YOUYOUFUTEKIJIN

 

二十数年ぶりです。わたしの近況ということで、ここ数年関心をもっている映画について書かせてもらえればと思います。

もっとも、映画といっても、鑑賞するのは主にビデオであり、映画館ではあまり見ません。映画館で見ない理由はふたつあり、ひとつは単純に時間確保がむずかしいということです。もうひとつは、映画を一歩深く味わいたい、知りたいという欲求があり、そのためには映画の歴史を知らなければならないと思っているからです。

映画史をたどることができる場は、京橋のフィルムセンター以外には、三百人劇場などでの散発的な特集など、限られています。しかも、ほとんどは東京であり、さいたま在住者としては気軽にいけるというほどでもありません。そんなわけで、私にとっての映画の中心は、近くの図書館のビデオライブラリー(過去の名作がたくさんあります)と、NHKの衛星放送を中心とした放映の録画、それからレンタルビデオ店でのレンタル、ということになります。民放で放映される映画は、カットされているものや吹き替えが多いのであまり見ません。

なぜこんなことを書いてきたかというと、映画は映画館で見なければダメだと言う通(ツウ)の発言が耳目に触れるからです。そうするに越したことはないとわたしも思いますが、あまり声高に主張することもないのではとも考えています。と同時に、そうした発言にスノビズムを感じてちょっと気恥ずかしくなります。

ただ、よく考えてみると、表現された作品の正しい鑑賞の仕方とは何か、というのはけっこうめんどくさい問いなのかもしれません。とくに映画に関しては、本物と複製の別がなく、鑑賞の形態や場が多様であるので、一筋縄ではいきそうもありません。そして、そのことをせんさくしても、結局は労多くして効(快?)少なし、のように思えてきてしまいます。

ところで、ある高名な作家がなぜ作家になったのかを問われて、「小説を読んだから」と答えたのを目にしたことがあります。わたしは、これはすべての作品としての表現にあてはまる至言だと思っています。この意味するところは、表現とは、表現者のかけがいのない、余人のおよぶべくもない、特異な何かの、止むに止まれぬ内発的な発現などではない、ということです。別の観点から言えば、表現とは先行する表現作品のパロディだということです。ある先行作品への感動体験が、表現衝動にとって不可欠の条件です。これは、あらゆる分野の作品表現の歴史が如実に示してくれるはずです。映画についても、その歴史の流れに棹させばさすほど、このことが実感されます。

新作ハリウッド映画として流通する作品のかなりのものは、全体か部分かは別として、過去の作品のリメイクであることが、推察されます。もっとも、どこの国でも同様の状況かとは思いますが。現代の量産文化状況においては、これは致し方ないのかもしれません。ただ、感知しておかなければならないことは、リメイクとパロディは別物だということです。パロディは必ず批評性を帯びていなければならないからです。

批評性を、わたしなりに見る側から定義すれば、作品がもたらす流れ(快適さ)をさえぎったり、ずらしたり、かたまらせたり、ひっくりかえしたりすることで、見手を不安と快感がないまぜになった寄る辺ない地点にもち来たらすある種の力、ということになります。こういった意味で、わたしなどは、批評性のない作品はつまらないと感じてしまいます。

ところで、わたしの言葉でいうと「置きに行く」ように創られている映画があります。これは、映像を構成する各ショットが筋(ストーリー)をつくりだすためのたんなる要素と化してしまっていて、画面が筋に奉仕することで出来上がった作品です。もっとも、これはサスペンスだとか筋が波乱万丈の引っ張る作品だとかとは関係がありません。そうではなく、映像の現在(今)が充足していないということです。一昔前に一世を風靡した日本人の監督では、木下恵介の作品のいくつかにこのことを感じます。

では、映像の現在を充足させるものは何か。これは、変に考える癖のあるわたしにとっては、スリリングであるとともにハードな問いとして、映画を見るたびに、とくに打ちのめされてしまうような作品に出会ったときには、強くわき上がってきます。最近では、フェリーニの「カサノバ」やアラン・レネの「去年マリエンバートで」を見たときに!

おそらく、映像の現在的充足と批評性とは深く関わっているように感じられますが、これについてあれこれつたない思弁を労しても、仕方がないので深入りしません。ただひとつだけ言えることは、映画の感動を生むベースになっていると思われる映像の充足性と批評性を生みだす源泉こそが、わたしたちが才能だとか独創だとか個性だとか呼んできたものではないか、ということです。

もっとも、映画がシナリオ、カメラワーク(色彩・構図)、演技者、音楽等々の要素から成る総合的な表現である点からすると、才能といっても簡単に誰のなのかを決められない面があるので、とりあえずはすべてを統括していると考えられている監督のそれということにせざるをえません。したがって映画製作に通じていませんのではっきりしたことは言えないのですが、作品としての映画の評価は、監督に帰せられるということになります。

そんなわけで、映画にいくぶん通じてくると、見るものにとっての監督の存在というのが大きなウェイトを占めるようになります。監督のスタイル、嗜好、思想などが気になってきます。そこから、監督の作品を追いかけます。作品をたどるなかで、わたしたちは、作品を通して監督に固有の変らざるものと、それから逆に監督の変移に気づきます。さらには監督の作品に絶頂期があることなどにも。

わたしの映画体験のなかで、多くの点で対極的なのですが、共にその絶頂期に映画の限界(極限)線上で作品を創った二人の監督が、とくにわたしの思考を刺激します。小津安二郎とロベルト・ロッセリ−ニです。この二人の監督の映画をめぐって、わたしにとっての映画の素晴らしさと凄さについて語らせてもらえればと考えていたのですが、長くなりそうです。別の機会に述べさせていただければと思います。

悠悠不適人
 
 
 
 
返信 IWASAKI

 

本当にお久しぶりです。Kちゃんの橋渡しで、こうしてまたお目にかかれました。当時どんな会話をしていたのかというと、たしか芸術や政治経済について‥‥ではなかったですね。わたしが思いつきだけのとんでもない話をして、それを聞いていただくというパターンが多かったと思います。とにかく、いつも低レベルのギャグにウケていただきました。あの時間は忘れがたいものです。

それと、先日は紀要をお送りいただき、ありがとうございました。だいぶ以前のものということですが、織り上げるように考察されるのですね。いまでは教科書などの執筆もされるとか。その流れからすると、あの頃のわたしは一種のフィールドワークのサンプルということだったのでしようか。危ないところでした。下ネタなんてやらかしませんでしたよね、このわたし。

ごく最近になって、また映画を見はじめました。というのは、しばらくブランクがあったのです。

何かを身近に引き寄せていると、そのあと極端にそれを遠ざけたくなることがあるのです。音そのものを避けようとする期間が続いたこともありまして、その数年間というものは、あれほど夢中になっていた音楽も一切聴きませんでした。近頃ようやく自分のなかが健康的になってきたのだと思います。いつか聴きたくなるのではと、その昔録音しておいた音楽を流しています。それと映画も見始めました。でも、テレビは音を出しません。イヤホンを差しておいて、聞きたいところだけ聞くのです。いまどきのテレビ番組にはテロップのついたものも多いですから、それで足りてしまう場合がけっこうありますね。

音にしても映像にしても、おそらく刺激や快感が強すぎるのだと思うのです。音楽や映画にはその表現の基底に「時間軸」がありますね。三分間の音楽を味わうのには三分かかる。映画が二時間のものなら二時間見なきゃわからない。そういうことで、それと向き合っている間には自分のなかでいろいろなことが起きているようです。

映画なら、今見ている映像のほかにも、おそらく五分前の画像も頭のどこかにある。そして、そういう相互の関係が次々と追加されていくなかで作品全体を体験する。映像の展開によっては、現在進行形とは別のかたちの時間を挿入することもできる。作品のなかに時間を盛り込もうというのは、「絵画」の世界でも古くから行われてきましたが、その形式には見る者を選び、そのための努力まで強いるものが多かったようです。それでいて、デキは案外と素朴なものでした。

たとえば、絵巻物が庶民の目に触れることはありませんでしたし、挿し絵付きの聖なる物語を理解できたのはごく一部の人びとです。二十世紀初頭のイタリアで起きた急進的な芸術運動・未来派の絵画は運動を描こうとしました。しかし、その試行がわたしたちにもたらした最も身近な成果といえば、漫画家・赤塚不二夫氏によって創造されたキャラクターに見られたような運動中の足の描写――ムカデの足状の高速表現――くらいのものなのです(ちょっと言い過ぎかもしれません)。つまり、この場合「絵画」は多分に“無い物ねだり”をしていた面があるようです。

メディアの違いによるものですが、映画は時間表現の分野でそういう問題をクリアしてしまいました。複数の時相を同一の作品のなかに表現できるということは、同時に複数の空間をつくれるということでしょうから、それがコンパクトに圧縮された表現=映画を受け止めるのは、なかなかしんどいものであり、また魅惑的な作業なのだと思います。頭のなかは右から左からパンチを食らうように揺さぶられるのでしょう。映画を見終えた後で味わうことになる、あのけだるい快感はそういうところからきているのかもしれません。わたしのブランクは、映画のそうした抜きん出た部分からあえて目をそらしていたい、ということだった気がします。平面に置き換えられた時間と空間とは何なのか、という問題がわたしのなかに浮遊しています。

映画を意識しはじめたのは学生の頃でした。ですが、楽しむという感じではなかったのです。当時は自分のやっている「絵画」というものを、表現領域の可能性やその効果の点で音楽・映像と比べて、とても頼り無いものに感じていました。その裏返しで、とくに映画には嫉妬めいた感情を抱いていたようです。あの頃見たもののなかでは──たしか岩波ホールあたりでだったと思いますが──ルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』とマルセル・デュシャンがつくった『アネミック・シネマ』が印象に残りました。

『アンダルシアの犬』には画家サルバド−ル・ダリが協力しています。そしてデュシャンは、いってみれば現代美術の父みたいな人でした。それぞれの作品は映画というよりも「映像」に近いものと感じましたが、それが製作された時期(1928年,1926年)に、映画の勢いが加速されつつあったこと――サイレントからトーキーへの移行など――を考えれば、そこに込められていたのは映像に対する美術家の好奇心ばかりではなかったように思えてくるのです。

どこかに自分の立場についてのもどかしさ、あせりといった微妙な感情までが混じっていたのではないかと邪推します。まあ、ダリもデュシャンもぶっ飛んだ人でしたから、定かではありませんが。デュシャンについては洋書でインタビューなども読んでいました(当時は訳本がなかったと思います)。映画に関しては、さて何と言ったか‥‥すいません、古いことで忘れちゃいました。貴方の示される「批評性」と結びつくものではないかもしれませんが、また読んでおきます。

その後のわたしは映画案内をしてくれる友人にすすめられて、ぽつりぽつりと見ていました。とくに87年の公開時に渋谷で見たドキュメンタリー『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)などには、前述したのとは別の意味で衝撃を受けました。あの頃が映画にのめり込む最大のチャンスだったのでしょう。それでも空白ができてしまいました。まだ自分のなかで見えてこない問題があったからだと思います。くり返しになりますが、目に映るもののなかに潜む時間と空間についてといったことです。いまは映画のなかでそれを実感できるかもしれないと考えるようになりました。楽しみながらそれができればとも思います。

映画は必ずしも映画館で見なくてもよいのではないか、というご意見にも賛成です。映画はスクリーンの上にある。しかし、同時にこちらの網膜上にもあると思うからです。歴史性を意識するというほどでもないのですが、現在は、なるべく古い時代のものから順にビデオを借りて見ています。再会できたのが幸運です。今度はわたしの方が聞き手になる番かもしれませんね。

(イワサキ)
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