| YOUYOUFUTEKIJIN |
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今年は小津安二郎の生誕100年ということで、命日の12月12日を中心に、国内のみならず世界中でさまざまなイベントが開催されているようです。また新聞をみていても、小津に関する記事が頻繁に目にとまります。彼は“表現者”として、日本人にとって漱石に匹敵する「国民的作家」になっている観があります。少なくともわたしは、人が生きていくことの基層を深い洞察のもとで、わかりやすくかつ格調を失わずに作品化させたという点で、小津は漱石と比較しても遜色のない“表現者”であると確信しています。 ところで、新聞などで取り上げられている小津作品のイメージとして、「古きよき家族」を描いたものとして受けとられている面があるようです。しかしこのイメージは、一般に流布すると、危ういものになるように思えます。というのも、小津はたしかに多くの作品で、家のたたずまいや衣食住、人びとの所作などの面で現代ではもはやみられなくなった日本人の家庭生活を精緻に、愛惜をこめて描いていますが、その表現からはそうした古いものをことさらに称揚したり、それらを忘れ去ろうとしている時代に抗議し怒りをあらわすといった気配は微塵も感じとれないからです。消えゆこうとする古きものが「よきもの」で、立ちあがってくる新しきものが「あしきもの」であるという思想は小津には無縁なものです。 小津は、『宗方姉妹』(1950)のなかで、田中絹代が演じた姉の節子に、「新しいこととは古くならないこと」という台詞を幾度か語らせています。この台詞は、作品のなかでは、さまざまな点で大きく変貌した戦前から戦後(敗戦後)という時代をどのように受けとめて生きていくべきなのかという、状況的にみて切実な意味を投げかけていることばですが、わたしにはさらに、表現者としての小津の根本的な姿勢(思想)を示しているようにみえます。それは、作品の自立した価値(新しさ)は、本質的なもの(古くならないもの)としての真実をつかみえていることによって保証されるのだ、という考えです。 作品の新しさも、あるいはオリジナリティーと言い換えてもよいのでしょうが、それは作品が生みだされる時代に深く規定されているはずです。そういった意味で、作者はその感性のかぎりを尽くして、自らが身をおく時代をじゅうぶんに生きなければならないでしょう。しかし、ある時代はいずれつぎの時代へと移りゆきます。作品が自立したものとしての“新しさ”をもちうるためには、「流行」としての時代を鋭く、的確にとらえる感覚だけでは不十分です。なぜならば、それだけでは作品はいずれ古くなってしまうからです。 では、時代を超えて作品の新しさをささえ保証していく本質的なものとしての「不易」とは、小津にとって何なのでしょうか。それは、人は必ず人の子であり、人は子として親から去る、あるいは親を捨てる、という人間の本質への凝視であるようにわたしには思えます。小津は、人間の酷薄な本質を彼が生きた時代へのいとおしさをもって、厳しいまなざしで描き続けました。わたしには、たとえば『東京物語』は人間の本質にむけられた厳粛な認識と時代を生きる人びとへの限りない愛惜の情がみごとに結晶化した、奇跡的な達成のように感じられます。 人は必ず人の子であり、多くは人の親になります。これはこの世に生をうけたものの自然なかたちです。しかし、家庭を舞台として親子という世代間の関係(タテの関係)という視点から、過去と現在と未来を射程に入れている(したがって「死」をとりこんでいる)という意味で本格的に人の生の核心に迫ろうとした作品は、少なくとも日本では近代以降の表現史のなかではあまりみあたりません。多くの表現者は、家庭を夫婦間の愛や相克といったヨコの関係として、あるいはタテの関係は「母もの」や「父もの」というかたちをとることで描いてきました。たとえば、漱石の作品群の頂点をなすとともに、家庭を描いた近代文学の白眉でもあるとわたしにはみえる『道草』も、その峻厳なまなざしはひたすら夫婦というヨコの関係に注がれています。 明治以降の日本人にとって親子というタテの関係は、イエ制度ないしイエ意識の存続という現実のなかであまりにも自明でありあつかうにはヤボくさいものとして、あるいは自我に目覚めた近代的な個人の自由をはばむ忌むべきものとして、表現のテーマにはあまりなりにくかったのかもしれません。しかし、夫婦というヨコの関係からだけでは、テーマの幅という面で家族的な存在である私たちの生に十全には迫れないのではないでしょうか。なぜなら、夫婦という関係は次世代を産みだすためには不可欠ですが、テーマとしての夫婦は、ふたりの個人のかかわりから生じる出来事としてつねに現在的だからです。そこには、死にゆくべきもの、ないし死者としての先行世代(過去)や、託すべき者としての子供たち(未来)が主題的なかたちではテーマにのぼらないからです。さらにまた、すべての人が夫婦というヨコの関係をとり結ぶわけではありませんが、すべての人は例外なく“人の子”というタテの関係を自らの宿命として背負っているからです。 “人は人の子”、これは私たちの生の根源的な事実であるとともに、人をとらえるさいの最も重要な認識です。人は根源的なありかたとして、自我や人権の主体としての「個人」ではなく性的な存在としての「関係」を生きているという認識です。小津にとって描くべき現実とは、人びとが“人は人の子”として家族愛や友愛といった広い意味でのエロス的な場のなかで喜怒哀楽を生きていく世界でした。そうした世界こそが人が生きていくことの根本であるかぎり、それは彼にとってことさらに讃えたり告発したりするものではなく、受け入れるべき事実であったはずです。 とくに、人は人の子として親を捨てる、という現実に人の生の本質を洞察した小津にとって、人の現実とは、「受苦」として受け入れ、肯定することだったように思えます。彼は、監督の経歴のかなりはやい時期から、当たり前に生きる人々の生きざまを描きつつ、そうした創作の反復のなかで、“人は人の子という根源的な事実を優れた作品へと作りあげるための洞察と技を磨きあげていったと考えられます。 ここでわたしには、次のような問いが起こってきます。すなわち、小津はわたしたちにとってきわめて自明なことではあるがふだんはやりすごしてしまっている事実を、なぜ技を尽くして表現しようとしたのか。なぜわたしたちは、あたりまえのことを表現した作品によってこれほどの感動に打たれてしまうのか。これは小津という映画作家にむけられた問いであるとともに、わたしたち自身にむけられた問いでもあります。この問いは、小津作品に打たれたものにとってはひとつの誘惑です。この誘惑について、ここでわたしは自分なりの十分な応答ができる自信がありませんが、ひとつの確信はもっています。それは、小津という作家の倫理性ということです。 そもそも作品とは、どのようなジャンルのものでも、ひとつの表現である限り他者への訴えかけであり、また先人への応答です。つまり他者と交感することの希求をはらんだ人間的な営みです。こういった意味では、創作は倫理性をおびています。小津の作品は、そのテーマや内容からというよりも、創作の底にある姿勢の倫理的な厳しさという点で圧倒的です。おそらくこの厳しい倫理性が、わざとらしさを排した、こびない、無駄のない、しかし決してユーモアを手放さない小津の作風を支えているにちがいないとわたしには思えるのです。 何だかはなしが堂々めぐりになってきてしまったようです。「新しいことは古くならないこと」というフレーズをめぐって、独りよがりの生硬なことばで小津のまわりをひとめぐりしてしまいました。少し目が回ってきましたので終わりにさせていただきます。理屈好きの中年“オズチュウ”のくりごととして読みながしていただければ幸いです。
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| 返信 IWASAKI |
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しばらく映画をサボっていました。何をみていたのかといいますと古典落語のビデオばかり。そういえば、この分野にも「古くならない」優れた作品が数多く残されています。 八代目林家正蔵(彦六)はお気に入りの落語家のひとりで、晩年のゆったりとした語り口が好きでした。『戸田の河原』という噺は、ある男が昔捨てた女房と再会し、その女を殺してしまうという物語。男は悪を尽くして財をなしたが、かつて捨てた女のことを忘れたことはなかった。江戸での商談・接待の帰路、雪の降り積もる戸田の渡し場で再会した女房は「物乞い」に身をやつしている。男は、その積年の恨みを受け止め、これからは一緒に暮らそうと切り出すが、些細な行き違いからその場で女を斬り殺してしまう。正蔵の語りからは戸田の河原の茫茫とした雪景色がひろがります。 この噺は人間の酷薄さ、そしてこの世の「無常」までを描いているわけですが、観客はむしろ、枯れていながらも張りと艶を失うことのない正蔵の声、語りのリズム、それと哀しい物語とで構築される「フレーム」の中に誘い込まれることを楽しみます。落語は直接話法、関節話法を駆使して、上半身の身ぶりや表情の変化だけで人物のみならず周囲の環境・空間までを描き出すもので、いわば究極の一人芝居ともいうべき表現形式です。パフォーマンスが即作品として成立するので、演者(作者)と作品(表現されたもの)とを分けて受け取るのは難しいわけですが、表現のあらゆる分野にわたって、このふたつの関係は微妙で興味深いものです。 前置きが長くなりました。小津の『晩春』のビデオを、一年ぶりにですが、借りてきました。じつはこの映画のなかに以前から気になっている箇所があって、そのことを考えているのです。物語や筋立てではなくて、映像そのものです。これはいったいどうしたことなのだろうと。 その場面は映画開始から24分経過したあたりで始まる、紀子の父・周吉(笠智衆)と周吉の妹の田口まさ(杉村春子)の会話のシーンです。まさの家の畳の部屋での会話という設定です。手前の畳の上で和服の手入れをするまさと奥の籐椅子に掛けた周吉が写し出されます。周吉の横には籐製のテーブルがある。そのテーブルの位置です。このシーンでは周吉とまさの会話にあわせてそれぞれのバストアップ(胸部から上の映像)が交互に挿入されます。会話の前と途中、そして終りに部屋全体を写すカットが計三回。その三回目のときに籐製のテーブルが、推定15センチほど右に移動しているのです。こういう“瞬間移動”が起きるのは、小津とMr.マリック以外にはあり得ません。 とくに長いカットというわけではないので、音声に集中していると気づかない部分だと思います。わたしは小津の映画については、画像の美しさだけを楽しみたいと思うことがあり、音を消してみたりもします。それで意識するのでしょうが、このシーンでは、画面一番手前の中央付近に置かれたガラス瓶も三回目のカットのときに移動します――これについてはわずかばかり左へ。部屋を写す撮影カメラの位置は一回目のものと、そして二回、三回目というように、ふたつあるようですが、その視野の違いを考慮しても物の位置は変更されているのではないでしょうか。室内の映像の多い小津映画ではスクリーンの隅々にまで細かい計算と配慮がなされているようです。 小津の映画製作についてのわたしの知識は一般的なもので、独特のロー・アングルであるとか短いカットを継ぎ合わせて映像を構成していくような手法のこと、そして独自のスタイル完成以降は、撮影用カメラの位置や角度をカメラマン任せにしないで、すべてを小津本人が決めていたということ、などです。そこからでも容易に想像できるのは、この小道具の移動のような「リアリズム上の連続性」をさしおいても、彼には優先させたいものがあったのだろうということです。それにしても、家の中で人物が移動する場面など、部屋から立ち去って別の場所にあらわれるまでの時間を省略せずに無人の部屋を写し続けるようなリアリズムを徹底させた小津が、こと画面の扱いについては、別の意味できわめて細心かつ大胆であったことに驚かされるのです。 あちこちでいわれていることですが、小津映画のなかの場面は、どのカットをみても緻密に画面構成されていて美しいものです。人物や小道具、それぞれは常に襖や障子などの水平線・垂直線を考慮して配置されています。もちろんこのバランスは単に平面的なそれではなく、奥行きを認識させる斜めの線、つまり手前から奥に向かう鴨居や梁、敷居などによって構成される三次元の空間も意識されたものです。画像だけを眺めていると、ときには、主役は人間ではなくてこの空間そのものではないかとさえ思うくらいです。 日本家屋という「舞台」でくりひろげられる抑制のきいた小津の人間ドラマを揶揄して、かつて「床の間芸術」という言葉が流用されたことがあるのを知りました。「床の間芸術」は日本の伝統的な美意識に根ざした書画、その他を指すと思いますが、そこには“乙にすました高級品”といったニュアンスもあると思います。その言い方が果して小津映画を評するのに適していたかどうかは別として、画像のひとつひとつが常にスクリーン上の「構図」をつよく意識したものであり、俳優たちの派手な動きの見られないその作品の各場面が、ときとして一種の「静止画(像)」に近い印象を与えることがあるのもたしかでしょう。 画像の諧調が徐々に薄くなって消えていくような、いわゆるフェイド・アウトや、その逆のフェイド・インのような手法を避け、映像加工による曖昧な「繋ぎ」の部分を排して構成された小津の映像は、それぞれのカットの長さが作品全体と緊密に連繋して独特の時間の流れと空間をつくりだしています。個々の映像の配分の妙とでもいうのでしょうか、この静かで、しかし、緊張感のゆきわたった画像相互のせめぎ合いが、映像として眺めた場合の小津映画の魅力のひとつであると思います。それは、あえて誤解を招く恐れのある言葉を使うなら、“絵画的”な画像が連続して展開する一種の“紙芝居的”な映像ということになるかもしれません。 ところで、『晩春』をみると、小津自身が美術(なかでも絵画)について一定以上の(もしかして、並々ならぬ)関心を抱いていたことが想像できます。ひとつは紀子が街で父の友人・小野寺と出会って一緒に美術展に行く場面であり、もうひとつは紀子の友人・北川アヤの家に掛けられた一枚の絵です。 美術展は画面に映し出されたポスターにあるように、「第三回連合展」であり、これは実在した展覧会です。正式名称は「美術団体連合展」といい、毎日新聞社の主催で第一回(1947)から第五回(1951)まで続きました。開催の主旨は、戦時中の戦争画や時局画といったムードを一掃し、民間主導のかたちで在野の作家たちに発表の機会を与えるというものでした。第三回展(1949年、すなわち『晩春』完成の年)には在野の11団体が参加、千名近くの画家の作品が展示されています。小津は“時代の息吹き”をリアルタイムで画面に取り込みました。『晩春』には原作として〈広津和郎「父と娘」より〉とクレジットされていますが、原作と小津の作品とはかけ離れたものとも聞きますし、どうやら小津が美術関連について無関心だったとは考えにくいようです。 紀子(原節子)が訪れる友人・北川アヤ(月丘夢路)の家の壁に掛けられた女性像の絵画についてはその作者をほぼ特定できると思います。小津は画面上に三人の美女は要らないと考えたようで、女性像の首から上は画面に映らないように配置していますが、このマネキンのような女性を描く独特のスタイルは東郷青児のものでしょう。可能性としてはその亜流または撮影用につくられた“まがいもの”もあり得ます。当時、画壇の寵児的な存在だった東郷は、やがて美術界のボスに成り上がっていきます。じつは広津和郎が若い頃の東郷を贔屓にしていたという事実があり、小津は原作者に気を遣ったのかもしれません。しかし、そのような“しがらみ”で自分の映像を犠牲にする彼であったとも考えにくく、それならば小津は東郷を認めていたということにもなりそうです。画面上のさまざまな小道具にもこだわり続けた小津ですからその可能性はあります。 東郷は戦後美術界の首領のひとりとして、その功罪がともに語り伝えられる人物です。某美術団体を私物化してしまったという話はあまりにも有名ですが、作品自体の評価は分かれます。戦後は絵画をビジネスととらえ、印刷物という手段で自らとその一派の作品を流布させ、また猛烈な勢いで描きとばしました。――わたしはあるところで東郷の絵の実物(ちょうど小津の映画にでてくるような様式化された洋風美人画)を三枚、実際にこの手にとってじっくりと眺めたことがあります。出所・来歴が確実なので本物とわかるのですが無署名でした。サインをするヒマさえなかったのかもしれません。 そうした彼の作品のなかで真に値打ちのあるものは、戦前の若き日に描いた滞欧作のいくつかです。当時のヨーロッパの“モダン”のひとつ「未来派」に現地で取り組んだ日本人画家としては彼が最初の人なのです。ちょうど明治の頃に黒田清輝がヨーロッパから「印象派風の外光表現」を持ち帰ったように、そしてその後、里見勝蔵・佐伯祐三らが「フォービスム(野獣派)」を伝えたように、東郷は戦前の最先端を日本に紹介しました。彼の滞欧作とその歴史的な意義までを否定する者はいません。戦後、岡本太郎が「シュル・レアリスム(超現実主義)とアブストラクション(抽象)というアヴァンギャルド(前衛)」を携えて帰国する以前のことです。そうした事実を小津が知らないはずはなく、同時代の俊英・東郷を認め、その絵(または、その亜流)を“小津好み”の小道具に加えたということになるのでしょうか。そうした背景には、あるいは小津の「モダン」への関心があったのかもしれません。 先に小津の映画を“紙芝居的”としたのは、過剰な効果をそぎ落とし、映像本来のもつ要素のみで映画をつくったことの印象を言いたかったのですが、これは小津に先行する巨匠の作品(例えば溝口健二のような)では考えられないことです。小津自身も初期の作品では各種の効果を使用していたことが知られていますが、次第にこのシンプルなスタイルを確立していったということで、映画の原点というべきか、その原初のあたりについてはいつも意識していたのではないかとも思います。 わたしは映画は好きですが、(その分野の)批評ファンではないので、無理なく思い浮かべることができるのは映画と美術が比較的近い位置にあった時期のわずかなことがらだけです。 リュミエール兄弟によって映画が発明されるすこし前のことです。映像と美術が同じスタート・ラインに立っていた時期がありました。そのころのフランスにエティエンヌ・ジュル・マレイという医者がいて、この人は「写真銃」というものを発明しました。「銃」といっても、これは高速度連続シャッターのついたカメラのことであり、彼はこの写真銃で運動中の人間や動物を撮影しています。動く被写体をコマ送りのようにして撮影できるわけですから、これを一枚の印画紙に焼き付ければ「運動」の全貌が再現できるわけです。わたしが資料としてもっているマレイの写真の複写はフェンシングをする男の姿で、中腰で剣を構えた姿勢から体を前傾させて剣を突き出した状態までの数コマが撮影・印画されています。これは1880年に撮影されたもので、正式には「運動分析写真」と呼び、素朴なアニメーションをみているような趣があります。 VTRのスロー再生が当たり前の今日では、この写真は驚くほどのものではありません。しかし「運動」を写すことの本質は「時間」を客体化することですから、発想としては凄いものです。マレイの「運動分析写真」は、他の人びとのいくつかの発明と同様に「映画」の“ご先祖さま”とされています。 一方の美術ですが、20世紀の始め、フランスで「立体派」、イタリアで「未来派」の革新的な芸術運動が台頭します。とくに「未来派」の絵画については以前にも書きましたが、「ムカデの足状態」の運動を描いた作品がいくつもあります。これは誰がどう見てもマレイの写真の影響下、というか、ハッキリ言って“そのまんま”です。現代美術史のなかの最重要人物のひとり、フランス出身のマルセル・デュシャンの絵画についてもマレイの影響がしばしば指摘されてきました。ついでにですが、仮にピカソを立体派の画家のひとりとして捉えるなら、彼が描くところの女性の正面と横向きの顔を組み合わせた姿は、一見して新しい創造物のように思えますが、じつはひとつの対象物についての時相を変えたイメージの合成であるとも解釈できます――空間はいつも時間と連動しているわけですから。マレイの偉大な発明は(というよりむしろ、写真技術の発達は)映像と美術の両分野を煽りたてました。その結果、「吉」と出たのが映画の誕生だったようです。 ここで抽出されるべきなのは、平面(とくに絵画、場合によっては映画)がどんな時空間を表現できるのか、という問いなのかもしれません。たとえば、かつてルネサンス期に発明された「遠近法」は人間の視覚を合理的に再現するものと思われたことがありました。しかし実際には額縁という枠で羊羹の切り口のように切断された平面が、凹レンズのような曲面をもつ人間の網膜と一致することはありません。また、印象派はプリズムで分光された色を頼りに描こうとしましたが、その描くための材料である絵具は物質であるがゆえに、その色は反射光であってプリズムの透過光とは別のものです。これらの場合、表現におけるリアリティ(真実)とはこの仮構を前提としたそれであり、つまりは、すべてがフレームのなかの約束事にもとづく事態に過ぎません。「絵画」の枠内と限定すれば、有史以来、根源的な意味で新しい何かが付け加えられたことはなかったのではないか、と思っています。さまざまな“イズム”や発見は、結果的にこのフレームの存在だけを浮き彫りにして、創造よりはむしろ解体に拍車をかけました。ポスト・モダン以降の芸術(美術)上の実験は、常にその枠の外側での(またはそこを意識しながらの)現在進行形ということになるのでしょう。 今日眺めるところのマレイの「運動分析写真」は単に映像史上の資料としてだけでなく、「表現された作品」としての風格を備えています。そう成り得ているのは、塵のように降りそそいだ時間の堆積のためではなく、おそらくは、“最初の一歩”を踏み出すことのできた作者の喜びと自負とがその画面に焼き込まれているからではないでしょうか。わたしはそこに小津の創作態度にみる表現者としての挟持と共通するものを感じるのです。 「新しいこととは古くならないこと」という、悠悠さんが引用した小津映画のフレーズを受けてわたしが思うところは、じつは過去と現在とは同じ地平にあって、そこに断絶や対立はないのではないだろうかということです。相互の距離は限り無くゼロに近い。従ってノスタルジーの入り込む隙間もない。近頃はそんなふうに思い始めています。しかし、いくら近くてもこの手が簡単に届くわけもなく、もどかしさは残ります。そこでただの思いつきですが、とりあえず「幻視」という言葉でも使ってみようかなどと考えたりしているのです。
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