかの高校に燃え移ったころだった。うちの高校にもそれらしきものが起きたよね。「校則」だったかな、それを変えてくれというやつだ。たしかはじめは生徒会と有志が連携していた。学校側はこういうときの得意の戦術で話を聞くふりだけはする。なるべく穏便に済まそうという魂胆は生徒からみてもよくわかったし、それに焦れた一部が行動を起こしたんだな。 校長室を占拠して「ハンガーストライキ」だ。ストライキといってもおとなしいものさ。話を聞いてくれるまでは何も食べないというのに、それを「お腹がすいたろう?」とカツ丼で釣ろうとした先生までいたね。カツ丼の件はすぐに全校に広まって笑い話。でも、ついでに外部にも流れてしまった。そうなると学校としても無視はできない。「それでは対話をしましょう」というのと、一部の先生による「余計なことは考えない方が得だよ」という二段構えだ。粘り強く交渉した生徒会のおかげで、なんとか校則は変ったけれどね。 ハンストを決行したのは噂によると一人か二人のはずだった。担任の先生はそれが誰なのか話さなかったけど、オレには思い当たるさ。それ以後、同級の彼は全く教室に出てこなくなり、たしか卒業することなく学校を去ったと思う。卒業式が終わってしばらくしてから葉書が届いて、「就職しました」と書いてあった。青のボールペンでね、震えるような小さい字だったよ。 部屋に閉じこもっただけで、なぜ学校に来られなくなるんだってずっと思っていた。その後、自分自身が教師をしたという経験からすれば、現実には単位や出席日数などの問題もあったとわかるけれど、留年して学校に残るという選択肢もあったわけだし、今でも考えさせられるところはある。 とにかく、その頃のオレは彼が学校に来なくなったことと引き換えのようにして校則が変り、それで学校に自由がやってきたと思い込んでいたんだね。だから例の無気味な格好で登校したんだよ。だって、新しい規則には、もう黒い学生服は着なくていいと書いてあったからね。君も私服で来ていたし、オレとしては同級生の弔い合戦のつもりもあった。 学園祭の「鉄の檻」にしてもその延長ということで、部屋にこもるのがダメなら、こっちは勝手に檻でも持ち込んでやるぞと思ったわけ。政治的な主張なんてあるわけないよ、ただそうしたかっただけ。檻は知り合いに頼んで三人がかりでトラックに載せて前の晩に運び込んだって寸法。当然ながら、無届・無許可で決行した。そこまでの気合いでやるからには、文句のある奴はかかってこいだったよ。だけどクラスメイトは何も言わないし、学校からのおとがめもなかった。あの頃は何もしないでいると窒息しそうな感じがあったし、そういう時代だったかもしれないね。 その時の、檻のなかに閉じ込められたオレの写真がある。君が撮ってくれたやつだけど、自分の後ろ姿をうつした写真を持っているオレみたいなのも珍しいだろうね。何を考えているのやら、後ろ姿の自分というのも不思議な存在だ。 写真の中のオレの向こうには小さな女の子がふたり見える。可愛らしいその子たちが笑っているんだよ。その目のクールなこと。ご当人はその頃の日本にはまだ定着していなかった「パフォーマンス」というのをやっているつもりなんだけど、現実には檻の中の猿でしかなかったね。いや、繭玉のような縦長の檻だから「籠の鳥」か。でも籠の鳥ならオレだけじゃないはずさ。その檻はもっと大きくて透明なやつのなかにあったわけだから。 いま思えば、自転車の話も、マラソンのこともそうだけど、当時の君にはオレを眺めて楽しんでいたフシがある。あの若さにして、すでに一定の距離をおいてものを見るというのを体得している気配もあったから、その目で見た「他人の視線」をこっそり教えてくれようとしていたのだろうか。でも、そこにはいつもユーモアや茶目っ気が混じっていて、とても暖かなものだったよ。だからそのことは忘れない。もちろん「恩」にもきるさ。
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