| TSUBAKI |
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お久しぶりです。いかがお過ごしですか? 最近、和太鼓がちょっとしたブームのようですね。 それでも、太鼓というのは気持ちがいいですね。 息子の方も、念願叶って小学校の表現発表会で太鼓の打ち手に選ばれ、毎日張り切って練習しています。 さて、私は職業柄いろいろな本を読みますが、二度三度と読み返す本というのは意外と少ないものです。 『仰臥漫録』は、ほぼ同時期に書かれた『墨汁一滴』『病床六尺』とともに病床日録の三部作ともいえる随筆ですが、他の二つが新聞『日本』に掲載され、公表を前提として書かれたものだったのに対し、『仰臥漫録』だけは公表を考えない日記のようなものです。 子規自身、あまりの面白さに行く行くは俳誌『ホトトギス』に掲載したいと考えていた高浜虚子に対し、『仰臥漫録』は何もかも書き記しているものだから、誌上に公表するなどと言われると今後は筆が渋って書くことができないと言っています。 また、河東碧梧桐の回想によると、『墨汁一滴』も『病床六尺』も多くの部分が口述筆記によるものですが、『仰臥漫録』はいかなる場合でも他人の筆を交えず、子規自筆で終始したようです。 それだけに題材も多方面に及び、子規の思いが赤裸々に綴られています。 たとえば、第1日目である明治34年9月2日の書き出しは、「雨 蒸暑し 庭前の景は棚に取付てぶら下がりたるもの 夕顔二、三本瓢二、三本糸瓜四、五本夕顔とも瓢ともつかぬ巾着型の者四つ五つ 女郎花真盛鶏頭尺より尺四、五寸のもの二十本許」。何気ないけれど、目に浮かぶような書きぶりです。その後に「夕顔の実をふくべとは昔かな」で始まる句群があり、「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干砂糖つけ 昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮 夕 奈良茶飯四碗、なまり節煮て少し生にても 茄子一皿」というように食事の献立、さらに「二時過牛乳一合ココア交て 煎餅菓子パンなど十個ばかり 昼飯後梨二つ 夕飯後梨一つ」と間食にまで筆が及びます。 当時、子規は35歳。結核に冒され生存自体が奇跡、しかも脊椎カリエスにより自力では寝返りも打てず、まさに「仰臥」の状態であるにもかかわらず、その食欲は凄まじいものです。 ある時には焼鰯を一度に十八尾平らげ、またある時には当時はまだ珍しいライスカレーを三碗平らげます。好物の刺身はほぼ毎日食べ、その他、周囲の人々からの手土産や国内各地の名産品や名物料理などももたらされ、その種類の多さと食欲の凄まじさには驚嘆してしまいます。 ですから、時折「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」とか「大食のためにや例の左下腹痛くてたまらず 暫にして屁出で筋ゆるむ」というような記述もあります。それでもまた、翌日も翌々日も、まるで餓鬼のように食べ続けるのです。 健康であったころも相当の大食漢で、鍋焼饂飩を十杯食べるとか十二杯食べるとかは度々のことであったようですが、生きていること自体が奇跡というような状態でのこの食べっぷりには、一種の執念や気迫のようなものを感じます。 はじめて読んだとき、いったいこれは何なのだと思いました。 いくら病床で食べることが数少ない楽しみの一つだとしても、激痛に苦しみ、いつも死と隣り合わせのような状態で、「うまい」とか「うまくない」とか言いながら、どうしてこれほどまでに食べることに執着するのか。 でも、読み進めるにつれて、少しずつ子規の気持ちが分かってきたような気がします。 『仰臥漫録』を読むとき、苦痛に呻き、いつ死が訪れても不思議ではない肉体に宿る子規の強靱な精神力に、私はひたすら感服してしまいます。 『仰臥漫録』は読むたびに発見があり、新しい驚きがあります。そして、読むほどに惹かれるのは、何の作為も屈託もなく、子どものように正直な等身大の子規がそこにいるからだと思います。 また、子規の業績で忘れてはならないのが「写生文」です。 そして、『仰臥漫録』の所々に描かれた水彩画がとても素敵です。 『仰臥漫録』には、語り尽くせないほどの面白さと魅力があります。 庭先の蜜柑がいつの間にか色づいています。 以前は、時期が来ると生った実を採って樽柿や梅干などを作っていました。 露時雨生りたるものは生るままに 椿 子規ならきっと絵に描くことと思います。 では、また。
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| 返信 IWASAKI |
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他人の日記をこっそり読む愉しさは、そこに秘められた書き手の内実からくるのでしょうね。こちらにはそれを邪推する喜びがあって、ときには感動にまで昇りつめてしまいます。山路をたどる山頭火なら天然の飲料水と酒ですし、仰臥する子規には魚類、粥、菓子、果物、その他ということになるわけで、飲む、食う、といった生きることの根幹に関わる嗜好の不思議には皆が関心をもちます。わたしの食生活を書いてみてもしょうがないわけですが、今年は数年来の体調不良を改善すべく減量に励みました。9ヶ月で12キロのダイエットに成功。いっそこのまま“かりそめの若さ”でも楽しんでしまおうかなと。 『仰臥漫録』は創作者の秘密を「食と住」の側から眺めることのできる恰好のテキストであるかもしれません。「食」については詳しく書かれています。でも、「住」の方がいまひとつわかりにくいのです。ご存知のように、子規が35歳の若さで亡くなるまでの10年近くを過ごした「子規庵」は台東区の根岸にあります。子規庵へは、JR鶯谷駅の北口前からのびる道をまっすぐに、言問通りの下をくぐり、豆腐料理で有名な「笹乃雪」の角を折れて少し行ったところの路地を入る、という道順です。 子規庵は懐かしいのです。なぜかというと、わたしはその間取りから、かつて庭にどんな草木が植えられていたかまでのすべてを知っているからです。一度も行ったことがないのにどうしてかというと、その昔、ある書籍の仕事で子規庵の詳細な平面図をつくったことがあるのです(余談ですが、その本ではレイアウトも担当したので、あのお馴染みの子規の横向きの写真もトリミングしました)。俳句のことなどろくに知らないくせに「懐かしい」とは図々しいのですが、『仰臥漫録』のなかに見る子規の絵には大いに関心があります。素晴らしいのです。それが描かれた家のなかを覗いてみたいということです。知っているということと、実際にそこに立つ経験とは別のことでもあるでしょうし。 現在の子規庵は空襲で焼けたものを昭和25年に寒川鼠骨等が復元したもので、焼け残った柱材の一部なども利用して建てられました。子規の住んだ二軒長屋のうち該当する西側だけを再生した小さな家です。室内には簡単な映像と説明の流れるモニター、参考資料を展示するコーナーなどあるものの、この俳人を偲ぶための演出はほどよく抑えられています。壁や内装も充分に年月を経ているので、おそらく当時の気配に近いものを再現しているでしょう。 子規庵のつくりは簡単です。靴ヌギをあがったところが二畳の玄関で、その右の三畳は母の部屋(現在は記念図書の見本が並べられています)、左の四畳半が妹・律の部屋(保存会の受付)です。その奥の右に句会が行われた八畳、そして左の六畳が子規の寝ていた病室という間取りになります。ほかには押し入れや縁側などありますが、これはどこにでもあるようなスタイルです。それだけなのです。奥の二部屋が庭に面した日当たりの良い南側にあって、そのあたりが微妙に「子規庵」なのかもしれません。 どう見てもただの古い民家としか思えないような子規庵のなかに入って、突然懐かしさが込みあげてしまいました。あまりにも狭いのです。懐かしく、そして心地良い狭さ。その心地よさは記憶の彼方にある、あけっぴろげで小さな日本家屋の親密さからきているわけですが、もうひとつには、わたし自身も子規と同じように長屋暮らしをしたことがあるからでした。 主に好奇心から(家賃の安さもありました)、給料生活をしていたころの最後の三年間は“超”のつくほど老朽化した二軒長屋の片側に住んでいたのです。土壁が遠慮なく崩れてくるような家でありながら、狭いがゆえの使い勝手のよさがあり、襖を開ければすべての場所に目の届く安心感がありました。そして、その気になればいつでも放浪の旅に出られるような気楽さまでも。ちなみに、わたしの住処は子規庵よりもさらに狭く、屋根裏にはコウモリの巣があるため、教え子たちには「コウモリ館」と呼ばれていました。 わたしは、漱石や虚子など多くの作家、俳人、画家たちがこの畳の上のどのあたりに座ったのだろうか、といったことにはあまり関心がないのです。むしろひとりの病人であり、表現者であった子規の視線はこの空間をどんなふうに泳いだのかということです。六畳の病室ですが、そこからは当時は貴重だったという、虚子から贈られたガラス戸越しに庭を眺めることができます。季節、天候に関わりなく家のなかから外が見られるという、今ではごく当たり前の条件が病床の子規を慰めたでしょう。無論のこと、創作に与えた影響もおおきかったと思います。 病室のガラス戸に向けて大きな座机(レプリカ)が置いてありました。根岸の指物師につくらせたものだそうで、左足を伸して座ることのできなかった子規のためにその部分に四角い切れ込みがつけてあります。まだ起き上がることのできたころには、そこへ立て膝にした片方の足を入れて書き物をしていたようです。体にフィットする家具は快適だったでしょうね。 その机の手前の畳に手をついて庭を眺めました。子規の没後若干の土地が買い足されたということですし、現在では碑などもあり、当時の眺めと同じではありません。しかし、その空間の領域までが極端に変ることはないはず。空は上に向かって無限にひろがっているのですから。 長屋の庭としては不服のない広さです。それもそのはずで、長屋といっても旧前田侯の御家人のためのものでした。句会・歌会が開かれた八畳間には床の間もあります。寝返りをうつことさえできない子規でしたが、視線は庭の草木から飛び立つ蝶や雀を追って自在に駆け回っていたことでしょう。目を転じれば、床の間にはおそらく書画も掛っていたわけで、仮にそれが安価な刷り物であったとしても、東洋画独自の空間表現までが本質的に変化するわけではありません。屋外では現実の距離感をともなった空間が、そして室内には浅い奥行きをもつ床の間のさらに奥に、もうひとつの空間が出現していたはずなのです。 子規の視線が目に映るものをくまなくたどっていたことは、『仰臥漫録』のなかにある秋海棠を詠んだ三句に添えた絵を見るとわかります。絵には俳句にあわせて――あるいは俳句を絵にあわせたのでしょうか、たぶんそのどちらでもないのでしょうが――秋海棠とその手前にある手水鉢が描かれています。じつはここに描かれた場所は子規の寝ている六畳間ではなく隣の八畳の外なのです。庭に面した位置に縁側があり、その突き当たりが厠というつくりはかつての日本家屋の典型でした。そしてその手水鉢の置かれた場所は子規の寝ている六畳間から見ることのできるギリギリの角度にあるのです。おそらくは襖を開けて、床の位置もかえて眺めたはずです。子規の興味は視野の限界にまで及んでいました。 彼は眼に映るありとあらゆるものを手当たり次第に描きます。庭ならヘチマ、夕顔、ひょうたん、朝顔、女郎花、鶏頭、昆虫、鳥類。室内では人形、盆栽……なんと菓子パンまでも。色彩はあくまでも澄み渡っています。この清澄が素晴らしいのです。『仰臥漫録』を、わたしは岩波文庫で読んだのですが、絵はモノクロなので色の感じがわかりません。本は視覚効果を考え白黒のコントラストを強調して印刷されているようです。しかし、実際の絵は(といっても、こちらはカラーの複製を見ているだけですが)はるかに淡く彩色されています。しかも相当な慎重さをもって混ぜられた色が、あるいは、かなりの程度まで希釈された単色が丁寧に塗り重ねられています。そこから発生する花びらの紅さや葉の色の深さが美しいのです。嬉々として描いています。ほんとうに描くことが好きだった人の絵だとわかるのです。 この人のことを文人画家と呼ぶべきかどうか、わたしにはわかりません。西洋画の理論や実際については友人の中村不折や浅井忠に指導してもらっていたようですし、それ以前にも「臨画」のような旧来の美術教育は受けていたはずです。それが子規の絵に与えた影響はあったでしょう。また、書画一体という東洋の伝統を踏まえていたであろうことも想像できます。しかし、それだけでは子規の絵から伝わってくる活き活きとした律動の説明にはならないのです。 たとえば、朝顔の花を正面から描いた絵では花弁の凹みが描けていません。ここには“素人”の子規が顔をのぞかせます。ためらったり何度も塗り直した花びらには、うまくいかずに苛つく姿が見えるのです。一方で、「糸瓜の素描」と、それをもとにして描かれ彩色された「糸瓜の図」を見ると、この人がすぐれた素描家であり、画家であったこともわかるのです。ひとりの画家の同時期の作品のなかに落差があるのです。そのことは画家としての子規が発展途上にあったことを示していると思います。しかし、実際に子規庵のなかに入って気がついたのですが、病室前の棚からぶら下がるヘチマを描いた絵の距離感はおそろしく正確です。空間・距離感を把握する眼力はすでに完成されていました。 子規にとってさまざまなものを「写生」することは、すなわち「見つめる」ことであり、それを絵にするまでの過程が「喜び」だったように思えます。その気持ちの持続するさまがストレートにこちらへ届くし、見えるのです。描くことは食べることと同様に、子規の生きるための原動力となっていたのではないでしょうか。草木に覆われ、さまざまな空間をはらんだ子規庵にいたからこそできた仕事だと思うのです。件のヘチマですが、かつてと同じように棚から数個が下がっています。やや育ち過ぎた感のある今年のそれには、幾枚もの葉がやわらかな影を落していました。 さて、先々月でしたが、〈ミクロコスモス microcosmos〉と題された展覧会に出かけてきました。画家の大岡亜紀さんの個展です。会場で絵を観て、作家と話すひとときは楽しいものです。その楽しさを誘い出してくれたのがギャラリーのつくりでした。画廊といえば階段やエレベーターで上がり、密室に近い状況で作品と対面するのが一般的です。ところがそこは一階にあり、道路に面していてすんなりと入場できます。そのうえガラスの部分の多い建物なので外から中が見えるし、中から外も見える。この構造が絵を観る際の身構えや緊張感というのをやわらげてくれるのです。 会場には、額縁をつけない絵画と詩とが並べられ、麻紙に岩絵の具という方法で描かれた画面にはさまざまな抽象形態が置かれています。そのかたちが画面上のもう一段奥まった空間のなかで揺れ動いているように見えました。そうした作品を支えていたのが、強い発色をもち、しかしその粒子ゆえにかすかな乱反射でやわらかみを帯びることもある岩絵の具という素材でした。この展覧会を思い出すとき、なぜかガラス製の水槽を連想します。建物自体にその印象もありましたが、作品との相互関係のなかでうまれたものでしょう。透明な液体で満たされたスペースに、色と形とがゆっくり舞い降りてくるような気持ちの良さでした。後日、亜紀さんからメールが届いて、そこには、あのギャラリーは自分が志向する作品の「身の置き所」として適していたと思う、と書かれていました。 絵を描くとは、ある意味でとてつもなく非日常的な作業です。その非日常を日常とした子規の絵の「身の置き所」が子規庵でした。懐かしく心地良い二軒長屋の狭さのなかには予想以上のひろがりが潜んでいます。定規などで計測できるものではないでしょう。畳の上に両膝をついて、わたしが夢想したのは、きんと雲に乗り、孫悟空のようにあたりを翔けめぐる子規の姿という突飛なものでした。もうカリエスの痛みも、苦悩の果ての涙さえもありません。そこは小宇宙なのですから。
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